第1話『リン』
『泣いたあの日』
第1話「リン」
銀色の針を回転させている白い目覚まし時計の、その音だけがこつ、こつ、と真っ暗な部屋のベッドの上で壁に目を向けている私に「ねろ、ねろ」と耳打ちし、勝手に時を進めていく。
私はただ目を閉じて、なんどか深い呼吸をして見るたびに、肺が膨らみきらない気持ち悪さを味わい、足が布団から出て夏の夜寒に晒されてしまわないようにしていた。
——眠れるはずがなかった。
同級生である不良グループは時々、中学生の不良を連れてきては、プール前のかび臭い倉庫にしまわれた、黄ばんでいてほこり臭い体育マットに叩き付けては、私に痛みを与える。
そのときはただ従順になりながら痛みと苦しさを耐えて、時間が早く過ぎるのを待つのだ。
そして、家に帰ってすぐにお風呂で必死に汚れを落とし、お父さんのカミソリを使って少し気を落ち着かせてから、家族にバレないように石鹸でその臭いを消した。
まだヒリヒリと痛む左腕を掴み、背を丸くして布団の中に頭を隠すとようやく時計の音は聞こえなくなり、代わりに湿った息苦しさが喉奥に支えて、5分もしないうちにまた顔を布団から出しては、叫んで壊れてしまいたい気持ちを耐え続けるだけだった。
ジリリリリ、と爆音で鳴り響く目覚まし時計の音は、まだ寝足りない私のことを嘲笑うかのように「起きろ起きろ」と騒ぎ立てるので、私は少し乱暴にその頭を叩いてやった。
カーテンを開けると、斜めに指した朝の光が目に飛び込み、強制的に私を現実に引き戻しながら机の上に用意してある赤いランドセルを照らす。
それでも重く、ところどころ痛む体は朝を受け入れたがらずに、まだ温かいままの布団は私を堕落に導こうとしていた。
……このままお昼まで寝ていられたら、どれだけ幸せなんだろうな。
休んじゃいたい、学校に行ったらまた、みんなに無視されて、あいつらに蹴飛ばされて、嫌な気持ちになるだけだから。
そんな泣きたくなるくらい切実な願いを否定するために、一階のキッチンから、お母さんは家中に響き渡る大声で私を呼んだ。
「リンー! ちゃんと起きてるー!?」
「起きてるよーっ! 今行く!」
普通の小学生がそうであるように、お母さんに心配をかけないように私も元気に振る舞いながら、急いでベッドの上の布団を畳み、少し傷の目立つランドセルを持つ。
早く起きなければ今度はお父さんの怒鳴り声が聞こえてきてしまうから、とにかくわざと足音を立てて、起きていることをアピールしながら、焼けたパンとバターの香りが漂ってきている階段を降りた。
「おはよう、ちゃんと寝れた?」
「——うん、大丈夫だよ」
リビングの机の横にランドセルを置き、トースターの「焼けたっ!」という音を聞いて皿を用意した母に、私はパジャマ姿のまま声をかけてから、洗面所へと向かう。
途中で煙草の臭いが漂う廊下の物置きの少し重たい扉をスライドさせて、古いプラスチック製の引き出しから着替えを手に取り、また閉じる。
それから急いで顔を洗い、父が朝の喫煙から帰ってくる前に着替えを済ませ、脱ぎ捨てたパジャマをドラム式洗濯機の中に投げ入れたのだった。
「……それでリン、学校ではどうなんだ」
真っ黒いスーツを着て真っ黒いコーヒーを啜りながら新聞紙と睨み合う父の唐突な質問に、私は噛んだばかりのパンを思わず手から落としそうになりながら、急いで牛乳で飲み込んだ。
「元気に、やってるよ」
「そうか」
父の中にある私は成績優良な子供で、悩みも憂いもなく健やかに育つ良い子なのだ。
——そうでなければ、父は認めない。
小さい頃から間違いを起こせば必ず怒鳴られ、失敗すれば強く叱られ、なにかをお願いしようとすれば嫌な顔をする父は、きっと私——理想的じゃない本当の私のことを、誰よりも嫌うだろう。
元はといえば、父が私にちゃんとした身なりを整えさせてくれなかったことから始まったイジメなのに、父はきっと一生、そのことを知る日は来ない。
……私は、皆にいじめられているのだ。
不良たちからあらゆる形の暴力を受け、クラスメイトからは無視され、その親たちや先生でさえ、お父さんの怖さを知っているから私に関わろうとはしない。
誰にも頼れないまま、誰かに「助けて」と言うことすら出来ないまま、私は普通の女の子であり続けることを求められていた。
テストは全部100点で当たり前、成績も体育以外は全部5で当たり前、優秀な数字と優秀な生活態度が当たり前で、それを崩せば必ず怒鳴られる。
だから——私は、お父さんがこの世の誰よりも怖かったのだ。
「なら、俺は先に仕事に行ってくる」
白いマグカップをカチャンと器の上に乗せながら新聞を畳んだ父は、それを投げるように机の上に置き真っ黒いカバンを手に取ると、コーヒーの香りの風を吹かせながら、私の後ろを通って玄関へと向かっていった。
……これでようやく朝の緊張する時間は終わり、私は安心してパンにゆっくり噛みつけた。
これが赤星《あかほし》家の朝のルーティンで、これが私の日常だった。
第1話「リン」
銀色の針を回転させている白い目覚まし時計の、その音だけがこつ、こつ、と真っ暗な部屋のベッドの上で壁に目を向けている私に「ねろ、ねろ」と耳打ちし、勝手に時を進めていく。
私はただ目を閉じて、なんどか深い呼吸をして見るたびに、肺が膨らみきらない気持ち悪さを味わい、足が布団から出て夏の夜寒に晒されてしまわないようにしていた。
——眠れるはずがなかった。
同級生である不良グループは時々、中学生の不良を連れてきては、プール前のかび臭い倉庫にしまわれた、黄ばんでいてほこり臭い体育マットに叩き付けては、私に痛みを与える。
そのときはただ従順になりながら痛みと苦しさを耐えて、時間が早く過ぎるのを待つのだ。
そして、家に帰ってすぐにお風呂で必死に汚れを落とし、お父さんのカミソリを使って少し気を落ち着かせてから、家族にバレないように石鹸でその臭いを消した。
まだヒリヒリと痛む左腕を掴み、背を丸くして布団の中に頭を隠すとようやく時計の音は聞こえなくなり、代わりに湿った息苦しさが喉奥に支えて、5分もしないうちにまた顔を布団から出しては、叫んで壊れてしまいたい気持ちを耐え続けるだけだった。
ジリリリリ、と爆音で鳴り響く目覚まし時計の音は、まだ寝足りない私のことを嘲笑うかのように「起きろ起きろ」と騒ぎ立てるので、私は少し乱暴にその頭を叩いてやった。
カーテンを開けると、斜めに指した朝の光が目に飛び込み、強制的に私を現実に引き戻しながら机の上に用意してある赤いランドセルを照らす。
それでも重く、ところどころ痛む体は朝を受け入れたがらずに、まだ温かいままの布団は私を堕落に導こうとしていた。
……このままお昼まで寝ていられたら、どれだけ幸せなんだろうな。
休んじゃいたい、学校に行ったらまた、みんなに無視されて、あいつらに蹴飛ばされて、嫌な気持ちになるだけだから。
そんな泣きたくなるくらい切実な願いを否定するために、一階のキッチンから、お母さんは家中に響き渡る大声で私を呼んだ。
「リンー! ちゃんと起きてるー!?」
「起きてるよーっ! 今行く!」
普通の小学生がそうであるように、お母さんに心配をかけないように私も元気に振る舞いながら、急いでベッドの上の布団を畳み、少し傷の目立つランドセルを持つ。
早く起きなければ今度はお父さんの怒鳴り声が聞こえてきてしまうから、とにかくわざと足音を立てて、起きていることをアピールしながら、焼けたパンとバターの香りが漂ってきている階段を降りた。
「おはよう、ちゃんと寝れた?」
「——うん、大丈夫だよ」
リビングの机の横にランドセルを置き、トースターの「焼けたっ!」という音を聞いて皿を用意した母に、私はパジャマ姿のまま声をかけてから、洗面所へと向かう。
途中で煙草の臭いが漂う廊下の物置きの少し重たい扉をスライドさせて、古いプラスチック製の引き出しから着替えを手に取り、また閉じる。
それから急いで顔を洗い、父が朝の喫煙から帰ってくる前に着替えを済ませ、脱ぎ捨てたパジャマをドラム式洗濯機の中に投げ入れたのだった。
「……それでリン、学校ではどうなんだ」
真っ黒いスーツを着て真っ黒いコーヒーを啜りながら新聞紙と睨み合う父の唐突な質問に、私は噛んだばかりのパンを思わず手から落としそうになりながら、急いで牛乳で飲み込んだ。
「元気に、やってるよ」
「そうか」
父の中にある私は成績優良な子供で、悩みも憂いもなく健やかに育つ良い子なのだ。
——そうでなければ、父は認めない。
小さい頃から間違いを起こせば必ず怒鳴られ、失敗すれば強く叱られ、なにかをお願いしようとすれば嫌な顔をする父は、きっと私——理想的じゃない本当の私のことを、誰よりも嫌うだろう。
元はといえば、父が私にちゃんとした身なりを整えさせてくれなかったことから始まったイジメなのに、父はきっと一生、そのことを知る日は来ない。
……私は、皆にいじめられているのだ。
不良たちからあらゆる形の暴力を受け、クラスメイトからは無視され、その親たちや先生でさえ、お父さんの怖さを知っているから私に関わろうとはしない。
誰にも頼れないまま、誰かに「助けて」と言うことすら出来ないまま、私は普通の女の子であり続けることを求められていた。
テストは全部100点で当たり前、成績も体育以外は全部5で当たり前、優秀な数字と優秀な生活態度が当たり前で、それを崩せば必ず怒鳴られる。
だから——私は、お父さんがこの世の誰よりも怖かったのだ。
「なら、俺は先に仕事に行ってくる」
白いマグカップをカチャンと器の上に乗せながら新聞を畳んだ父は、それを投げるように机の上に置き真っ黒いカバンを手に取ると、コーヒーの香りの風を吹かせながら、私の後ろを通って玄関へと向かっていった。
……これでようやく朝の緊張する時間は終わり、私は安心してパンにゆっくり噛みつけた。
これが赤星《あかほし》家の朝のルーティンで、これが私の日常だった。
第2話『間違い』
第2話「間違い」
私は毎日、朝食を食べ終えてすぐ、7時20分頃には家を出る。
早めに家を出なければ母の家事の邪魔になってしまうし——父という共通の脅威から解き放たれた母が、日に日に増えていく傷跡に気付いてしまう可能性があったからだ。
しかし7時30分に校門をくぐっても、すぐには校舎に入らず、朝の会の時間ぎりぎりまで学校のすぐ横にある公民館の花時計をフェンス越しに眺める。
色とりどりの花の香りがときおり涼しい風に乗って運ばれてくることを知ってからは、この朝の逃避行が一日の中でも僅かな安らぎの時間になっていた。
低学年の子たちは朝から無邪気に遊具やボールで遊んでいて、元気な声が校舎と公民館の間に響いている。
そんな明るい日常から外れて、ランドセルを抱えながら乾いた排水口に足を突っ込んで座る私は、いつの間にかそれを羨ましいとも感じなくなっていた。
——この場所は、影だった。
誰にも気付かれないように一人で泣くのに丁度良くて、せっかくの穏やかな時間なのに、今日はほとんどうつむいて、髪の毛で顔を隠すようにしながら涙を流していた。
……私は、何を間違えてしまったんだろう。
こんなに罰されるほどの間違いを犯して、私は何を正せばいいんだろう。
ずっと、ずっと考えながら時間が過ぎていくのを待ち、花時計の長針が天辺《てっぺん》を指す前には登下校口の前の冷たい水道水で顔を洗い、ハンカチで目元の腫れを収めた。
そしてようやく校舎に入り、いつも通り上履きに仕込まれた画鋲を元のポスターに戻してから、恐る恐る階段を上がる。
『うわ、リンだ。なんで学校来るんだろう?』
『近付いちゃだめだよ、リン菌が伝染《うつ》るから』
三階の廊下ですれ違う同級生たちは、私を指差しながらひそひそと噂話を始めるので、私はただうつむいて顔を隠しながら逃げるように五年二組の教室に飛び込んだ。
リン菌というのが、本当にある——しかも、性病の原因であると知った同級生たちは、喜んで私を『汚い女』扱いしていた。
本当に私が昨日『汚された』ことは知らないはずだが、嫌でも連想されるその行為——昨日の痛みを思い出してしまった。
頭の中でよみがえる恐怖を断つために、急いでランドセルから教科書とノートを取り出して後ろの棚にしまってすぐに、髪の毛を掴んで歯を食いしばり、肘をついて乱れる呼吸を必死で抑えた。
『……きっも、なんかハァハァ言ってる』
『リン菌で頭おかしくなってるんでしょ』
私のことを嘲笑う声が席の前後左右から聞こえてきて、誰一人としてそれを止めようとはしない。
いじめに関与しないようにしている人も、ただ見てみぬふりをするだけだった。
——関われば、自分まで『標的』になると分かっているから。
そんな教室で誰とも目を合わせないようにしながら、中途半端に出入りしようとする呼吸を必死で飲み込んで収めようとしていると、背後から一瞬聞きなれた意地の悪い笑い声が聞こえて、次の瞬間、後頭部に衝撃が走った。
「ゃっ!」
急に頭を押されて、私は上手く叫ぶことすら出来ず、そのまま誰かに髪の毛を掴まれる。
すぐに背後からは二人の不良が大笑いする声が響き、私は苦痛で歪んだ汚い顔を、無理やり前の席に晒させられた。
少し前の方の席に座る、物静かな女の子と思い切り目があったが、彼女はすぐに目を逸らして無関係を貫く。
そんな光景を見せつけられてすぐに、不良は私の頭を突き放し、他の男子生徒の方へと向かったようだった。
「おら、リン菌くらえー!」
「うわっ、やめろよ汚い!」
彼らは廊下の方へと飛び出していき、私の『汚《けが》れ』をなすりつけ合う鬼ごっこを始め、朝のチャイムが鳴るまで走り回っていた。
私もいじめの対策方法について、調べたことがないわけじゃなかった。
そこにはいつだって『無視しなさい』『関わらないようにしなさい』と書かれていて、それを書いた人が『想像だけでいじめを語っているのだ』とすぐにわかってしまうようなものばかりだった。
それでもう少し難しい、いじめの原因についての本を読んで分かったのは『|イジメられる側《私》にも原因がある』ということだった。
みんなに馴染めなかったり、人と違うことをしてしまったり、そういう『違い』が重なった人が『標的』になってしまうんだと、その本には書いてあった。
どうしていじめられているのかを理解する——つまり、私が『何を間違えているのか』を知らなければ、解決なんて出来ないらしい。
……言い訳をしたいわけではないけれど、私は多分、もうその『間違い』を正しているし、いじめられる理由なんてないはずなのに。
私には、理由なんて関係なく『標的』だからいじめられているようにしか見えなくても、お父さんに叱られるのと同じで、私が『間違っている』からひどい目に遭っているんだと、その本は説明していた。
あるいは『標的』になったこと自体が『間違い』だというのなら——きっとそうなんだ、私はもう、これを耐え続けるしかないのだ。
誰かに——助けてもらえるまで、きっとこのいじめは終わらないんだろう。
私は毎日、朝食を食べ終えてすぐ、7時20分頃には家を出る。
早めに家を出なければ母の家事の邪魔になってしまうし——父という共通の脅威から解き放たれた母が、日に日に増えていく傷跡に気付いてしまう可能性があったからだ。
しかし7時30分に校門をくぐっても、すぐには校舎に入らず、朝の会の時間ぎりぎりまで学校のすぐ横にある公民館の花時計をフェンス越しに眺める。
色とりどりの花の香りがときおり涼しい風に乗って運ばれてくることを知ってからは、この朝の逃避行が一日の中でも僅かな安らぎの時間になっていた。
低学年の子たちは朝から無邪気に遊具やボールで遊んでいて、元気な声が校舎と公民館の間に響いている。
そんな明るい日常から外れて、ランドセルを抱えながら乾いた排水口に足を突っ込んで座る私は、いつの間にかそれを羨ましいとも感じなくなっていた。
——この場所は、影だった。
誰にも気付かれないように一人で泣くのに丁度良くて、せっかくの穏やかな時間なのに、今日はほとんどうつむいて、髪の毛で顔を隠すようにしながら涙を流していた。
……私は、何を間違えてしまったんだろう。
こんなに罰されるほどの間違いを犯して、私は何を正せばいいんだろう。
ずっと、ずっと考えながら時間が過ぎていくのを待ち、花時計の長針が天辺《てっぺん》を指す前には登下校口の前の冷たい水道水で顔を洗い、ハンカチで目元の腫れを収めた。
そしてようやく校舎に入り、いつも通り上履きに仕込まれた画鋲を元のポスターに戻してから、恐る恐る階段を上がる。
『うわ、リンだ。なんで学校来るんだろう?』
『近付いちゃだめだよ、リン菌が伝染《うつ》るから』
三階の廊下ですれ違う同級生たちは、私を指差しながらひそひそと噂話を始めるので、私はただうつむいて顔を隠しながら逃げるように五年二組の教室に飛び込んだ。
リン菌というのが、本当にある——しかも、性病の原因であると知った同級生たちは、喜んで私を『汚い女』扱いしていた。
本当に私が昨日『汚された』ことは知らないはずだが、嫌でも連想されるその行為——昨日の痛みを思い出してしまった。
頭の中でよみがえる恐怖を断つために、急いでランドセルから教科書とノートを取り出して後ろの棚にしまってすぐに、髪の毛を掴んで歯を食いしばり、肘をついて乱れる呼吸を必死で抑えた。
『……きっも、なんかハァハァ言ってる』
『リン菌で頭おかしくなってるんでしょ』
私のことを嘲笑う声が席の前後左右から聞こえてきて、誰一人としてそれを止めようとはしない。
いじめに関与しないようにしている人も、ただ見てみぬふりをするだけだった。
——関われば、自分まで『標的』になると分かっているから。
そんな教室で誰とも目を合わせないようにしながら、中途半端に出入りしようとする呼吸を必死で飲み込んで収めようとしていると、背後から一瞬聞きなれた意地の悪い笑い声が聞こえて、次の瞬間、後頭部に衝撃が走った。
「ゃっ!」
急に頭を押されて、私は上手く叫ぶことすら出来ず、そのまま誰かに髪の毛を掴まれる。
すぐに背後からは二人の不良が大笑いする声が響き、私は苦痛で歪んだ汚い顔を、無理やり前の席に晒させられた。
少し前の方の席に座る、物静かな女の子と思い切り目があったが、彼女はすぐに目を逸らして無関係を貫く。
そんな光景を見せつけられてすぐに、不良は私の頭を突き放し、他の男子生徒の方へと向かったようだった。
「おら、リン菌くらえー!」
「うわっ、やめろよ汚い!」
彼らは廊下の方へと飛び出していき、私の『汚《けが》れ』をなすりつけ合う鬼ごっこを始め、朝のチャイムが鳴るまで走り回っていた。
私もいじめの対策方法について、調べたことがないわけじゃなかった。
そこにはいつだって『無視しなさい』『関わらないようにしなさい』と書かれていて、それを書いた人が『想像だけでいじめを語っているのだ』とすぐにわかってしまうようなものばかりだった。
それでもう少し難しい、いじめの原因についての本を読んで分かったのは『|イジメられる側《私》にも原因がある』ということだった。
みんなに馴染めなかったり、人と違うことをしてしまったり、そういう『違い』が重なった人が『標的』になってしまうんだと、その本には書いてあった。
どうしていじめられているのかを理解する——つまり、私が『何を間違えているのか』を知らなければ、解決なんて出来ないらしい。
……言い訳をしたいわけではないけれど、私は多分、もうその『間違い』を正しているし、いじめられる理由なんてないはずなのに。
私には、理由なんて関係なく『標的』だからいじめられているようにしか見えなくても、お父さんに叱られるのと同じで、私が『間違っている』からひどい目に遭っているんだと、その本は説明していた。
あるいは『標的』になったこと自体が『間違い』だというのなら——きっとそうなんだ、私はもう、これを耐え続けるしかないのだ。
誰かに——助けてもらえるまで、きっとこのいじめは終わらないんだろう。
第3話『中学校』
第3話「中学校」
私が『汚された』あの日から一年半が経ち、私は中学生になった。
両親の前で袖を通した新品の学生服は、入学から一ヶ月も経たないうちに汚され、平日のうちからバレないように何度も石鹸で洗った。
——中学生になっても、いじめは終わらなかった。
それどころか、他の小学校の不良と合流した不良たちのいじめはエスカレートして、私は何度も階段から突き飛ばされ、何度も気持ちの悪いことをされた。
最初のテストで満点を取ったお祝いに買ってもらったスマートフォンの画面にもすぐにヒビが入り、それが父に知れて、私はリビングの冷たい床の上で正座をさせられていた。
「リン。なぜお前はものを大切にしないんだ」
「ご、ごめんなさい……転んじゃって、それで……」
「言い訳をするな! 携帯電話は安くないんだぞ!」
……また怒鳴られてしまった。
スマートフォンを所持していることがあいつらにバレたのが間違いで、その罰がきっとこれだった。
怖くて息が出来なくなりながら、涙が溢れるのを抑えきれず、私はただいつものように「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝って、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
高校生になった上級生の不良の暴行は痛くて、小学校の倉庫が使えなくなってからは冷たいコンクリートの上で身体が震えるのを止められなかった。
成長したことで感じるようになった新しい恐怖も、奴らは気にも止めず、私はただ一人、吐きそうになりながら泣くしかなかった。
そんな日が続くうちに、私は今まで耐えてきていたこの痛みが、いつまでも止まらないのだろうと気付いてしまって、今までは切り傷を付けるだけで落ち着いていた心も、気を失いそうになるくらい風呂桶を染めても収まらなくなってきていた。
……もう、死んじゃおうかな。
いっそ死んじゃえば、あいつらに一矢報えるかな。
次第にそんなことを考えるようになり、眠れない夜にはスマートフォンの充電コードを首に巻き付けてみたり、お小遣いで買えるようになった薬を一気に飲んだり、一日でも早く楽になる方法を探し始めていた。
誰にも分かられないまま、誰にも『助けて』と言えないまま、私は死ねる日を待っていた。
——けれど私が死ぬより先に、不良のいじめは止まった。
中学校に入学してから一ヶ月程経った頃、あいつらは私を『標的』にすることをやめたようだった。
理由は分からなかった、少なくともあいつらは私を待ち伏せして酷いことをするのをやめたし、急いで帰れば全く出会うこともなかった。
週末にスーパーの跡地に呼ばれることもなく、流石に私のことを『ばい菌』扱いすることもなくなっていたクラスメイトも、特に私のことをいじめようとはしてこなかった。
……耐えきったのだろうか。
私はあの地獄のような日々を、乗り越えたのだろうか。
分からない——分からないけれど、少し勇気を持って話しかけた別の小学校出身のクラスメイトは案外簡単に私を受け入れて、移動教室に付き合ってくれたし、何年かぶりに『普通』の会話相手になってくれた。
「凄いねぇ、リン。この前のテストで満点取ったんでしょ?」
「う、うん……その、最初だから簡単だったし……」
「うっわぁ、言うねぇ! 私300点くらいだったんだけど!」
「それはちょっとアンタが馬鹿すぎなだけー!」
そんな、他愛のない話。
多分みんなが『普通』にしてきたような、日常的な会話。
二人は私の過去を知らないまま、私の間違いを知らないまま、私のことを友人として受け入れてくれたのだ。
……でもいつか、もしも私の過去を知ってしまったのなら。
二人もきっと、他のみんながそうしてきたように目を逸らして、私を切り捨てるんだろう。
彼女たちを悪く言うつもりはないが、私にはその予感があった。
「ねえ、そういえば来週、東小で夏祭りあるんだけどさ、三人で一緒に遊びに行かない?」
「えー、行く行く。リンは?」
「あっ、うんっ! 一緒に行きたい!」
それでもきっと、私の『普通』はこれから始まって、明日も続く。
……私はようやく自分の『居場所』を見つけられたんだ。
わけも分からないまま手に入れた、この日常に溶け込んでいくうちに、きっと痛みも引いていくから——
私は自分にそう言い聞かせながら、自然と握られていた握りこぶしを解いて、手のひらの汗をスカートで拭った。
そして、夏祭りの日。
私たちは自転車にまたがり、東小学校にやって来た。
——そこで、私は彼と出会ったのだった。
『泣いたあの日』完
『過去を哭けよアルトラ』に続く
私が『汚された』あの日から一年半が経ち、私は中学生になった。
両親の前で袖を通した新品の学生服は、入学から一ヶ月も経たないうちに汚され、平日のうちからバレないように何度も石鹸で洗った。
——中学生になっても、いじめは終わらなかった。
それどころか、他の小学校の不良と合流した不良たちのいじめはエスカレートして、私は何度も階段から突き飛ばされ、何度も気持ちの悪いことをされた。
最初のテストで満点を取ったお祝いに買ってもらったスマートフォンの画面にもすぐにヒビが入り、それが父に知れて、私はリビングの冷たい床の上で正座をさせられていた。
「リン。なぜお前はものを大切にしないんだ」
「ご、ごめんなさい……転んじゃって、それで……」
「言い訳をするな! 携帯電話は安くないんだぞ!」
……また怒鳴られてしまった。
スマートフォンを所持していることがあいつらにバレたのが間違いで、その罰がきっとこれだった。
怖くて息が出来なくなりながら、涙が溢れるのを抑えきれず、私はただいつものように「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝って、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
高校生になった上級生の不良の暴行は痛くて、小学校の倉庫が使えなくなってからは冷たいコンクリートの上で身体が震えるのを止められなかった。
成長したことで感じるようになった新しい恐怖も、奴らは気にも止めず、私はただ一人、吐きそうになりながら泣くしかなかった。
そんな日が続くうちに、私は今まで耐えてきていたこの痛みが、いつまでも止まらないのだろうと気付いてしまって、今までは切り傷を付けるだけで落ち着いていた心も、気を失いそうになるくらい風呂桶を染めても収まらなくなってきていた。
……もう、死んじゃおうかな。
いっそ死んじゃえば、あいつらに一矢報えるかな。
次第にそんなことを考えるようになり、眠れない夜にはスマートフォンの充電コードを首に巻き付けてみたり、お小遣いで買えるようになった薬を一気に飲んだり、一日でも早く楽になる方法を探し始めていた。
誰にも分かられないまま、誰にも『助けて』と言えないまま、私は死ねる日を待っていた。
——けれど私が死ぬより先に、不良のいじめは止まった。
中学校に入学してから一ヶ月程経った頃、あいつらは私を『標的』にすることをやめたようだった。
理由は分からなかった、少なくともあいつらは私を待ち伏せして酷いことをするのをやめたし、急いで帰れば全く出会うこともなかった。
週末にスーパーの跡地に呼ばれることもなく、流石に私のことを『ばい菌』扱いすることもなくなっていたクラスメイトも、特に私のことをいじめようとはしてこなかった。
……耐えきったのだろうか。
私はあの地獄のような日々を、乗り越えたのだろうか。
分からない——分からないけれど、少し勇気を持って話しかけた別の小学校出身のクラスメイトは案外簡単に私を受け入れて、移動教室に付き合ってくれたし、何年かぶりに『普通』の会話相手になってくれた。
「凄いねぇ、リン。この前のテストで満点取ったんでしょ?」
「う、うん……その、最初だから簡単だったし……」
「うっわぁ、言うねぇ! 私300点くらいだったんだけど!」
「それはちょっとアンタが馬鹿すぎなだけー!」
そんな、他愛のない話。
多分みんなが『普通』にしてきたような、日常的な会話。
二人は私の過去を知らないまま、私の間違いを知らないまま、私のことを友人として受け入れてくれたのだ。
……でもいつか、もしも私の過去を知ってしまったのなら。
二人もきっと、他のみんながそうしてきたように目を逸らして、私を切り捨てるんだろう。
彼女たちを悪く言うつもりはないが、私にはその予感があった。
「ねえ、そういえば来週、東小で夏祭りあるんだけどさ、三人で一緒に遊びに行かない?」
「えー、行く行く。リンは?」
「あっ、うんっ! 一緒に行きたい!」
それでもきっと、私の『普通』はこれから始まって、明日も続く。
……私はようやく自分の『居場所』を見つけられたんだ。
わけも分からないまま手に入れた、この日常に溶け込んでいくうちに、きっと痛みも引いていくから——
私は自分にそう言い聞かせながら、自然と握られていた握りこぶしを解いて、手のひらの汗をスカートで拭った。
そして、夏祭りの日。
私たちは自転車にまたがり、東小学校にやって来た。
——そこで、私は彼と出会ったのだった。
『泣いたあの日』完
『過去を哭けよアルトラ』に続く
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