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第一章『噂』

おまけ:楽曲『過去を哭けよアルトラ』

第1話『ヤバい奴』

『過去を哭けよアルトラ』

 第1章『噂』

 ——多分、みんな知ろうとしないんだと思う。
 新しく誰かと向き合うとき、私たちは噂を頼りにその人を推し量ろうとする。
 もし誰かに悪い噂があったとしても、その噂が嘘か本当か、その背景が何だったのかなんてのは、みんな興味がないんだと思う。

 ただ「あの人はそういう人だ」と決め付けて、その人を悪人に仕立て上げて、その人をいじめることを『正当化』する。
 ——私は、それが許せなかったのかも知れない。
 みんなが言うから正しい、みんなと違うから間違ってる、という考え方に、私はずっと疑問を持っていた。

 私たちはきっと、人との向き合い方を知らないんだと思う。
 誰かが泣いていたって見ないふりをして、関係ないふりをする。
 だから彼はずっと一人で、誰にも気付かれないように、涙していたんだと思う。
 それでも誰かがいつの日か、気付いてくれると信じて。

 だから、私は手を差し伸べる。
 誰にも認められないその辛さを、私も知っているから——

———————
第1話『ヤバい奴』

 汗の冷たさを背中で感じる6月中旬の夕方過ぎ、東小学校で開かれていた夏祭りに、私はクラスメイトで友達の女の子二人と一緒に自転車で来ていた。
 地域ではそれなりに有名な祭りなのだが、聞いていた程に大きな規模ではなく、ヤグラを中心に、PTAや赤十字といった、地域の人が運営する屋台が十数箇所出ているだけだった。

 夕飯も食べずに遊びに来ていた私たちは、そばめしという、焼きそばとチャーハンが合わさったような、中華風の香りに紅ショウガが映える屋台飯を一つずつ購入した。
 それから、年季の入ったプラスチック製の白い椅子を円状——あるいは三角に並べて、野球ボールが飛んでいかないように設置されている緑色のネットの前で、食事をしながら談笑していた。

「これで200円なら、全然イオンで売ってても買うのにね」
「それじゃ利益出ないんじゃないの?」
「それはそう。やっぱり、リンって結構現実主義者だね」
「えー、そうかな」
「でも、イオンなら机もあるから300円は出せるよ」

 膝の上を机代わりにして三人で笑いあう中、私はふと、二人の向こう側にある鉄棒に目を向ける。
 ——そこには甚平を着た同い年くらいの男の子がいた。
 見た目は少し大きいが、同級生くらいに見える彼は、鉄棒の踏み台を移動させて背もたれにし、一番低い鉄棒の柱にそばめしを置いて食べていた。

「あ、あの子賢い。鉄棒を机にしてる」

 私の言葉で二人は振り返り、彼の姿を確認するなり「あー……」と、まるで気分でも悪くしたかのように声を漏らし、ほとんど同時にこちらに向き直った。

「リンは知らないんだ。アレ、同級生のアルトラだよ」
「アルトラ?」
「アレのあだ名。あいつ、本当にヤバい奴らしいから、関わっちゃ駄目だよ」
「ヤバいって、何が?」
「ただの問題児だよ、よく不良達と喧嘩してる」
「いや、問題児ってだけじゃなくって、アイツ、誰彼構わずすぐ手を上げるらしいよ。小学校の頃に、担任の車のタイヤに釘を刺してパンクさせたり、授業中にも大声で怒鳴ったり、挙句先生に殴りかかって大怪我させて、警察に連れていかれたこともあるんだって」

 二人のクラスメイトは向き合って、にやけながら話をする。
 その間私は、やけに寂しそうに、誰とも目を合わせないようにしながら、少し上の方を眺めているアルトラの方に注目する。
 二人は彼を怖がって――いや、面白がっているが、私にはむしろ、彼の方が周りを怖がっているように見えた。
 ——私も少し前までは、あんなふうに周りを眺めていたから。

「……ねえ、彼、ただいじめられてるだけとかじゃないの?」
「えっ? そりゃぁ、皆怖がって近付かないし、ハブるのもイジメだっていうのなら……そうかもね」
「でも、そうなって当然のことをしたんだし、それでイジメだー、なんて言ってもねえ」

 私の過去をよく知らない二人は、互いに目を見合わせながら、そんなことを言った。
 ——私はそれで、少しムカついてしまったのかも知れない。
 そばめしのパックをゆっくりと閉め、輪ゴムで止めて椅子から立ち上がってから、二人を咎めるように言い放つ。

「——そう。いじめられてるんだ、彼」

 突然気分を悪くした私に、二人は少し動揺した。
 彼の噂をよく知るクラスメイトは、慌てて立ち上がると、鉄棒の方に向かって歩こうとする私を制止しようとする。

「ちょっと、リン。何考えてるの?」
「あの子が本当にそんな人かどうか、気になるだけ」
「待って、やめといた方がいいよ。ねえ、リン!」

 私はそんな彼女の制止も警告も無視して、アルトラの方に向かう。
 背後でもう一人のクラスメイトが「なにあの子」と笑ったが、私は振り向きもせず、夕日に照らされる鉄棒を目指した。

 ——これは正義感なのだろうか。
 私だって、暴力は怖い。
 昔いじめられていた時のことを思い出すから。

 ——けれど私は、誰かがあの日の私と同じように、惨めで苦しい思いをしているのなら……それを放っておく気にはなれなかった。


 やぐらの太鼓の音や、集まる人々の喧騒から離れた鉄棒の周りは、寂しいくらいに静かで、遠くで灯り始めた提灯《ちょうちん》を見ていると、この場所は影なんだと感じた。
 私はゆっくりと彼の隣に立ち、無言で彼の横顔を眺める。
 ——アルトラは私が真横に居ても、別に殴りかかっては来ない。
 ただ私に一瞥をくれて、もう一口そばめしを白色のスプーンですくって口に運ぶだけで、何を言うでもなく、私が一本隣の鉄棒の柱の上にそばめしを置くのも黙って見ていた。

 ——どう話しかけたらいいんだろう。
 流石に話しかけていきなり殴ってきたりはしないだろうけど、初対面の人に自分から何を言えばいいのかなんて、私には分からなかった。
 静かな風が背後のネットを揺らす中、ようやく口から出たのは——それこそ殴りかかられてもおかしくないような言葉だった。

「えっと——君が噂のヤバい奴?」

 背にした木の板を軋ませながら、明らかに不快そうな、それでいて驚いたような顔で私を見た彼に、私は自分が何を口走ったか理解して、思わず少し身を引いた。

「……そうだけど。何か用?」
「あっ……ごめんなさい……えっと、初めまして。リンっていいます」
「……そう。で、何の用?」

 今度は疑うような顔で私を見る彼は、手短に用件を済ませろと言わんばかりの態度で、名乗りもせずに私の目的を訊ねた。

「その、用っていうか……えっと、アルトラ君って私と同じ中央中学校の一年生……だよね?」
「……そうだけど」
「そっか、やっぱり同級生なんだ。私、西小出身だから、その……」

 おおよそ会話とは呼べない、互いに互いを警戒しながら探りを入れるようなやり取り。
 そんな状況に痺れを切らしたのか、アルトラは三分の一程度残っていたそばめしを、白いスプーンで、紅ショウガごと一気に口に放り込んで、飲み込んだ。

「……ここ、使いたいなら使えばいいよ。『キック板』は後で戻しとくから、そのままにしといて」

 彼はそう言うとそのまま立ち去ろうとしたが、私は「待って」と、彼の甚平の袖を引っ張りながら言った。
 ——私は彼を追い払いたいわけでも、嫌な思いをさせたいわけでもない。
 目的を伝えなきゃ、敵じゃないよって伝えなきゃ……

「あなたと話がしたいの。えっと、もしよかったらなんだけど……」
「……別にいいけど」

 そう言うとアルトラは空になったそばめしの容器を鉄棒の柱に置いて、そこに寄り掛かった。
 それから、一言だけ私に警告する。

「僕と関わって、君までみんなに無視されても、知らないからな」
「そんなの——慣れてるよ」

 冷たい鉄棒を掴み、アルトラが譲ってくれた踏み台に腰を曲げて寄り掛かりながら、私は苦笑いをする。
 彼はそんな私の言葉の意味を理解出来ず、首を傾《かし》げた。

「——アルトラ君、結構優しいんだね」
「何がさ」
「その、『踏み台』を後で片付けてくれるとか、私の心配してくれたりとか」
「『踏み台』?」
「これ。背もたれにしてた板」

 鉄棒に右手を置いたアルトラは、私の隣にある『それ』を見ながら、不思議そうな顔をした。
 そして、呼称の違いをすり合わせるように、彼の言葉で確かめる。

「『キック板』のこと?」
「うん、うちの小学校ではそう呼んでたから」
「台ではなくないか?」
「下の部分が『台』じゃん!」
「いやさっき自分でも『板』って言ってたし」

 左の頬に力を込め、理解に苦しむと言いたげな顔でそう言い放つ彼に——私は思わず笑ってしまう。

「あはは、確かに『背もたれにしてた板』って言ったかも」

 私が笑いながら負けを認めると、鼻から空気を抜いたアルトラも、釣られて笑いながら「ほらみろ」と言うのだった。
 そんな彼の笑顔は、『普通』の人たちと何ら変わらない。
 ——それどころか、早くも心の内側を少し見せ合えたようで、私は少し嬉しかった。

「やっぱり、噂とは全然違って、アルトラ君すっごい面白い人じゃん」
「そりゃ……『バカヒロ』が流した、どれだけ人のことを悪く思わせるかだけを考えられた噂なんて、当てになってたまるか」
「『バカヒロ』?」
「小5の時の担任だよ、本当はタカヒロって名前の」

 アルトラは嫌なことを思い出したようで、また少し顔を曇らせた。
 ——担任。
 クラスメイトの噂によれば、彼はその先生の車のタイヤに釘を刺し、暴行を働いて、警察沙汰になったのだったか。
 私は、暴くつもりもなかった彼の罪を晒させたことに、少し罪悪感を覚える。

「そっか……ごめんね、嫌なことを思い出させちゃって」
「いや、いいよ。ボコボコにしたのも事実だし、それで怖がられるのなんて、当然だと思うし」

 自嘲のような笑みを浮かべ、うつむいたアルトラは半歩だけ私から距離を離すように動いて、すっかり暗くなり始めた空を眺めた。
 ——彼は、自分がいじめられる理由を理解した上で、今更どうすることも出来ないその罪を、受け入れているようだった。

「でも——だからと言って、いじめられていい理由にはならないと思う」

 私は一歩アルトラに近付くために、キック板から背を離し、鉄棒に寄り掛かる。
 ——噂によれば彼は、ずっと私のことをいじめていた不良とも喧嘩になっている。
 悪いのは彼ではなく、過ちを利用して誰かを苦しめる奴らなんだ。

「アイツら——西小の不良にもちょっかい掛けられてるんでしょ」
「……別にあんな奴ら。殴り合いになれば敵にもならないし」
「実はね、私も昔、アイツらにいじめられてたんだ……」

 いじめられていた、という言葉にピクッと目を動かしたアルトラは、私の全身を確認するかのように、上から下まで見回したのだった。
 ——彼も、私がどんないじめを受けたのかを知っているのだろう。
 アルトラは再び最初の警戒した顔に戻り、今度は突き放すように、私の目も見ずに言った。

「……なら君は、なおさら僕に関わるべきじゃない」

 そして、慌てるように空のそばめしのパックを掴んで、彼は屋台の向こうに行ってしまったのだった。

第2話『いじめ』

第2話『いじめ』

 ただでさえ憂鬱な月曜日の朝、雨の湿気で木の匂いが増幅された教室に入ると、一昨日《おとつい》一緒に祭りに行ったクラスメイトが、私と関わるのを露骨に避けているのが分かった。

「……おはよう、二人とも。一昨日はごめんね、一緒に帰れなくって」

 結局二人は私がアルトラと話している間に帰ってしまっていたようで、あの後しばらく探し回ってから自転車置き場に向かったが、そこに二人の自転車はなかった。
 ——よっぽど彼と関わりたくなかったのか、それとも私も彼女たちのいじめの対象になったのか。

 別に気にしてないよ、とは言ってくれたが、二人とも明らかに迷惑そうな態度で、私とはもう関わりたくなさそうにしていた。
 つい最近までいじめられていた私にとって、唯一繋がりのある友人グループの二人は、その後も一緒に移動教室に向かったり、昼休みに一緒にいる事に対して、言葉でダメだとは言わなかった。
 それでも私は一切《いっさい》話を振られなかったし、些細なことではあるが、お花摘みにも誘ってはもらえなかった。

『そりゃ、そうだろ』
『だからいじめられてたんだよ、あの子は』
『昔から空気が読めない子だったから』

 ——いじめられたり、無視されたりするのには慣れている。
 けれど、中学生になってまでこんなことで無視されるとは思っていなかったし——正直二人にはアルトラがどんな人だったかを聞かれるものだと思っていた。
 みんなにとってアルトラという存在は、関わってはいけない『タブー』なのだろう。

『ただでさえ本人が暴力的なのに、アレに関わるとあいつらにまで目を付けられるし』
『それで、誰もアレには関わらなくなったんだ』
『なのに自分から関わるだなんて、馬鹿なんじゃないか』

 雨音が響く朝の教室では、クラスメイトのみんな——男女問わずみんなが、アルトラの噂や、私が過去に受けていたという話をしているのが、とてもよく聞こえた。


 翌日の火曜日には、台風14号の接近の影響か、昨日よりも激しい雨が降っていた。
 定刻より少し遅れて始まった帰りのホームルームで、先生は何故だか少し嬉しそうに教卓に立ち、みんなに宣告した。

「明日は、警報解除まで自宅待機で、昼まで警報が出ていれば―—完全休校に、決定しました!!」

 うぉー! と、クラスの男子たちが喜びの雄たけびを上げるが——今朝見たニュースによれば、台風はこれ以上北上せずに太平洋に抜けていく予報なので、きっと休みにはならないだろう。

 そんなホームルームが終わり、一人でいつもの時間に下駄箱に向かったはいいが、全ての部活動が今日は休みという事で、登下校口はまだ大渋滞を起こしていた。
 私は少し離れた場所で渋滞が緩和するのを待ってから、玄関で靴を履き、自分の傘を手に取ったところで——折れ曲がった傘を持ち、ほとんど黒色の空を眺めるアルトラの姿を見かけた。

「その傘どうしたの、アルトラ君」

 私は思わず彼に声を掛けたが、彼は私に気が付くと、何も言わずに雨の中へ、折れた傘を握ったまま走って行ってしまった。

「待って、ねえ、私の予備の傘使って!」

 私は急いで傘を開いて彼を追い掛けて走ったが、流石に全力疾走する男子に追いつくことはできず、ただ徒《いたずら》に靴を汚しただけだった。


 その一週間はずっと、もう一度アルトラと話がしたくて、玄関先で彼の姿を探していた。
 そして金曜日、下校時間を早めたことで、アルトラにちょっかいを掛けているらしい不良五人グループ――小学生の頃から私をいじめていた二人と、他の小学校から合流した連中に、無理やり身体を触られて嫌な思いをしただけだった。

 それでも私は翌週の月曜日も、アルトラと話がしたくて、奴らに出くわすのを承知で、ただ彼を待った。
 ——それで案の定、靴を履こうとしたところで奴らに見つかって、同学年ではリーダー格の男に勝手に肩を組まれて、怖い思いをしているのだから、奴らも余計に面白がっていじめてくる。

「でさぁ、リン、お前アルトラとどういう関係?」

 小学生の頃から知る男が、にやけながら私の肩を持ち上げて、顔を私の方に向けながら、恐怖で震える私の頭に手を乗せた。

「な、何もないよ、ただ一回喋っただけで……」
「それでトラとお友達になったの?」
「またイジメて欲しかったんじゃねーの?」
「じゃあ、またセンパイ呼んで裸踊りさせてやるよ、ド変態が」
「ち、ちがう……」

 ぎゃははは、と下品な笑いをする不良たちは、高校生の不良とも繋がりがある。
 私は昔、奴らに服を着ていない状態の写真や——無理やり身体を弄ばれる動画を撮られたことがあり、奴らはそれを売ってお金稼ぎをしていた。

 他に被害者がいるのかは知らないが——私は誰かに話せば家や学校に写真をばら撒くと言って脅されていて、誰かに相談することも出来なかった。
 小学五年生の夏休み中から中学入学直後までの二年近く、そのような性的いじめや、階段から突き落とされるといった暴力的ないじめを受けていた。

 ——嫌だ、怖い、恥ずかしい。

 あの日受けた暴力と辱めがフラッシュバックし、膝から崩れ落ちそうになった私を、肩を組む男は無理やり立たせて、顔を近づけた。

「なんなら、今ここで踊らせてやろうか?」

 それを聞いた不良たちは「脱げ、脱げ」と面白がって手拍子を始める。
 登下校口を通る生徒たちは、それまで関わらないように、そそくさと逃げていたくせに、そのコールを聞いて遠巻きに、横目でこちらを見ているのが分かる。

 しかし、こいつらも流石にこんなところで本当に脱がせれば大問題になると分かっているのか、動画を撮られた時の様に乱暴に衣服を脱がされるようなことはなかったが——それでも怖くて涙が出始めた。

「ほら、スカートくらいたくし上げてみろって」
「みんなも期待して見てくれてるよ?」

 肩に掛けられる力が少しずつ強くなり、抵抗すればきっと、また痛い目に遭わされる——
 言われるがまま、私は震える手で嫌々自分のスカートを掴み、それを捲り上げようとした。

 ——そこに、ヒーローが現れた。

「おい。」

 不良たちが私のスカートに注目しているところに、背後の下駄箱の死角から、聞き覚えのある声がした。
 ——アルトラだ。彼が敵意をむき出しにして、凄みを効かせた声で低く唸ると、再び周りの生徒たちは恐れるように足を早めて散っていく。

「なんだよトラ。今からこいつがストリップショーするところなんだから、邪魔するな」

 肩を組む男は、私ごと無理やりアルトラの方に振り向き、ヘラヘラと笑った。
 アルトラは私たちの方に上履きのまま歩いてくると、いきなりリーダー格の男の胸倉を、肩越しにも分かるほど強い力で掴み、一瞬で私から引きはがしてくれた。

「お前ら——この前、俺の傘折っただろ」

 胸倉を掴まれてもなおヘラヘラと笑う男を突き飛ばしながら、アルトラは更に不良たちに詰め寄った。
 しかし不良たちは、アルトラがこれ以上は攻撃してこないと分かっているようで、わざとらしく痛そうな演技をして、馬鹿みたいに笑う。

「うわ、トラに殴られたわぁ」
「センパイにチクってやろうぜ」

 下品に笑いながら捨て台詞を吐き、不良たちは退散していく。
 アルトラはそれを追うわけでもなく、ただ振り返りながら、恐怖でしゃがみ込む私を——悲しそうな目で一瞥《いちべつ》すると、何も言わずに下駄箱から靴を投げ落とし、つま先を地面に叩きつけて、立ち去ろうとした。
 そんな彼を、足が竦んでうまく立てないままの私は、震える声で呼び止めた。

「待って、アルトラ君……」

 私の声を聞くと、彼はため息を吐いて振り返り、カバンを逆手で持って肩に掛けながら、私が立ち上がる姿を眺める。
 あくまで、私とは何の関わりもないと主張するような態度で、下唇を噛みながら目を閉じて、何かを決心したかのように首を振る。
 ——立てるよ。立つから、待って……
 膝を震わせながら、なんとか二本の足でワインレッドのレンガタイルを捉え、恐怖で乱れた呼吸を整える。

「……やっぱり関わるべきじゃなかったんだよ、特に君は」

 うつむきながらそう言ったアルトラは、私が動けるようになったのを確認してから、ゆっくりと学校の隣にある公園の方に向かって歩き始めた。


 アルトラの背中を追って歩いているうちに、私の身体は少しずつ恐怖から解放されていき、彼の隣を歩けるくらいには落ち着きを取り戻せた。
 部活動が始まりだしたのか、少しずつ活発な声が聞こえだした校舎の方とは反対に、帰宅部の直帰ルートからも離れた屋根付きの石製ベンチはとても静かで、私たちは石製の机を挟んで座った。

 強風に巻き上げられたであろう土や、落ち葉や小枝が堆積してボロボロになった外面《そとづら》の屋根からは想像もつかない程に手入れされたこの場所は、まるで人を寄せ付けない聖域のようだった。
 ——きっと、アルトラはこういう場所を見つけるのが得意なんだろう。
 影になっているおかげか、ベンチはひんやり冷えていて、夏の始まりのジメっとした暑さを忘れさせてくれるようだった。

「……ここ、涼しくていいね」
「だから昼間は爺さんたちの将棋会場になってる」
「それでこんなに綺麗なんだ、正直ベンチって朽ちて苔が生えてるイメージあるから……」
「まあ、屋根はそんな感じになってるけど」

 ——まるで夏祭りの日と同じような笑顔で、私たちは話し始めた。
 しかし、ほんの数分でそんな話題が尽きると、私たちは自然と真面目な顔になって、過去について話し始める雰囲気になった。
 しばらくの沈黙の後、鳥の羽ばたきの音を合図に、先に口を開いたのはアルトラだった。

「——リン。君は何故、またいじめられると分かっていて、僕なんかに関わろうとしたんだ」

第3話『二人の過去』

第3話『二人の過去』

 公園にこれでもかと植えられているポプラやブナの木々が、6月末の涼しい風を受けて騒ぎ立てる。
 そんな中で私は、何故リスクを負ってまでアルトラと関わろうとしたのかを考えた。

 しかし、理由はすぐにはわからなかった。
 正義感だったのか、怒りだったのか——あるいは、私はただ、あの日の自分を救おうとしているだけなのか。
 ——そうだ。きっと私は、彼の痛みに寄り添うことで、あの日から胸に刺さったままの棘を抜こうとしているんだ。
 だから、痛みを耐える誰かの胸に、事情も知らないまま棘を刺す側の人間には、なれなかったのだろう。

「——私は、クラスメイトの子がアルトラ君を避けて、関わるなって―—いじめに加担しろって言ったから、アルトラ君が本当にそんな悪い人なのか気になって……」
「悪い人だよ」
「でも、そんな風には見えなかった。アルトラ君、すごい寂しそうで……」

 誰にも気付かれないように、遠くを眺めていたあの日の彼は、私と同じで——何かが変わるのを待ち、助けを求めているように見えた。
 冷たかった石のベンチが、少しずつ私の体温を受け入れていくなか、石の机の上にカバンを置きその上に肘を付いたアルトラは、質問を重ねた。

「噂を知っていたんだろう。怖くはなかったの?」
「……正直、少し怖かった。暴力は——苦手で」
「じゃあなんで、怖いのにわざわざ構おうと思ったんだ」
「それは……」

 身動《みじろ》ぎした私のスカートが、石のベンチに引っ掛かり、腰のあたりが引っ張られる。
 ——それで一瞬、私は自分が受けてきた暴力を思い出す。
 ……怖くて、痛くて、辛くて、悲しかった。
 誰かに助けを求めることも出来ずに、ただ耐えて、終わる日を待っていた。

 だから私は、同じ痛みから、同じ悲しみから、誰かを救って、自分を救いたいと思った。
 ——あの日、その正義感らしきものは、恐怖心を捨てさせて、アルトラに手を差し伸べる勇気をくれた。
 何かを変える勇気、自分を正しいと信じるための勇気を。

「アルトラ君がもし、私と同じような寂しさを感じているのなら、助けてあげなきゃって思ったの」
「……それで自分が苦しむ羽目になっても?」
「うん」

 小さな風が小屋の中を抜けていき、アルトラと真っ直ぐ向き合う私の前髪を揺らす。
 ——私は、正しさに従いたい。
 間違っていると言うみんなの方が、間違っていることだってある——ずっとそう感じながら、ずっと耐えてきたのだ。
 だから私はきっと、自分の正しさを、自分自身で証明したかったんだ。

「ねえ、アルトラ君」
「アルトラでいいよ、同級生なんだし」
「えっと、アルトラ——くん」
「……なに?」
「アルトラ君は、みんなが正しいと思う?」

 彼は、私の漠然とした質問の意味を捕えかねていたが、「正しい?」と呟いた後で少し考えてから、ゆっくり話し始める。

「正しいんじゃないかな。そりゃ、君……リンみたいに、みんなが自分を犠牲にしてまで正しくありたいわけじゃないだろうから、面倒事に巻き込まれたくないのなら、関わらないのが正しいよ」

 口もとを隠すように、顎に手を置いて話す彼は、自分を悪人として扱う人たちの『正しさ』を認めた。
 ——アルトラの言う『正しさ』は、私の思う理想的なそれとは違って、『仕方のなさ』だったり『最適解としての正解』という意味を含んでいるようだった。
 見捨てることを『正当化』して、見て見ぬふりすることを『合理的』と考える——それが『正しい』ことなんだ、と。

「そっか……。でも、アルトラ君だってさっき、私のことを助けてくれた」
「スカートをたくし上げようとするまで、放っておいて見てたから、みんなとそう大して変わらないよ」
「それでも助けてくれた。だから……」

 ——きっと彼の中には、私が理想とする『正義』がある。
 見捨てないことを『正当化』し、『不合理』な選択をする、誰にも理解されない『正義』を、彼は持っている。
 だから私は『アルトラ君は私にとっては、正義のヒーローだよ』なんて言おうとしたが——なぜだか恥ずかしくなって、言えなくなってしまった。


 二人の間に静かな時間が流れ始めると、テニス部のラリーの声や、公園を走る野球部の掛け声、遊びに来ている小学生たちの声が、校舎や公園裏にある山で反響しながら、次第に賑やかになって行った。
 そんな中で、アルトラは次の話題を切り出した。

「リン——答えたくなければいいんだけど、君はどうしてあいつらにいじめられてたんだ?」

 彼は、私がいじめられた原因について、気になったようだった。
 しかし『どうして』というのは、いじめられる側としては中々嫌な質問で、『お前は何かを間違えたんだ』と言われたようなものだった。
 それでも私は、彼に——同じ境遇に立つアルトラに、知ってほしいと思った。

「私が間違えたのは―—いじめの原因になったのは、多分私が五年生の頃、みんなより……その、下着をつけ始めるのが遅かったりとか、えっと……気にせずに見えちゃうような姿勢をしたりすることがあったから……」
「……そんなことで、か」

 アルトラは申し訳なさそうに、少し恥ずかしそうに視線を逸らし、それでも真剣に私の話を聞いてくれた。
 ——彼は、私をからかったりしない。
 私の悩みを笑ったり、胸をジロジロ見つめたりしない。

「最初はあいつらにからかわれてただけなんだけど、そのうちに中学生の人のところに連れて行かれるようになって、それで……」
「……もういい」

 アルトラは突然遮るようにそう言うと、いつの間にかうつむいていた私の方に目線を戻した。
 ——彼に、私が何をされたのかを話すのは、それでも少し躊躇いがあった。
 全部聞いてほしい、でも知られたくない。
 私が汚れてしまった経緯を——

「私は——あなたに知ってほしい」
「……それで、知らせて僕を利用したいの? 暴力を、君の正しさの為に?」

 少し強情に語ろうとした私を止めるために、アルトラは突き放すように、見透かすように、冷たい言葉で私を咎める。
 ——本当は、そうなのかも知れない。
 私は、彼を味方に引き入れ、またいつ起きるか分からないいじめから守って貰おうとしているだけなのかも知れない。
 彼を助けるふりをして——本当は彼に助けられようとしているだけなのかも知れない。

「……ごめんなさい」
「謝るなよ。無理やりされたのも……知ってるし、動画売られたのも、バカヒロがそれを買ってたことも知ってる——話すだけ辛いだろ」

 震え始めた肩をなんとか下げて、ゆっくりと目線を上げるとそこには、優しい表情をした彼がいた。
 彼は私と目が合うと、大きく息を吸い込んで、ため息を吐いて、少し体を動かしてから座りなおした。

「じゃあ、なんで僕が暴力を振るうようになったのか、教えてやる」

 公園の遊歩道を走る野球部の姿を眺めながら、アルトラはそのきっかけを話したが——ちょうどその瞬間に、彼らの『押忍!』というが重なって、よく聞こえなかった。
 ……あるいは、私はあまりの衝撃で、聞こえないふりをしたのかもしれない。

「——ごめん、聞き取れなかった」
「だから、原因は君だったんだ、リン」

 今度はしっかりと目を合わせ、彼の口から放たれた言葉は、私自身の耳に対する疑いを解いた。
 ——しかし、どういうことなのだろう。
 私とアルトラが会ったのはあの夏祭りの日が初めてで、彼の暴力が始まったのは、五年生の時の担任を殴ったのが始まりだ、という噂を聞いている。

「まあ、原因って言い方は悪かったかな……。でも、あの日、バカヒロのケータイが教室に置いてあったから、悪戯というか、嫌がらせのつもりで勝手にあいつのケータイを見てたら、たぶん君の——動画があって……それで『逆パカ』したのが始まりなのかな」

 アルトラは先程も、バカヒロ——彼の小学五年生の頃の担任が私の写真や動画を買っていたのを知っていると言っていた。
 つまり、彼を暴力に導いたのは——私が受けていたいじめだった、ということだろうか。

「その後でプールの中に放り込んだから、結果として僕がその証拠を消したことになるんだけどね——でも、あの時はそれが正解だと思ったんだ」

 アルトラは自嘲気味に笑いながら、また私の身体から目を逸らした。
 ——合点がいったが、彼に対して申し訳ない気持ちになった私は、またうつむいてしまう。
 最初から、私は彼を助ける立場にはいなかった——どころか、間接的にとはいえ彼を貶めたのは、私自身だったのだ。

「——だから、アルトラは夏祭りの日、最後に私の身体を見たんだね……」
「そんなつもりでは……」

 アルトラは弁明するように言ったが、私もそんなことは分かっていた。
 ただ、出来すぎた話——まるで運命のような巡り合わせに、私たちはお互いを、知らないうちから引き寄せあっていたのだと感じた。
 そう思うと、アルトラを悪い噂から救いたいと思った私も、目の前でたじろぎながら話をする彼と、本質的には同じ存在のように見えて、少し面白いと思ってしまった。

「それで、バカヒロが水泳の授業で女子更衣室を覗いたタイミングで、大喧嘩になって、ボコボコにしちゃったってのが始まりかな」
「……その上で車のタイヤに、文字通り釘を刺した、と」

 真面目な顔をしていたアルトラは、一瞬私の言葉の意味を考えて、それを理解すると吹き出すように笑った。
 うつむいたままだった私から放たれたジョークに、アルトラは自分のカバンに顔を埋《うず》めてバンバンと叩きながら、頑張って呼吸を整えようとして、失敗する。

「ち、ちが、釘を刺したのは僕じゃない、いきなり笑わすなよ!」

 ツボに入ったのか、爆笑するアルトラに、思わず私も釣られて笑ってしまう。
 暗い雰囲気は一瞬で霧散して、私たちは涙が出るほど笑ってしまった。

「あはは。やっぱり、アルトラって面白いよ。こんなにちゃんと笑ったの、久しぶりかも」
「面白いこと言って、笑わせてきたのはそっちじゃん!」

 大笑いしながら抗議をするアルトラと私は、しばらく二人で笑い合うことになった。
 そして、ひとしきり笑い転げたのち、二人ともなんとか息を整えてから、ようやく元の話題に戻ることが出来た。

「アルトラ。あなたも自分の正義を信じただけで、やっぱりみんなにいじめられるようなことは、何もしてないんじゃないかな」
「……でも、バカヒロの作った噂もあるし、顧客を潰されたあいつらは、中学に入るなり僕にちょっかいをかけ始めたし、巻き込まれたくないってのは仕方がないよ」

 アルトラはそう言いながら、小屋の中に設置された時計を見ると「そろそろ道場行く準備しなきゃだから、また明日」と言って、帰って行った。
 ——また明日。運命か宿命か、巡り合った私たちはこの日、お互いを友人として認め合ったのだった。

第4話『夏休み』

第4話『夏休み』

 夏休みに入り、気温30度を超える真夏日が増え始めた7月の終わり頃、アブラ蝉が杉の木を埋め尽くし、桜の木にはクマゼミやニイニイゼミが寄り付き——嫌になるくらい、どこに行っても灼熱の路上《ゲリラ》ライブを行っていた。

 そんな外界から隔絶された、室温26度の涼しい部屋に初めて上がった私は、アルトラと二人で憎き夏休みの宿題と向き合っていた。

「あっつぅ……」

 ——何故か夏休みの『一日一行日記』をすでに完成させたアルトラは、首を振らない扇風機の前に陣取り、羽に向かって「あ~~」と声を出して遊んでいる。
 アルトラに助けられたあの日以降、私たちはメッセージアプリのIDを交換し、会えない日も毎日のように連絡を取り合っていた。

 意外なことに、アルトラはかなり文字を書くタイプで、私と話をしていない間も、新しく始めたらしい呟きサイトで、日々のあれこれを日記帳代わりに投稿していた。
 ——むしろ彼は、あのサイトの投稿内容を『一日一行日記』として学校に提出すべきだと思う。

 赤色のTシャツの胸元をパタパタとさせながら、風船のように膨らむアルトラは、それでもまだ暑さを感じているらしい。
 この部屋の気温を、既に少し肌寒く感じ始めていた薄着の私に、確認するように振り向き——懇願するように、上目遣いで私を眺めた。

「ねえ、リン、もう1度だけ温度下げてもいい……?」
「別にいいけど——電気代が高いって怒られても知らないよ?」
「うー、扇風機で我慢するかぁ……」

 彼は残念そうな顔をしながら、また大きな赤い風船になった。
 ——友人になってから一ヶ月以上経って思うのだが、アルトラはネコ科の『虎《トラ》』というより、どちらかというとイヌ科の何かのように見える。
 柴犬のように警戒心が強く、チワワのように自由奔放で、レトリバーのように大人しい時もある。

 ——テレビとその横にある家庭用ゲーム機の電源を『ピッ』と付け、遊び始めようとしている辺り、どこか抜けているハスキーに近いのかも知れない。

「ちょっと、アルトラ、宿題終わんないよ!」
「えー、まだ日にちあるし平気だって……」
「知らないの? 毎年夏休みの終わりには宿題が終わらなくて地獄を見る人がたくさんいるんだよ」
「うあー……分かった、もう2ページだけ進めます……」

 意外と聞き分けがいいというか、アルトラは理由を説明されれば、ちゃんと言うことを聞くワンちゃんのようだ。
 ゆっくりとリビングの机に戻ってくる彼の頭を、わしゃわしゃと撫でてやろうかとも思ったが——流石に嫌がられそうなのでやめておいた。

 ワンちゃんと言えば、アルトラには意外な芸があるらしく——なんと彼は、その巨体でピアノを弾くらしい。
 幼稚園の頃からピアノを習っていて、他にも水泳教室にも通っていたり、柔道もやっているとのことだ。
 しかし勿体無いことに、どの部活動にも入らず、私と同じで帰宅部なのだ。

 これと言った趣味もなく——ただ毎日、逃げるように生きてきた私とは違って、アルトラは元々『明るい側の人間』なのだと思わされることがある。
 ……噂さえなければ、きっと彼は明るい場所で、みんなと楽しく生きていたんだろう。
 そんなことを考えながら、やたら撫でたくなる頭のてっぺんを見ていると、数学の問題で行き詰まって顔を上げた彼と目が合い——私は何故か、目を逸らしてしまった。

 そして、目線の先にあった、半ば物置と化しているピアノを見て、私は彼に「どうしたの」と聞かれる前に話しかけた。

「——本当に家にピアノあるんだね」
「ん、電子ピアノだけどね。何か弾こうか?」
「……今日は宿題進めるよ、ほら」

 ワンちゃんはしょんぼりした顔で、再びドリルワークに手を付け、数学の問題を解き始めたのだった。

 それから十数分が経った頃だろうか、アルトラは目標にしていた2ページ目を終え、自発的に3ページ目を解き始めながら、質問をした。

「そういえば、リンってゲーセンとかって行くの?」
「あまり頻繁には行かないかな、お小遣いがもったいないし」
「そっか……」

 ただ質問に答えただけなのに、アルトラはまたしょんぼりした顔で問題を解き始める。
 ——それが少し可哀そうに見えたので、私は一つ彼に提案をした。

「じゃあ、もし今日中にあと4ページ、ワークを進められたら、今月中に一緒にゲームセンターに行こっか!」
「えっ、リン、いいの!?」
「いいよ、私も友達と行ってみたかったし」

 餌を釣り下げられたアルトラは、気合を入れて問題の続きを解き始めた。
 ——やっぱりワンちゃんだ、この子。

 ここ一ヶ月で彼について知ったことなのだが、彼の両親は彼が小学生一年生の頃に離婚しており、この家にはお父さんと二人で住んでいるらしい。
 とはいっても、隣には母屋《おもや》があり、そこには祖父母が住んでいる。
 普段、ご飯はおばあちゃんが作ってくれているんだとか。

 彼のことを知っていく程に、みんなが噂する彼と、私の前にいる彼が同一人物であるという印象は少しずつ薄れていく。
 ——やはり噂はしょせん噂で、間違っているのはみんなの方なのだと実感している自分がいた。


「——だから、ここが間違ってるから、直さないと」

 英語の問題を解いているアルトラが『私はペンを持っています』という日本語を『I take a pen』と翻訳しており、私は『Take』と『Have』の違いを説明しながら、彼に勉強を教えていた。

「持っていく、と持っている……何が違うのか全然分かんない!」
「この場合『Take』の方は『手に取った瞬間』のイメージで、『Have』の方は『所有している』ってイメージだよ」
「——じゃあ『私はペンを所有しています』って書いてよ!」

 ——ワンちゃんが吠えてる。
 作問に文句を付けながらも、私に教えられつつ着々と問題を解いていった彼は、ついに目標の4ページを進めることが出来たのだった。

———————

 夏休みの間に『週末』という概念は薄れていくものだが、それでもなんとなく、私たちは週末を選んでゲームセンターに来ていた。
 そんなに大きなゲームセンターではないが、|古《いにしえ》のアーケードゲームから、最新の音ゲーまでもが、ちゃんと揃えられた場所だった。
 タバコ臭いこの場所は、薄暗い電飾と肌寒い程の冷房とは対照的に、それなりに多くの人で賑わっていた。

 あてもなくゲームセンターの中をうろうろしていると、裏口側——いや、大通りに面しているこちらが表口なのだろうか——出入り口周辺の、自販機が並ぶ壁から少し離れた柱に設置されたサンドバッグを指差すアルトラは、目をキラキラさせながら私の方を見た。

「昔、お父さんがこのキッキングマシンで|999kg《カンスト》出した事があってさ」
「……うん、やってもいいけど、ちょっと見るの怖い……かも」

 ——私は暴力を見ること自体が、あの日の記憶を蘇らせるようで恐ろしく、ゲームとはいえ、彼が物に向かって思いっきり蹴りを入れるのを、隣で見ていられるとは思えなかった。
 私がそう伝えると、アルトラは慌てたように手のひらを突き出し、私を気遣って別の遊びを提案する。

「ご、ごめん。そうだ、じゃあ音ゲーとか見に行こうか」

 彼はそのまま回れ右をし、入り口から右側に向かったところにある、リズムゲームコーナーへと向かう。
 ——少し、アルトラを驚かせてみようかな。

「音ゲーなら、私も少しできるよ」
「そうなんだ、僕はピアノくらいしか音楽なんてやらないからさ」
「むしろピアノの方が難しいと思うけど……」
「そりゃあ、簡単な曲しか弾かないから。楽譜読めないし」

 そんなことを話しながら、彼とバーチャルシンガーの曲をピックアップした音ゲーの前を通りかかったところで、私は「これならちょっと出来るよ」と言いながら、ゲーム用のICカードを手に取った。
 アルトラが私の後ろに立って「じゃあ、見てようかな」と言うので、筐体に100円玉を入れて、カードをかざすと、画面には『Magic☆Rin』というプレイヤーネームが表示された。

「……綺麗にしてくれそうな名前」
「え? あ、あははは!」

 彼の言葉の意味が分かって、私はゲーム開始前に爆笑する。確かに、水回りを掃除出来そうな名前だった。
 選択時間が切れる前に、私は笑いながら慣れた手つきで難易度を最高設定にし、楽曲選択をした。

 ——プレイが終わると、アルトラは唖然とした顔で小さく拍手した。

「めっちゃ上手いじゃん……本当に偶にしか来てないのかって感じの手さばきだったけど」
「本当だよ? 2週間に1回しか来ないから」
「めっちゃ来てんじゃん!」
「えへへ、そうかな?」

 少し照れて鼻の下を人差し指でこすりながら、私は得意げにアルトラの方を見る。
 やはり、得意なことを褒められるのは、少し慣れないけれど嬉しかった。

「じゃあ、レーシングゲームのコーナー行こうよ、あれなら僕も多少できるから!」

 対抗心を燃やしたアルトラは、既に歩き出しており、私は彼の背中を追って、より薄暗い、格闘ゲームやレーシングゲームの置いてあるコーナーへと立ち入った。
 アルトラも意外と、男の子っぽい趣味を持っているんだ、などと考えながら。

 ——しかし、レーシングゲームに辿り着く前に、アルトラは足を止め、私が進むのを制止した。
 何故かと思い彼の目線の先を見ると、そこには奴ら——私たちをいじめる不良たちがいた。

「おいおい、トラじゃねーか」

 同学年の不良のトップで、私と同じ小学校出身の男。
 登下校口でアルトラに胸倉を掴まれた彼と、いつもの取り巻き四人……それと今日は―—私の写真を売り捌いていた高校生の二人が、アルトラの前に立っていた。

「何? お前らやっぱ付き合ってんだ」
「うわー、変態女となんか付き合うなんて」

 アルトラはそんなことを言う奴らを相手にもせず、ただ背を向けて、私に「帰ろう」と言って出入り口の方に向かおうとした。
 ——そんなアルトラの背中を、高校生の一人が突き飛ばし、男は怯んだ私の両肩に手を置いた。

「俺が横取りしちゃおっかなー?」

 気持ち悪い顔でそう言いながら、男が私にキスをしようとして、唇をゆっくりと近付けてきたところで―—アルトラは体勢を低くしながら、勢い良く私と、茶髪の高校生に近付く。
 そして、そのままの勢いで、ドンッと——周りのゲーム機の音をかき消すような、鈍く低い音が響くのが聞こえた。

 ——アルトラは、高校生の横顔に、右手の拳を打ち込んだのだった。

第5話『喧嘩』

第5話『喧嘩』

 薄暗く、夏の昼間だというのに肌寒いゲームセンターの、格闘ゲームコーナーの付近で——アルトラは右ストレートを茶髪の高校生の右頬に叩き込んだ。
 鈍い音が響き、一瞬時間が止まったかのような錯覚に、きっとこの場にいた全員が陥っただろう。

 ——しかし、茶髪の高校生が鉄製の低い椅子を巻き込んで、地面に金属が強くぶつかった、ガキンという音と共に、その錯覚は終わり、一滴の鼻血を合図に、暴力の応酬が始まった。

「——てめぇっ!」

 ——金髪の高校生がアルトラに向かって叫ぶと、同級生の不良たちがアルトラを逃すまいと、彼に掴みかかろうとする。
 しかしアルトラは、一人、また一人と蹴り、転ばせ、投げ飛ばし、圧倒的な力で同級生たちを叩きのめす。

 それでも、圧倒的な体格差には敵わず、金髪の高校生の蹴りを受け、体勢を崩して、胸倉を掴まれた——が。
 まさかアルトラには、体格の差など関係がないのか……逆に高校生を掴み返して、とんでもない力で壁際まで押し込む。

 目の前で行われる本気の喧嘩に、私の足は完全に竦んでしまって、まるで地面が泥濘《ぬかる》んでいるかのように感じられ、まともに立つことすら出来なくなってしまう。
 私はただ、あの日受けた暴力を思い出しながら、膝を床につき、ほとんど本能的に——あの日のように謝り、謝り、謝り倒しながら、嵐が過ぎるのを待とうとした。

「やめて、ごめんなさい、ごめんなさい……」 

 ——アルトラ、やめて、抵抗したら、殺されちゃう。
 ただ受け入れて、ただ過ぎ去るのを待てば、苦しいのは終わる、痛いのもすぐに終わる、だから、やめて——

 だが、私がいくらそう思っても、アルトラは決して止まらない。
 アルトラが―—あの優しい彼が、鬼の形相で金髪の高校生に頭突きを食らわせている。
 その隙に茶髪の高校生の蹴りを横腹に受け、ゲーム機に衝突し、そのまま髪の毛を掴まれてしまう。

 アルトラは、同級生の奴らにも殴られ、蹴られ、痛い目に遭わされている。
 ——私はただ、恐怖に支配されたまま、やられてしまいそうな彼を、見ていることしか出来ない。

「殺してやるよクソガキが!」

 頭突きを受けた金髪の高校生が激高して、周りの不良が離れた一瞬で、体勢を立て直そうとしたアルトラの顔面に右ストレートを叩き込む。
 ——アルトラは私の方に飛ばされて、鼻血を流し始める。
 彼は一瞬意識が飛んでしまったのか、受け身を取って転がったまま、立ち上がらない。
 それなのに、茶髪の高校生はゲーム用の椅子を持ち上げて、彼にトドメを刺そうとする。

 ——怖い、アルトラが殺されちゃう。

 私は何とか、膝を足の代わりにしてアルトラに近寄って、目を開かない彼を守るために覆いかぶさり、ただ「ごめんなさい、ごめんなさい」と彼らに謝る。

「どけやコラァ!」

 茶髪の高校生が怒鳴りながら私の横腹を蹴り飛ばすと、私の悲鳴で目を覚ましたアルトラは、すぐに立ち上がる。
 ―—先ほどよりも激しく怒りながら、茶髪の首元を一瞬掴んだかと思うと、そのまま押し倒すように突き飛ばしながら、右足で相手の両足を、奥から思いっきり刈って、後頭部からかなりの勢いで地面と接触させた。

 ——その一撃で、茶髪の高校生は意識を失ったようだった。

「女の子に手《テェ》出してんじゃねぇよクソボケが!」

 恐らく相手にはもう聞こえていないが―—彼は怒鳴りながら、倒れている茶髪の顔面に思いっきり蹴りを入れる。
 その直後に飛び込んできた金髪のタックルで、アルトラは再び私の目の前まで突き飛ばされて、よろよろと立ち上がる前に、顔面に蹴りを受けて後ろに吹き飛んだ。

 大きなダメージで、再び床に倒れたアルトラは、すぐには立ち上がれないようだった。
 金髪の男は、そんな彼にトドメを刺すべく、入り口の横に置いてあった、畳まれたパイプ椅子を持ち上げて、アルトラに近付こうとする。

 ——私が、アルトラを、守らなきゃ。

「やめて、アルトラを殺さないで、お願いします……」

 竦む足で何とか立ち上がり、アルトラの前に割り込んで、金髪を通せんぼするように手を広げて、彼への追撃を阻止しようとした。
 ——しかしアルトラは、そんな私の腕の下をすり抜けて、金髪にタックルを返し、そのままバランスを崩して尻もちをついた男に馬乗りになって、顔面を殴り始めた。

 ゴンッ、ゴンッ、と床に響く程の攻撃で金髪もすぐに意識を失った様だが、それでもアルトラは構わず——相手の頭蓋骨を割る気なんじゃないかと思う程の勢いで殴り続けた。
 同級生の不良たちも、手を付けられない程に暴れるアルトラを見て既に戦意喪失したようで、近づくことも出来ず、ただ遠巻きに、彼の間合いに入らないように様子を見ていた。

「お、おい、それ以上殴ったら死んじまうぞ……」

 不良の一人が彼を止めるために声を掛ける。
 するとアルトラは立ち上がり、彼らの方を向きながら、ゆっくりと追いかけようとする。
 そんな姿を見た不良たちは、アルトラがもはや誰にも制御不能な、子供の喧嘩やいじめの範疇を超えた、剥き出しの殺意であることを感じたのか、恐怖の滲んだ、歪んだ顔を各々浮かべながら、走って逃げ出した。

 ——喧嘩は、終わった。終わったのに、正気を失っているのか、アルトラはふらつきながら、鼻血を床に垂らしながら、拳を握ったまま、歩く。

「——お願い、止まって、アルトラ、もう大丈夫だから……」

 よろよろと奴らを追い掛けようとするアルトラに声を掛けると、アルトラは血だらけの恐ろしい顔のまま、私の方に振り返る。
 ——虎、捕食者。狂気と殺意に満ちた、暴走した暴力の目で、一瞬だけ、私を睨んだ。
 彼の目には恐れなどなく、ただ目的を達成するためだけに力を操る『暴力装置』のような、血に濡れた破壊者の目をしている。

 ——殺される。
 彼に睨まれ、私は足どころか、全身が震え上がり、力が抜けてしまうのを感じる。
 圧倒的な威圧感を前に、私も思わず腰を抜かしながら、勝手に身体を引いて逃げ出そうとしてしまった。
 ——そんな私の姿を見て、彼は我に返ったように悲しそうな顔をして、ようやく立ち止まったのだった。


 けたたましいサイレンを鳴らしながら、数台の救急車が先に到着して、少し後からパトカーが列をなしてやってきた。
 倒れている二人の高校生はどちらも気を失ったままで、そのまま担架に乗せられて運ばれて行った。

 救急車に乗ることを拒んだアルトラは、レーシングゲームのコーナーで四人の警察官に囲まれて、冷静に質問に答えているようだった。
 ——私は、男女の警察官に「大丈夫?」と声を掛けられながら、うわごとのように「アルトラ、アルトラ、」と、大人たちに引き離された彼の名を呟いていた。

「……君も、あそこの彼に蹴られちゃった?」

 婦警さんは、しゃがみ込む私に毛布を掛けてくれながら、見当違いの質問をした。
 私はすぐに婦警さんの推測を否定しようとして——戦いが、暴力の領域から外れ、言葉で彼を守る段階に入ったことに気付いた。

 ——私が、アルトラを、守る。

「違います、アルトラは私を……あいつらから守る為に、あいつらを倒したんです……」
「……そっか、救急車で運ばれた子たちとは、面識はあるの?」

 そう聞かれて、一瞬どう答えようか迷った後で、私はただ「はい」と答えた。
 隣でメモを取る男の警察官は、私が答えたことを書き込んでいるようで、これがあとからアルトラを『裁く』ための材料になると思うと——私は、彼らまで憎く見えて仕方がなかった。

「ゲームをしてて喧嘩になっちゃった?」
「違います! あいつらが、無視してたのに私を捕まえて、アルトラがそれをやめさせようとして……喧嘩になっちゃったんです」
「どっちが先に殴ったの?」
「…………アルトラが、私を守る為に、先に殴っちゃいました」

 ——バレる嘘は吐けない。嘘で彼を守れるなら、どれだけでも吐くし、どんな目にあっても構わないけれど、それで私や彼の『証言』が信憑性を失うのは、避けたかった。
 婦警さんは少しだけ考えたあとで、ため息まじりに「そっか」と言うと、それからは学校の話や不良たちとの関係などについて聞き始めた。


 自転車も置いたまま、迎えに来た母に連れられて、病院で念の為に簡単な検査を受けてから家に帰ることになり、帰った頃にはすっかり日も沈んでいた。
 夕ごはんを食べている間、仕事を切り上げて帰ってきた父は、うつむく私の頭を、まっすぐと見つめている。

 ——私を心配して仕事を早退し、仕事用の軽トラックでゲームセンターから自転車を回収してくれた父は、それでも私が気持ちの整理を終えていないのを察してか、事件については聞いてこなかった。

「今日はゆっくり寝て、明日、取り調べが終わったら話してくれ」
「……うん」

 そんな私たちの様子を見ていた母は、病院でレントゲンを撮って、結果が分かるまでの間、ずっとそばに居てくれた。
 軽い打撲、高校生に横腹を蹴られた痛みが少し残っているが、大きな怪我は負わずに済んだ。

「無事で本当によかった……」
「……うん」

 アルトラは——大丈夫だろうか、気を失う程の暴力を受けて、それでも私を守るために戦って、傷付いて——
 私がすぐに逃げられなかったから、アルトラは戦うしかなかった。
 一番大事な友達……唯一の友達である彼を、私が傷付けてしまったのだ。

 父が買ってきてくれた夕飯のお弁当を食べ終わると、すぐにお風呂に入って眠ることになった私は、アルトラにメッセージを送ろうとして——やめた。
 ただ、彼の呟きが更新されていないのをベッドの上で確認して、なかなか寝付けないまま、布団を抱きしめていた。


 翌日、翌々日と取り調べは続き、私は婦警さんに容疑者《アルトラ》との関係や、彼らと喧嘩になった経緯などについて、何度も聞き取りをされた。
 その度に何度でも「私の為にあんなことをした」「アルトラは悪くない」と、精一杯、彼を弁護した。

「ところで、アルトラ君は彼らに『次やったら殺す』って言ってあった——と言っていたみたいなんだけど、前にもこんなことがあったの?」

 珍しく新しい質問が飛んで来て、私は困惑したが、心当たりがない話だった。
 ——前、とはいつのことだろう。
 私は、彼がそんなことを言っている所を見ていないし、他の誰かを守るためか——あるいは、私の過去について、アルトラが私の知らないところで何かをしていて、それについて話したのか。
 どちらにしても、私の知る範囲ではなかった。

「知らない……です、彼と知り合って、初めて彼があんなことをしている所を見たので……」
「——そうよね」

 婦警さんは私の目を見ながら、私が話したことをパソコンに打ち込んでいく。
 そして、画面を見ながらキーボードを叩きつつ、呟くように言葉を漏らす。

「彼、少し正義感が強過ぎるみたいね。2年前にも事件を起こしちゃってるから……立場上、あんまりこういうことは言いたくないけど、彼とお友達でいると——『また』巻き込まれちゃうかも知れないよ」

 ——それは警告だった。
 クラスメイトのみんなと同じで、この人もアルトラと関わるのは良くないことだ、と言い放ったのだ。
 ——私は、それを許せない。

「——なんで、ですか」

 突然声色が変わった私に驚いたのか、婦警は打ち込む手を止め、私の顔をしっかりと見た。
 しかし一番驚いたのは私だった、今まで感じた事がない感情——細く、固く、鋭く、冷たい何かが飛び出し、まるでハリネズミにでもなったかのような感覚が全身を支配した。

「なんでって、それは……もしかしたら、『また』彼は衝動的に行動しちゃうって事があるかも知れないから」

 婦警は、しどろもどろになりながら答える。
 小さな個室の空気が、開けられた窓から入り込んだ強い風で、部屋が一気に熱くなる。
 ハリネズミは、婦警の目を睨む。

 ——お前に、アルトラの何がわかる。

「させません」

 そんな婦警の目を突き刺しながら、ハリネズミは即答した。
 私は、アルトラの優しさを知っている。
 彼の本当の姿を、知っている。

 ——私だけが、知っている。

「私が、そんなことはさせません」

 本当は面白くて、寂しがりやで、素直な彼を知っている。
 だから、アルトラが暴力なんて望んでいないと、私は知っている。

 婦警はしばらく、何か言い返そうとしていたが——何を言っても無駄だと悟ったのか、「そっか」とだけ言って、また何かをパソコンに文字を打ち込み始めたのだった。

第6話『反抗』

第6話『反抗』

 白いカーテン越しに朝日が照らす、見慣れたテーブル。その真ん中に飾られているはずの花瓶の花は、母の城であるアイランドキッチンにお出かけ中だった。
 事件から三日後、サービス業で勤める父の休みの日に合わせて、重々しい雰囲気の家族会議が行われていた。

「それで、リン。何があったんだ」

 ——また禁煙に失敗したのか、若干タバコの臭いを纏わせたまま、高圧的な態度の父は、私に質問をした。

「……友達とゲームセンターに行ったら、変な人たちに絡まれて、大喧嘩になっちゃった」
「その友達の名前は?」
「……アルトラ、有賀虎太朗《あるがこたろう》」
「男の子か」
「うん……」

 まだ本題について話してもいないのに、父は初めて出来た男友達と言うだけでアルトラのことを悪い目で見ているようで、眉をひそめた。
 そして、事件ではなく、彼について深堀するように質問を重ねる。

「アルトラ君は、どんな奴なんだ」
「えっと……身体が大きくて、水泳と柔道をやってて、ピアノも弾けるらしくって……」
「違う。リンにとって、どんな男なんだ」
「ちょっと」

 本題とズレた質問をし始めた父に対して、ある程度の事情を警察から聞かされている母はストップをかけた。

「問題は、その子がどうして喧嘩になって、どうしてリンが巻き込まれたのか、でしょう」
「……それもそうか。リン、どうしてアルトラ君は喧嘩なんかしたんだ」
「それは、喧嘩相手の一人が私に……嫌なことをしようとしたから」
「嫌な事とは?」
「……言いたくない」
「まあそれは良い、それでなんでリンが巻き込まれると分かっていて、そいつは殴り合いなんてしたんだ」

 ——何故、と言われても、あいつら相手に言葉でどうにか出来るわけがなかった。
 奴らの目的は私をいじめることで——アルトラは、むしろ私に巻き込まれて喧嘩になったのだ。

「だって、私はあいつらの一人に掴まれて、逃げれなかったから」
「守ってくれた、と?」
「うん、そう、アルトラが私を守ってくれた」

 私はその言葉——アルトラを肯定する言葉を言えたことに少し安心し、思わず顔を上げて、父に『彼は悪くない、だから今回はヒーローが助けてくれたって話で終わりだよ』と、明るい顔を見せた。
 しかし、目の前にあったのは、依然として重々しい雰囲気のリビングと、不満そうな父の顔だった。

「だがアルトラ君と喧嘩相手には面識があったそうじゃないか」

 父も母から多少は話を聞いているようで、それは『原因はアルトラではないのか』と問いかけられたも同然だった。

「……あった。私もあいつらには迷惑かけられてた」
「そうか」
「でも、前にもアルトラに助けられた」
「いいか、リン」
「アルトラは先にあいつらに背中を叩かれてたし……」
「リン。」
「違うの、アルトラは望んで暴力なんて……」
「リン!!」

 突然父は怒鳴り声を上げ、私は思わず怯えて、身体が震え始める。
 ——怖い。
 昔から、父に怒鳴られると、私の身体は自然と萎縮してしまい、呼吸が乱れてしまう。
 暴力こそあまり振るわれたことはなかったが——それでも、よく躾けられた私の心は、条件反射で身体を震えさせる。

「彼は、以前にも教師にいやがらせや暴力行為を行っていて、それで警察に迷惑をかけたことがあるらしいじゃないか」

 ……でもそれは、私の裸の動画を消すためで、みんなを守るためで。

「それに、周りからも避けられていて、みんな彼に怯えて関わらないようにしているそうだな」

 ……それはバカヒロの噂がひとり歩きしてアルトラの評判を悪くしているだけで。

「しかも、お前が巻き込まれるかも知れないことも想像せず、ゲームセンターに連れ出して怪我をさせた」

 ゲームセンターに誘ったのは私だし、怪我をさせられるようなことをしたのも私で、アルトラは悪くない。
 ——それなのに、震える私の身体から言葉は出ない。
 口答えをするな、と怒鳴られるのが怖いのだ。

「とりあえず、ゲームセンターは高校生まで禁止だ。いいな?」
「……はい」
「それと、あいつらと関わるのも禁止」
「あいつら……」

 ——私の絶望した顔を見て、父は冷たい釘を心臓に突き刺すように、補足する。

「もちろん、アルトラともだ」
「そんな……!」

 アルトラは私の唯一の友達で、理解者で、守ってくれた人なのに。
 ——何故、何も知らない父が、何も助けてくれない父が、アルトラと会うのを、そんな簡単に禁止出来るのか。

 ……なんでみんな、アルトラのことを何も知らないくせに、そんなに簡単に彼を悪人扱いするのか。
 何も、知らないくせに——

 ——ハリネズミは、私の恐怖を貫いて、身体を支配していた震えを収めた。
 冷たい空気が、熱を帯びた肺を満たした。
 そして私は、父の目をはっきりと見ながら、そこに針を突き刺した。

「嫌だ。私はアルトラと友達で居続ける」

 いつもよりはっきりと、自分が何を考えているのか理解できた。
 この後で怒鳴られるのも分かっていて、大喧嘩になることも、察している。

 ——私は、アルトラを守る。
 父がどれだけ吠えようと、怖くなんかない。

「リン!!」

 机をバン、と叩きながら、父は立ち上がる勢いで怒鳴る。
 食器も花瓶も乗っていない木製の机は、私を威嚇するように動き、構造を支える梁《はり》が、私の足にぶつかった。

「嫌だ!!」

 それでも、私も負けじと机を叩き、生まれて初めて父に反抗した。
 その姿に両親は驚き、母に至ってはいきなり顔を抑えて泣き始める始末だった。

「奴の暴力性が移ったか! リン、母さんを泣かせてどうする!」

 父は激高し、私に向かって怒鳴り散らす。
 そうすれば私が黙ると知っているから、父はそうやって恐怖で私を支配しようとする。

 ——でも、私はもう、支配されない。
 アルトラを守るためなら、こんなの怖くない。

「私が泣いたって、何もしないくせに!」

 ——そもそも私がいじめられたのも、アルトラが暴力を始めたのも、この昭和の親父が私に「まだ早い」と言ってブラジャーを買い与えなかったからじゃないか。
 自分の時代遅れな考えが人に迷惑を掛けることも想像せず、私たちを苦しめたのはこの人じゃないか!

「親に向かって何だその態度は! 心配してやってるんだぞ!」
「何も知らないくせに! 心配してるだけで、何も解決出来ないくせに!」

 アルトラは違う、私のことを知っていて、私のことを心配していて、私を助けるために、命をかけて戦ってくれた。
 アルトラは、私のヒーローなんだ。

 ——私だけの、ヒーローなんだ。

 そんなことを思っていると、涙が出てきそうになってしまい、私は思わずリビングから飛び出し、家を飛び出し、走り出していた。
 荷物も持たず、靴のかかとを踏んだまま、勢い良く家を飛び出して、目的地もないまま走り出した。


 いつの間にか学校の隣の公園に辿り着き、アルトラと何度か話したあの屋根付きの石製ベンチで、おじいちゃんたちが将棋をやっているのを見て——彼のことを更に思い出す。
 ——アルトラに会いたい。

 呟きも更新されず、連絡も送ってこない彼は、まだ家に戻って来ていないのだろうか。
 走り疲れて、息が切れてしまった私の足は、導かれるようにアルトラの家に向かって動き始めた。

「アルトラ、アルトラ……」

 うわ言の様に、自然と口から彼の名が溢れる。
 昔の人が、不安な時に念仏を唱えたように——私も精神を安定させるために、歩きながらずっと、彼の名を呼んでいた。
 一番大切な友達、私を救ってくれたヒーローの名を。

 彼を呼んでいる間に、家の前まで着き——少し躊躇したが、決心してインターフォンを押す。
 すると聞き馴染みのある声で「はーい」と返事をした彼は、右手に包帯を巻いた姿で、私を出迎えてくれた。

「あ……アルトラ……ごめんなさい、いきなり来ちゃって……」

 彼の顔を見て安心したせいか、堪《こら》えていた涙が目から溢れ、彼は彼で泣き出しそうな顔をして「リン、良かった」と言いつつ、私を家の中に招いてくれた。

「もう、会えないのかと……思ってた」

 ソファベッドに座りながらそう言うと、アルトラもついに涙を流し始める。
 ——ずっと、ずっと会いたかった。
 たった三日会えなかっただけなのに、ものすごく長い時間が経ったような気がして、ずっと、寂しかった。

「親に、アルトラと会うなって……さっき言われて、それで飛び出して来ちゃった」
「そっか——喉乾いてるよね」

 涙を隠すように包帯で拭った彼は、スッと立ち上がって冷蔵庫にお茶を取りに行ってくれた。
 いつもと変わらず優しい彼は、冷蔵庫に磁石で貼り付けられていたティッシュ箱も持って来てくれて、親指の付け根で涙を拭う私の前にそっと置いた。

「ありがとう」

 ティッシュで涙を拭いてから、500mlペットボトルの麦茶のキャップを遠慮なく開けさせてもらい、叫んだり走ったりして乾ききった喉を潤した。
 そんな私の様子を見ていたアルトラは、私がお茶のキャップを閉めると、ゆっくりと口を開く。

「リン、ごめんなさい、巻き込んでしまって」

 アルトラは後悔があるかのように暗い声で、うつむきながら私に謝る。
 ——あなたは間違ってない、とは言えなかったが、それでも私は、彼に感謝を伝えたかった。

「ううん、大丈夫。アルトラがいなければ——何されてたか分かんないし」

 今は二年前とは違ってインターネットがある。
 あいつらはまた私を辱めて、次は世界中の誰とも知れない相手に、その動画を売り捌いていたに違いない。
 手段《やり方》にこそ問題はあったが、結果として私はアルトラに救われたのだ。

「むしろ、私がいなければ……あいつらを殴ることだって無かったでしょ」
「それは……分からない」

 そう言いながら彼は首を横に振って、そのまま彼は、私と目を合わせようとはしなかった。
 ——彼は、彼自身を正当化しようとはしてくれなかった。

第7話『正義の証明』

第7話『正義の証明』

 時計の針が頂点で重なった頃、私のお腹の虫が不躾に鳴き声を上げたのを聞いて、アルトラは隣の家に住むおばあちゃんに、二人分のお昼ご飯を用意するよう連絡をしてくれた。
 それからアルトラは自分の腕に巻かれた包帯を眺め、安心したかのようなため息を吐きながら、優しい微笑みを浮かべる。

 ——そして、ゆっくりと、奴らがどうなったのかを話し始めた。

「あいつら、二人とも軽症だったってさ」

 ——気絶して救急車で運ばれた高校生二人と、血だらけのアルトラの姿を思い出して、私の身体は硬直する。
 軽症……? あんなに血を流して、気を失う程の大喧嘩だったのに……?
 恐怖で下唇に噛み付いている私を見て、彼は私が説明を求めていると思ったのか、私が苦手な暴力の話を続ける。

「ちゃんと手加減したから」
「……手加減?」

 どう見ても、完全に相手を殺そうとしているように見えた——というより、彼は衝動的に手を上げたわけではないのか。
 あんな狂ったような目で私を睨んだのは——私を守るために、暴走してしまったからではないのか。

 無意識のうちに不満な表情を浮かべていた私に、アルトラはまるで弁明でもするかのように、慌てた様子で身振り手振りを交えながら語る。

「ほら、急所は狙ってない、骨も折らないように『壊れにくい』所を狙って殴ったし……大外刈りで後頭部から落としたのはヤバイと思ったけど……」
「——その後で、倒れた相手を蹴り飛ばしたのは?」
「『キツケ』のためだよ——反応が無かったから、マズイと思って」

 アルトラは、暴力を語る。
 ——まるで、スポーツの話でもするかのように。

「……ありがとう、アルトラ」

 私の理解は追い付かず、とにかくアルトラが『必要最低限』の暴力で私を助けてくれたということにして感謝する。
 ——しかし私は、暴力を肯定されて喜ぶアルトラに、なんとも言えない、モヤモヤした気持ちを感じた。

 私が感謝しているのは彼の力に対してではなく、彼の気持ちと行動に対してだ。
 ——だがその行動とは、やはり暴力であり、彼はそれを誇りとすら思っている節がある。
 そしてその気持ちが、私を救いたいという純粋なものではなく、喧嘩という名のスポーツを行うための『大義名分』でしかなかったのなら……?

 私の感謝に『分かってくれたか』と言いたげな顔で嬉しがる彼に対して、私は言いようのない不快感のような……救われた側とは思えない程に身勝手な気持ちを抱く。

 ——私のヒーローが、暴力を望んじゃ、駄目でしょ。なんて。

 ……何を伝えれば『暴力』を否定し『彼《アルトラ》』の優しさを肯定出来るのだろう。
 ——何を伝えれば、彼を『理想のヒーロー』に出来るのだろう。

「……ねえ、アルトラ、暴力はもうやめて欲しい」

 率直な言葉でそう言うと、彼はキョトンとした顔で「なんで?」と問いかける。
 そんな彼を、私は試すように答える。

「だって、暴力を振るえば、またアルトラが悪いって言われちゃうし、アルトラだって本当は暴力なんて振るいたくないでしょ……?」

 すると、彼は『なおさら理解不能だ』といった反応を見せた。
 私は、そんな彼に——少し失望した。

「暴力って、タイミングじゃないの? それが許される場合と、そうではないことがあって、今回は許される場合だったから——だから暴力を振るったんだけど……」
「つまり——私をダシに、暴力を振るったの?」
「違う、そうじゃないけど……」
「矛盾してる」

 ——彼の考えは矛盾している。
 彼は確かに過去の暴力事件に後悔があり、確かに暴力には極力頼らないようにしているはずだ。
 そうでなければ——喜んで暴力を振るう、噂通りのアルトラなら、奴らを無視して逃げようとするなんてことはしないだろう。

 なのに何故、さも『機会さえあれば暴力を振るう』といった態度を見せるのか。
 ——何故、ヒーローらしからぬ態度を取るのか。

「リン、確かに暴力は良くないことなのかも知れないし、野蛮で危険なことなのかも知れないけれど、時には必要になる行為だって、君なら分かっているはずだろう」

 ……つまり、アルトラは暴力を肯定はしないが、手段として持つべき力なのだと言いたいのだろうか。
 機会が来たなら暴力を『振るわなくてはいけない』と、そう考えているのだろうか。

 ——そもそも彼の中には『仕方のないこと』を選択するのもまた『正しい』という考えがあり、それ故に彼は、彼を否定するみんなを、決して否定はしない。

「みんなが僕を避けるのも、僕が暴力を振るうのも、リンがそれを否定するのも、全部みんなが『正しい選択』をしてるからそうなっているだけ」

 まるで哲学の話だ。
 つまりアルトラは、私が彼に望むものを、与えてはくれない。
 ——それが彼にとって『正しい選択』でないのなら。

「昔、友達だった奴から教えられたんだけれど、人間はみんな自分にとって『正しい』選択を繰り返して衝突するものなんだ、って考えた人がいたらしくて、ルールや正義なんてものは、そもそも誰かにとっての『正しさ』を制限する為のものに過ぎないんだってさ」

 確かにそうかも知れない、皆がみんな、好き勝手に自分の『正しさ』に従ってしまえば、私たちはきっと、無限に『闘争』を繰り返して、きっと無限の暴力に陥る。

「だから『普通の人』はルールに従って生きるべきで、そうしていれば安全で快適に生きていられる——でも僕は違う」

 アルトラは諦めたかのようなため息を吐いたあとで、何も言い返せないまま、ただ彼の意見に集中する私を見て、話を続けた。

「バカヒロのせいで敗北《ドロップアウト》した僕は、『普通』であることを許されなくて、何かを守るためには、『|ルールや正義の外の人間《アウトロー》』として戦うしかないんだ」

 優しく諭すように、そう説明する彼の目には、どうやっても隠しきれない寂しさのようなものが滲んでおり、その目は今までどれだけの人に見捨てられてきたのかを物語っているかのようだった。

「だから、リンも……この機会に僕やあいつらとの関わりを断ち切るのが正解だって、本当は分かっているはずだ」

 そうやって、私がアルトラを利用するだけして捨てたとしても、彼はそれを正しい選択として、きっと許してしまうのだろう。
 私とアルトラの『正しさ』は別で、当たり前のように受け入れてきた、暴力という『間違い』は正されるべきという考えは、彼の現実には通用しない。

 ——そして同時に、彼の『正しさ』もまた、私の現実には通用しなかった。

「……それでも、私はあなたが正義だと信じる」

 彼の考えも、行動も、彼の立場からすれば正しく、むしろ彼はそれでも一人で罪を背負い、強く生きようとしている。
 ならば私がやるべきことは、彼から暴力を奪うことではなく、彼が暴力に頼らなくても済むようにすることなのだろう。

 ——私のヒーローが、過去を泣かなくて済むように。

「私は、私の《正義》に従って、あなたをそこから救ってみせる」

 ——そして、私たちの正義を、証明してみせる。
 彼と目を合わせて、私はそう宣言したのだった。


 お昼ご飯をご馳走になりながら、私はずっと考えていた。
 彼を救うために、むしろ今回の暴力事件は利用できるのではないか、と。

 アルトラがみんなから避けられる理由が『善良な一般人を殴った』という噂にあるのなら。
 今回の『私を救うために高校生達と戦った』という事実を利用して、過去の噂を『淫行教師の成敗のために戦った』という噂で書き換えてしまえれば、みんなが彼を再評価してくれるのではないか。

 そんなことをずっと考えながら、彼の祖母が作ってくれた手料理を頂きつつ、その噂を流す手段について考えていた。
 ——そして、私にとっての『最適解としての正解』を導いてしまった。

「《正義の証明》と……」

 食事中に私がそう呟くと、アルトラは「なにそれ」と箸を止めて質問する。
 まさか口に出ていたとは思わず、慌てて自分が『どちらの計画』を零したのかを確認し——ひとまず安心する。

「……アルトラの過去の噂について、その動機と背景を説明出来たなら、みんな考え直してくれるんじゃないかなって」

 平静を装い、サンマの身をほぐしながら、私はアルトラに計画の内容を話す。
 ——嘘は吐いていない。
 彼をみんなのヒーローに押し上げる計画、それが《正義の証明》で、私は彼を守るために、この計画を進めるのだから。

「……でも、どうやったらみんなに聞いてもらえるか分かんないから、どうしようかなって」

 クラスメイトたちはアルトラの話をしたがらない——まして、既に避けられている私が話すのを、誰が聞いてくれると言うのだろう。
 ——そんな手詰まりに見える状況に、彼は意外な提案をする。

「それなら、学校掲示板は?」

 ……なるほど、それなら夏休みが開ける前に着手出来るし、直接話すよりは聞いて貰えそうだ。
 そのようないじめの温床を見ても、きっと気が病むだけなので、裏掲示板の存在自体の話は聞いたことがあったが、完全に意識の外に置いていた。

「意外。アルトラって、そういうのには興味無いんだと思ってた」
「まあ、ね。書き込んだことはないんだけど」

 アルトラはスマートフォンを取り出し、ブックマークページから『市立中央中裏掲示板』のページを開きながら、そう言った。
 ネットサーフィンを行う前に、お昼ご飯を食べきり、私たちは各々のスマートフォンで、学校掲示板にアクセスした。

第8話『掲示板』

第8話『掲示板』

 テレビの上で静かに稼働し続けるクーラーの冷気によって、白色の保冷剤のようになった、液晶の細かいヒビ割れが目立つスマートフォンを手に取る。
 そして私は、真っ黒の背景に白色の文字でいくつものスレッドが並ぶ『中央中裏掲示板』と題されたサイトにアクセスした。

『【悲報】アルトラ、また警察に捕まるwww』
『アルトラのことが嫌いなやつ集合』

 やはり例の暴力事件の影響か——書き込みがある度に上位に来るらしいシステムの、トップ2つのスレッドは、アルトラに関する話だった。
 後者はそもそも見る気にもならないので、消去法で上のスレッドを親指でタップする。
 一瞬のロードの後、上からゆっくりと書き込みが現像されていき、名前も顔も知らない誰かの、秩序も責任もない世界での書き込みがあらわれる。

『高校生ボコすとかやばくね?』
『トラっていうか、ゴリラやん』
『なんか、同級生の|赤星鈴《あかほしりん》ってやつもいたらしいよ』

 書き込みの中に、いきなり私の本名が出てきたので、驚いてスマートフォンを落としそうになる。
 夏休み中だというのに、彼らは一体どこからそんな噂を聞きつけてくるのか——感心してしまう程、人を悪く言うことに心血を注いでいるようだ。

『女の子を守るために戦った、って話もあるけど』
『殴り合いの口実にしただけだろ』
『ってか、アルトラに付き従う女なんて、ろくでもない女に決まってる』

 ……自分の認識が正しいことを証明するためなら、知らない誰かを想像で貶めるのは当たり前。
 彼らにとって無知は罪ではなく、むしろ都合良く解釈をするための余地だった。
 そんなものを想像力と呼んで、平気で誰かを傷付ける世界《インターネット》を——私は好きにはなれなかった。

 しかし、数件の書き込みを流し読みしていると、中には『擁護派』の意見も存在しているようだった。

『私は東小出身だけど、アルトラは理由が無ければ暴力を振るわないよ』
『不良に絡まれて突き飛ばしてる姿を見たことがある奴はいても、自分から殴りかかる姿を見たやつはいない』
『そもそも、噂自体が小五の担任の謀略だろ』

 そんな擁護派のコメントに対して『自演乙』というコメントも見られるが——意外と潜在的な味方が多いことに驚いた。

「……そっか、皆がみんなアルトラを嫌ってるわけじゃなくて、ただ単に関わらないようにしてるって人が大半なんだ」

 確かにそうだ——誰もが私のように、物事に白黒つけて考えようとするわけではない。
 その上で、彼らのような集団が一つの思考で動いているのではなく、それぞれが異なる考え方に基づいた異なる意見を述べるのは、考えてみれば当たり前だった。

「いろんな人がいる。僕のことを知ってて嫌っている奴、知らずに嫌ってる奴、あるいは逆に、知ってるから擁護する奴もいて——あの日のリンみたいに、知らずに擁護する奴もいる」

 無視やいじめは、彼らの総意によって行われているのではなく、自然に発生しているのだ、と。
 包帯をしていない左手で、スマートフォンを操作しながら、彼は言う。

 ——いじめの構造が見えてきて、私は少し、希望を感じた。
 私はアルトラを救える。
 私のヒーローを、助けられる。

「それなら、私が名前を出して、アルトラの《正当性》を訴えればいい。そうしたらみんな、きっと分かって——」
「自演乙」

 アルトラは、先程のコメントを読み上げるかのように、そう言った。
 ——まるで、いらないことはしなくていい、と釘を刺すように。
 ……どうして? 私は、あなたを救いたいんだよ?

 急に突き放すような態度を見せた彼に、ショックで口が空いたままになってしまった。
 そんな私とは目も合わせずに、アルトラは寒いくらいによく冷えた部屋の壁掛時計を見ながら、まるで私を諭すように話し始める。

「リン。気持ちは嬉しいけど、正直——そもそも僕は《正義の証明》なんて、必要ないんじゃないかって思ってる。それに、多分放っておいても、正しいタイミングで行われた暴力ってのは、自然と肯定されていく」

 まるで大人のような横顔で——嵐が過ぎるのを待つような、どこか寂しそうなのに、何か確信があるような顔で、そう言った。

「……親父の受け売りだけどね。今回の件について、親父は『良くやった』と褒めてくれた」
「そう、なんだ」
「みんなが、自分の立場における正解を選んでいくのなら、このことで僕の立場はきっと変わらない。リンが家族と大喧嘩してまで、誰かを助けようとする意味が——僕にはわからない」

 彼はまるで、私が大きなお世話を焼いているのだと指摘するように、そっぽを向いたまま、私の選択を否定したのだった。
 アルトラは、私の助けなんて必要としていない——?
 ただ一人、私だけが彼にとって『間違った』ことをしている?
 私は独り善がりで、勝手に彼を助けようとしている?

 目の前のヒーローが遠くに行ってしまったようで、急に身体が震え始める。
 ——いや、違う。
 アルトラに思惑を看破されたような気がして、怖くなってしまったんだ。

 ……私はなんて身勝手なんだろう。
 彼に理想のヒーロー像を押し付けようとして、それを拒絶する哲学を知って、そのうえで私は——彼の『正しさ』を利用しようとしていただけなんだ。
 ——私が彼に望むものを与えることが、彼にとって『正しい選択』になるように、仕向けようとしていただけなんだ。

 そして気付いてしまった。
 そもそも《正義の証明》が——
 誰の『正義』を証明しようとしているのかを。

 今更になって、自分が彼にとって『何でもない』存在で、むしろ彼の世界でただ一人、彼の『正しさ』を否定する邪魔者なのだと分かってしまい——涙が出てきた。
 私は、彼を支配しようとしたんだ——

「ごめ……んなさい……」

 思えば私は、彼に迷惑をかけているだけではないか。
 関わるなというみんなの忠告を無視して、求められてもいない救いの手を差し伸べて、挙げ句の果てに、彼の考えを全く理解できないまま、自分の価値観を押し付けようとした。
 それで一人で勝手に泣き始めて……彼を困らせているだけじゃないか。

「私が、間違ってました……迷惑かけて、ごめんなさい……」

 涙が頬を伝うのが嫌で下を向くと、大粒の涙がスマートフォンに落ちて、画面が勝手に動き始める。
『偽善者が』というコメントが、まるで私を嘲笑うかのように上下し、私は耐えきれずにスマホの画面を切った。

 ——私は、汚い女だ。
 私は最低の、偽善者なんだ。

「違う——ああ、もう……」

 私の泣き声に釣られたのか、アルトラも少し泣いているようだった。
 ——なんで、あなたが泣くの?
 私はあなたを利用しようとして、傷つけて、その傷を汚そうとしたんだよ?

 それなのに、アルトラは包帯で涙を拭いながら、私に優しく話しかけてくれる。

「迷惑なんかじゃないし、嬉しかった。だから——本当は、突き放したくなんかない」

 ……なんで、ここでさっさと帰れって言えないんだよ。
 呟くようにそう言うアルトラは、顔を抑えて咽び泣く。
 ——そんな彼に、私の目は奪われた。

「ごめん、リン。こんな……巻き込んで、悩ませて、苦しませて……泣かせて」

 抑え切れない優しさが、孤独を拒んで涙となって、彼の膝の上にぼたぼたと零れ落ちる。
 そんな彼の姿に、私の胸は締め付けられるようだった。

 ——なんであなたは、そんなに優しいの?
 あなたを利用しようとした最低な私を、許すどころか——受け入れて、それを自分のせいにするの?

 私の汚い涙も、膝の上にボタボタと落ちる。
 私が彼を許すなんて、そんな烏滸《おこ》がましいことを——私はしなくちゃいけない。

「——気にして、ないよ」

 私は、どうしようもなく胸の内からこみ上げる衝動を抑えて——この汚れた体がどうしても憎くって、ただ拳を握りしめるしかなかった。

———————

 まだ日は高かった上に足取りは重かったが、あれ以上彼と一緒にいると——自分を傷付けたくなって仕方がなかったので、一人公園で時間を潰した。
 そして、一応門限の17時に間に合うように家に帰ると、母は三人分の夕飯を作るのを中断して、私を玄関まで出迎えに来てくれた。

「リン、おかえり」

 母は、どこに行っていたのかなんてお見通しだ、といった様子で、玄関先で靴を脱いだ私を、強く抱き締めてくれた。

「お母さんは、あなたを応援してる。だからきっと、お父さんもいつかわかってくれるはずよ」

 優しく抱擁しながら、父に聞こえないよう小さな声でそう言い終えた母は、抱擁を終えると「お風呂、先に入っちゃいなさい」と言いながらキッチンへと戻って行った。
 リビングに顔を出すこともせず、着替えのパジャマが用意してあるのを確認し、汗でベタつく下着を洗濯機に投げ込む。
 そして、沸かしたての温かいお風呂に、ラベンダーの入浴剤を一杯投下し、シャワーの水が適温になるまで待ってから、タオルで石鹸を泡立たせて今日一日の疲れや汚れを落とす。

 ……これで、全ての汚れが落ちてくれるなら、どれだけ良いのだろう。
 汚された私の身体では、彼を抱き締めることすら出来ず、傷だらけの手首では、彼の手を握ってやることすら出来ない。

 私は——いったい彼の何になれるのだろう。
 ——いったい彼に何を捧げられるのだろう。

 身体を洗っている間、ずっとそんなことを考えながら、スマートフォンをジップロックに入れてから浴槽に持ち込み、身体の芯が少しずつ温まるのを感じつつ、例の掲示板を覗き見ていた。

『結局、赤星鈴《あかほしりん》って誰だよ』
『その女の子、昔その高校生(当時は中学生)にいじめられてたよ』
『アルトラをけしかけた黒幕ってこと!?』

 ——誰かに役割を負わせて、それで勝手に納得しようとするという点で、私も彼らと大差はなかった。
 掲示板の書き込みを眺めつつ、少し不快な気分になっていると、アルトラからメッセージが届く。

『来週末、良かったら一緒に花火見に行かない?』

 通知を見てすぐに『行きたい!』と連絡を返すと、彼からもすぐに既読がついて、笑顔の顔文字が送られてきた。
 ——私は、許されてしまった。
 彼は、まだ私を友人として受け入れてくれているのだ。

「——アルトラ」

 ほとんど無意識に彼の名を口にしていた。
 ——もっと、仲良くなりたい。
 もっと、あなたを知りたい。
 押し付けるためではなく、分かり合うために。

 そんなことを考えていると、ご飯が出来た、と母がお風呂の外まで呼びに来てくれたので、私はすぐに出る、と答えながらスマートフォンの画面を切って、お風呂を上がることにしたのだった。

第9話『花火大会』

第9話『花火大会』

 真夏とはいえ、流石に夕方頃には蝉たちも歌い疲れたようで、代わりにマツムシか何かが鳴き始めていた。
 私たちのような中学生にとって、17時過ぎに家を飛び出して友達と祭りに行くというのはやはり特別なことで、何故だが普段より格段に楽しく感じていた。

「今日は浴衣なんだね」

 甚平姿のアルトラは、私の浴衣姿を見ても、可愛いだとか大人びている、といった感想は口にしなかった。
 ——少しは異性として見てくれてもいいのに、そういうところはまだ子供っぽいのだ。

「お母さんがこれ着て行ってらっしゃいって、着せてくれたの」

 祭りに行くことに断固反対する父を説得し、自転車で行くと言っているのに、時間を掛けてまでこんなに漕ぎにくい格好をさせてくれる母は、たまに家の中で誰よりも頑固になる。
 それでも「今日は楽しんでらっしゃい」と言って、へそくりを私の財布に入れてくれたので、やはり母は私が誰と祭りに行くのかもお見通しのようだった。

「えっと……いい感じ、だよ?」

 アルトラは頑なに可愛いとは言わないが、腕を広げて感想を求めた私を、当たり障りのない言葉で褒めてくれた。
 ——そういう私も、彼に格好いいとは言えないので、お互いさまなのかも知れない。

「……ちょっと漕ぎにくいから、いつもよりゆっくり走ってくれると嬉しいかも」

 自転車に乗る以上、流石にスニーカーを履いてきたが、浴衣での走行には慣れず、思ったよりスピードは出せなかった。
 私たちは山を超え、トンネルを抜け、そして花火大会の会場である河原に到着したのだった。

「すごい人混みだねー……」

 私は自転車を降りながら、すごい勢いで私の方から視線を外したアルトラに「スパッツ履いてるよ」と笑いつつ、自転車に鍵をかけた。

「——えっと、取り敢えず屋台の方行こうと思うんだけど……平気?」
「うん、はぐれないように着いていくから大丈夫」

 私はスマートフォンや財布をスられないように、カバンごと右脇で抱えて、動き始めたアルトラの右隣を歩く。
 すると、アルトラは右手を差し出したかと思うと——何故か手刀を作って、宙ぶらりんの私の左手には触れないように歩いた。

「ふふ、なにそれ」
「だ、だって近いから……手が当たりそうで……」

 確かにそうだ、意識していなかったが、人混みのせいで私たちは今までにないくらい、触れそうな程に近くで歩いている。

「……気にし過ぎ」

 触れる触れないで言えば、私はアルトラが高校生に倒された時に覆い被さったし、今更そんなことで気にする必要はないのに——アルトラはキョロキョロと周囲を警戒しながら、手刀を崩さなかった。

 ドーン、と黄色や赤や緑の花火が上がり始め、みんなが音のする方を見ては「おぉー」と感嘆を上げたり——左隣では音がする度に肩をすくめる人がいたりする。
 それでも彼は花火に顔を照らされつつ、無邪気な笑顔で「綺麗だね」と、花火に釘付けになったまま、語りかけるようにつぶやきながら、一段とゆっくりになった人混みの中を歩いていた。

「うん、素敵。来て良かった」

 様々な色で照らされる暗闇の方に目をやると、彼の目と同じようにキラキラ、パチパチと花火が輝いていた。
 町内放送の音質の悪いスピーカーが協賛者を読み上げ始めると、そこかしこから上がる大きな拍手に送られながら最初の花火が終わり、人混みはまた少しずつ動き始める。

「そうだ、せっかくだから、一緒に何か食べようか」

 人波に合わせて歩くアルトラは、無邪気な笑顔のまま私の方を向いて、よりいっそう密度を増した人混みの中で——より鋭い手刀を構えて、屋台の方へと切り込んだ。
 屋台で焼きそばや唐揚げ、アルトラはタレたっぷりのゲソまで買うと、河川敷と堤防の間あたりの、草が生い茂り人が少ない所に座れそうな石を持って来て、そこで次の花火を待ちながら食事をとった。

「……ゲソって、美味しい?」

 見た目がグロテスクな割に、美味しそうな焼かれたタレの匂いを放つ、未知の食べ物に——興味があり、私はアルトラに一口ねだってみる。
 アルトラは少し躊躇したが、口を開けて待つ私に、まだ齧《かじ》っていない横の部分を差し出したので、「口が汚れちゃう」と言いつつ、先端の食べやすい所を勝手に齧ってやった。

「……気にしないならいいけどさ」

 アルトラはどこか恥ずかしそうにしながら、私から目を逸らした。
 ——はじめて食べたゲソの味は、塩っ辛い。
 でも、良い味をしている。

「味強いのに、ご飯とも合わなさそうだけど、美味しい」
「ビールと一緒に飲むと美味しいんだけどね」
「えっ、アルトラお酒飲むの!?」
「シーッ! 昔だよ昔、最近はみんなうるさくって飲ませてもらえないから」

 確かにほんの数年前までは、盆正月の集まりで子供でもビールを当たり前のように『飲まされて』いたが、ここ最近は飲酒運転にも未成年飲酒にも厳しくなった。
 ……そういえば昨日、父も「実家に行っても酒も飲めんのか」などとボヤいていた気がする。
 運転するのは母だが、他の親戚が飲めない中で一部が飲むのも不平等だ、という話らしい。

「なんか、飲酒運転とかが当たり前の時代があったなんて、信じられないよね」

 アルトラがゲソに口を付けるのを躊躇《ためら》っているのを横目に、私はここ最近の時代の変化について語る。
 体感だけかも知れないが、今年——2011年になり、みんながスマートフォンを持ち始めて、インターネットが当たり前になってから、急に何もかも変わり始めたような気がした。

「……そりゃあ、大きな出来事があれば考え方は変わる。それこそいじめや暴力だって、これからは更に大事《おおごと》として扱われていくようになると思う」

 アルトラは決心したように間接キスを受け入れ、ゲソをかじりながら言う。
 確かに、彼の担任だって、今の時代は決して許さず——きっと、みんなアルトラに味方したに違いない。

「それって、いいことだね」
「……どこが?」
「えっ、だって……いじめがなくなれば、アルトラは暴力を振るわなくて済むし……」
「——そういう順番なら良いけれど、実際は抵抗する手段だけを先に奪われて、問題は解決出来ないから放置されてるじゃん」

 アルトラはゲソを食べ終わると、そのまま私の手元にある唐揚げを一つゲソの串でさして、口に運びながらそう言った。
 ——確かにアルトラの言うことは正しいのかも知れない。
 今よりももっと暴力が『禁忌《タブー》』になった世界では、きっと高校生をあそこまでボコボコにしたアルトラは、罰されていたのだろう。

 つまり、誰かが助けを必要としていても、誰も動けなくなる日が来るのかもしれない。

「でも、それも仕方がない。だってルールを作るのはみんなだから」

 まるで何でもないように、彼はまた自分の『正しさ』に従って、自分の『正義』が『悪』になることを受け入れようとする。
 ——彼の言う『みんな』とは、背景や実情を知らないまま、他人を悪く言ったり無視したり、関わらないようにする人たち——これまで彼を見捨てて来た人たちのことなのだろう。

「……それでも仕方ないって思うんだ」

 それぞれがそれぞれの『正しさ』に従って、誰かが——自分が見捨てられる側になろうとも。

「うん、仕方がない。でも、そうやって見捨てられた側がルールを破るのも仕方がない時代が来るだけだよ」

 焼きそばを食べるために、口に咥《くわ》えた割り箸を引き裂きながら、アルトラは言う。
 ——もしそんな時代が来たとして、私たちはきっとそんな新しい『|ルールを破る奴ら《犯罪者》』を許すことはない。
 むしろ『そうなって当然の愚者《おろかもの》』として、堂々と批判するのだろう。

 その時、きっとアルトラだけは冷めた目で「|罰する《いじめる》のも仕方がないよな」なんて言いながら——きっと自分も|罰される《いじめられる》側に回ってしまうのだろう。
 ——そしてその時、きっと私はそんなアルトラを守ろうとして「間違っているのは|皆《ルール》の方だ」と言うのだろう。

「ほら、見て、次の花火が始まったよ!」

 アルトラは焼きそばを食べながら、また笑顔になり私の方を見ると、明るく染まった空を眺め始めた。


 補導時間《9時》までに家に帰るには、名残惜しいが8時30分には会場を後にする必要があった。
 とはいえ、クライマックスは10時の予定なので、どちらにせよ中学生の私たちは見ることが出来ないのだが。

 帰り道の人混みの中でも、アルトラはまた手刀を構えつつ、私の手には触れないように歩いた。
 ——だから、私は彼の手刀の腕を掴んで、驚いてこちらを見るアルトラに言った。

「ほら……はぐれちゃいそうだから『仕方ない』でしょ」

 アルトラは、花火の光のせいか——耳を真っ赤にさせながら「そうだね」と言って、手を握り返してくれた。
 温かくて、大きくて、ゴツゴツした手が、人混みから離れた場所へと導いてくれる。

 ——二人で手を繋いで歩いた、たった3分は、きっと大人たちが見る花火のクライマックスなんかより、ずっと思い出に残るだろう。
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