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【おまけ】テーマ曲
セノ・キャラクターソング
『ラブリーエンジェル メゾフォルテ』あらすじ/免責
ピアノの正式名称は『ピアノフォルテ』である。
そしてピアニストとは音の強弱を繊細に弾きわけ、その感情を表現する者である。
セノは同級生の天才ピアニストであるレンと出会い、彼の表現に身を委ねていく。
彼の奥底にある、誰にも理解出来ない何かを知るために、自らを彼のためだけの表現の道具——楽器として生きることを望んだのだ。
※性的な描写があります
※極力直接的な表現を避けていますが、ガイドライン違反と判断された場合は通知なく作品全体を非表示にします
※本作品に反社会的な行動や非倫理的な行動を推奨する意図はありません
※この物語はフィクションです。実際の人物・地域・文化・歴史・企業を貶める意図はありません
そしてピアニストとは音の強弱を繊細に弾きわけ、その感情を表現する者である。
セノは同級生の天才ピアニストであるレンと出会い、彼の表現に身を委ねていく。
彼の奥底にある、誰にも理解出来ない何かを知るために、自らを彼のためだけの表現の道具——楽器として生きることを望んだのだ。
※性的な描写があります
※極力直接的な表現を避けていますが、ガイドライン違反と判断された場合は通知なく作品全体を非表示にします
※本作品に反社会的な行動や非倫理的な行動を推奨する意図はありません
※この物語はフィクションです。実際の人物・地域・文化・歴史・企業を貶める意図はありません
目次
【第一章】月光
第1話『ピアニスト』
【過去を哭けよアルトラ】第三部
『C線上のフォルテシモ』
第一章『月光』
第1話『ピアニスト』
——その日、ボクは恋をした。
彼が奏でるピアノの音色は、私が今まで音楽に対して抱いていたある種《しゅ》の偏見を粉々に打ち砕いた。
滑らかでキレがあり、軽やかで重厚であり、優しく力強い——そんな相反する音色が彼の指から、腕から、身体から、心から奏でられ、次第に奏者の世界に引き込まれるような感覚を覚えた。
ピアノなんてただの伴奏用の楽器で、音楽の魅力は歌詞で、心を奪うのはリズムなのだと——そう思っていたのに。
無秩序に速くなっていく演奏なのに、まるでそれこそが『この曲のあるべき姿だ』と言わんばかりの自信と説得力のある技量で、彼は会場のすべての人を納得させた。
——そして曲が終わる。彼が鍵盤から指を離し席を立つやいなや、今日一番の拍手喝采が巻き起こり、思わず席を立ち上がる人すらもいた。
——ボクもその一人だった。
「——すごい」
友人に誘われてそれほど興味も持たずにやって来たピアノ発表会だった。まだ本題の友人による演奏すら終わっていないのに「来て良かった」と心から思えるほどに、ボクは深々と頭を下げるタキシード姿の彼に陶酔していた。
すべての演目が終わり集合写真撮影と花束の授与が行われた後で、私は友人に労《ねぎら》いの言葉をかけるために——否、ボクは彼に話しかけるために舞台の裏に立った。
「あの——!」
自信ありげな笑顔のまま立ち去ろうとした彼に、ボクは迷わず声をかける。彼は発言者の目線を見て、自分に声をかけているのだと気付くと笑顔のままで格好良く一礼をした。
「演奏、凄かったです! ピアノって、あんなに素敵な楽器だったんですね。私、あんまりクラシック? って聞いたことがなくて……」
目を輝かせて話すボクに、彼は自信満々の笑顔で答える。
「ピアノの正式名称は『ピアノフォルテ』という。消え入るほどに儚い音から、焦げ付くほどに力強い音まで。それを繊細に弾き分けるのがピアニストだ」
彼の言葉は「自分こそが真のピアニストだ」という自負と、それに相応しい実力を誇らしげに語っており——ボクは尚更彼に惚れ込んだ。
「君、良かったらこのあと時間あるかい? 発表会の日なのに、父さん仕事で来れなくてさ」
彼はゆっくりとこちらに向かって歩み寄る。いきなりナンパか——とも思ったが、むしろ私の方から話しかけているのだからそれも違うだろう。
しかしこんな祝日に両親とも仕事とは。今時共働きの家庭なんて珍しくはないが——いや違う。彼は父親にしか言及していない。そこから察しようとした私に答えを教えるかのように、彼は笑顔のまま語り始めた。
「そう。母さん、俺が小学生の時に亡くなったんだよね。ひどい事故でさ、トラックの暴走で五人も死んだんだ」
「あっ……ごめんなさい、そんなつもりでは……」
「住宅街で、こう——ペッシャンコ、だってさ。母さんはまだ顔は残ってたからラッキーだった」
引き攣った笑いをする私に彼はにじり寄り、肩に手を触れる。私の中で彼に対する尊敬の念はたちまち警戒に変わる。
「うん、まあ良かったら遊びにおいでよ。家で演奏会の続きをしてもいい」
「あ……ごめんなさい、今日は友達と約束してて」
私は肩に触れた手から逃れるように身体をひねり、見え透いた欲望に対して苦笑いを返した。すると彼の私への興味はすぐに失せたようで、そのまま「あっそう」とだけ口にして会場を去っていった。
そんな彼に対して複雑な気持ちを覚えていると、そこにヒョコッと友人のメグが現れ私に声をかけた。
「災難だったねぇ。アイツ、ストレンって呼ばれてるんだ」
「ストレン?」
「そう、|不審な《ストレンジャー》レンでストレン。元々は|勤勉な《ストイック》レンだったらしいけどね」
……この手のあだ名を聞くたびに思うが、誰がそんな名前を思いつくのだろう。確かにいきなり初対面の異性を家に呼び出すのだから、不審者《ストレンジャー》扱いは妥当だと思うが。
「ねえセノ、私の演奏はどうだった?」
友人が私に演奏の感想を訊ねてきたが——彼の演奏のあとなんて、すべてが霞んで見えて——正直彼女の演奏のことなんて何も覚えていない。
「……うん、上手かったよ、間違いもなかったし」
「うわーん、セノ優しいー!」
そういうと友人は私にいきなり抱き着き、泣き真似をしながら私の胸辺りに頬擦りした。多分よっぽど大きなミスをしていたんだろう。私はそんなメグの頭を適当になでなでしながら、そのミスに興味すら持っていなかったことを少し悪く思ったのだった。
「……ストレン、ピアノは上手いでしょ。なのにアイツ、全ッ然人付き合いしないんだよね」
人付き合い——つまり、家に女の子を呼ぶこと以外のコミュニケーションだろうか。
「たまーにセノみたいな、可愛い女の子に声をかけてはドン引きされて、すーぐ居なくなる」
「ま、まあ才能ある人って他の人と感性違うっていうし……」
「うわー、セノは本当に優しいねぇ。アイツ本当に人間としての感性が欠如してるんだよ、サイコパス? ってやつ?」
確かに母親の死をあれほど楽しそうに語る彼は、人格異常者《サイコパス》に見えた。しかしどうだろう。人は抱えきれない苦しみに立ち向かうとき、それを何でもないことかのように語り、済んだこととして受け入れるものでもある。それが出来ずにより苦しむよりは——マシなのではないか。
メグは思案にふける私を見て、それでも何を考えているかまでは理解しないまま話を続けた。
「学校でも話しかけられないように気を付けなよー。アイツ意外と面倒くさいから」
「学校? ……えっ、彼同級生なの?」
「何言ってんの? |2年1組《ニノイチ》の野外研修のときの合唱伴奏、ストレンだったよ?」
そんなにピアノが上手い人がいた記憶がない。そもそもピアノに興味がなかったのもあるが——10ヶ月前の記憶を辿っても、やはりメグ含めて全員、普通の伴奏だったと思う。
「あー、まあ、ストレン伴奏は下手だからね……連弾とかも出来ないし……」
「……何か違うの?」
「そりゃあ、合唱は指揮者がいるでしょ? ピアノは普段指揮見て演奏したりしないから、みんな結構苦労するんだよ?」
そういうものなのか。以上の感想も出て来ないが、それなら確かに私も覚えていないはずだった。
「まあ、とにかく気を付けて。アイツ、サイコパスのくせに変な『地雷』が多くって、話すのも大変だから……」
メグは去りゆくタキシードの背を嫌な笑顔で見送りながら私に忠告をしたのだった。
『C線上のフォルテシモ』
第一章『月光』
第1話『ピアニスト』
——その日、ボクは恋をした。
彼が奏でるピアノの音色は、私が今まで音楽に対して抱いていたある種《しゅ》の偏見を粉々に打ち砕いた。
滑らかでキレがあり、軽やかで重厚であり、優しく力強い——そんな相反する音色が彼の指から、腕から、身体から、心から奏でられ、次第に奏者の世界に引き込まれるような感覚を覚えた。
ピアノなんてただの伴奏用の楽器で、音楽の魅力は歌詞で、心を奪うのはリズムなのだと——そう思っていたのに。
無秩序に速くなっていく演奏なのに、まるでそれこそが『この曲のあるべき姿だ』と言わんばかりの自信と説得力のある技量で、彼は会場のすべての人を納得させた。
——そして曲が終わる。彼が鍵盤から指を離し席を立つやいなや、今日一番の拍手喝采が巻き起こり、思わず席を立ち上がる人すらもいた。
——ボクもその一人だった。
「——すごい」
友人に誘われてそれほど興味も持たずにやって来たピアノ発表会だった。まだ本題の友人による演奏すら終わっていないのに「来て良かった」と心から思えるほどに、ボクは深々と頭を下げるタキシード姿の彼に陶酔していた。
すべての演目が終わり集合写真撮影と花束の授与が行われた後で、私は友人に労《ねぎら》いの言葉をかけるために——否、ボクは彼に話しかけるために舞台の裏に立った。
「あの——!」
自信ありげな笑顔のまま立ち去ろうとした彼に、ボクは迷わず声をかける。彼は発言者の目線を見て、自分に声をかけているのだと気付くと笑顔のままで格好良く一礼をした。
「演奏、凄かったです! ピアノって、あんなに素敵な楽器だったんですね。私、あんまりクラシック? って聞いたことがなくて……」
目を輝かせて話すボクに、彼は自信満々の笑顔で答える。
「ピアノの正式名称は『ピアノフォルテ』という。消え入るほどに儚い音から、焦げ付くほどに力強い音まで。それを繊細に弾き分けるのがピアニストだ」
彼の言葉は「自分こそが真のピアニストだ」という自負と、それに相応しい実力を誇らしげに語っており——ボクは尚更彼に惚れ込んだ。
「君、良かったらこのあと時間あるかい? 発表会の日なのに、父さん仕事で来れなくてさ」
彼はゆっくりとこちらに向かって歩み寄る。いきなりナンパか——とも思ったが、むしろ私の方から話しかけているのだからそれも違うだろう。
しかしこんな祝日に両親とも仕事とは。今時共働きの家庭なんて珍しくはないが——いや違う。彼は父親にしか言及していない。そこから察しようとした私に答えを教えるかのように、彼は笑顔のまま語り始めた。
「そう。母さん、俺が小学生の時に亡くなったんだよね。ひどい事故でさ、トラックの暴走で五人も死んだんだ」
「あっ……ごめんなさい、そんなつもりでは……」
「住宅街で、こう——ペッシャンコ、だってさ。母さんはまだ顔は残ってたからラッキーだった」
引き攣った笑いをする私に彼はにじり寄り、肩に手を触れる。私の中で彼に対する尊敬の念はたちまち警戒に変わる。
「うん、まあ良かったら遊びにおいでよ。家で演奏会の続きをしてもいい」
「あ……ごめんなさい、今日は友達と約束してて」
私は肩に触れた手から逃れるように身体をひねり、見え透いた欲望に対して苦笑いを返した。すると彼の私への興味はすぐに失せたようで、そのまま「あっそう」とだけ口にして会場を去っていった。
そんな彼に対して複雑な気持ちを覚えていると、そこにヒョコッと友人のメグが現れ私に声をかけた。
「災難だったねぇ。アイツ、ストレンって呼ばれてるんだ」
「ストレン?」
「そう、|不審な《ストレンジャー》レンでストレン。元々は|勤勉な《ストイック》レンだったらしいけどね」
……この手のあだ名を聞くたびに思うが、誰がそんな名前を思いつくのだろう。確かにいきなり初対面の異性を家に呼び出すのだから、不審者《ストレンジャー》扱いは妥当だと思うが。
「ねえセノ、私の演奏はどうだった?」
友人が私に演奏の感想を訊ねてきたが——彼の演奏のあとなんて、すべてが霞んで見えて——正直彼女の演奏のことなんて何も覚えていない。
「……うん、上手かったよ、間違いもなかったし」
「うわーん、セノ優しいー!」
そういうと友人は私にいきなり抱き着き、泣き真似をしながら私の胸辺りに頬擦りした。多分よっぽど大きなミスをしていたんだろう。私はそんなメグの頭を適当になでなでしながら、そのミスに興味すら持っていなかったことを少し悪く思ったのだった。
「……ストレン、ピアノは上手いでしょ。なのにアイツ、全ッ然人付き合いしないんだよね」
人付き合い——つまり、家に女の子を呼ぶこと以外のコミュニケーションだろうか。
「たまーにセノみたいな、可愛い女の子に声をかけてはドン引きされて、すーぐ居なくなる」
「ま、まあ才能ある人って他の人と感性違うっていうし……」
「うわー、セノは本当に優しいねぇ。アイツ本当に人間としての感性が欠如してるんだよ、サイコパス? ってやつ?」
確かに母親の死をあれほど楽しそうに語る彼は、人格異常者《サイコパス》に見えた。しかしどうだろう。人は抱えきれない苦しみに立ち向かうとき、それを何でもないことかのように語り、済んだこととして受け入れるものでもある。それが出来ずにより苦しむよりは——マシなのではないか。
メグは思案にふける私を見て、それでも何を考えているかまでは理解しないまま話を続けた。
「学校でも話しかけられないように気を付けなよー。アイツ意外と面倒くさいから」
「学校? ……えっ、彼同級生なの?」
「何言ってんの? |2年1組《ニノイチ》の野外研修のときの合唱伴奏、ストレンだったよ?」
そんなにピアノが上手い人がいた記憶がない。そもそもピアノに興味がなかったのもあるが——10ヶ月前の記憶を辿っても、やはりメグ含めて全員、普通の伴奏だったと思う。
「あー、まあ、ストレン伴奏は下手だからね……連弾とかも出来ないし……」
「……何か違うの?」
「そりゃあ、合唱は指揮者がいるでしょ? ピアノは普段指揮見て演奏したりしないから、みんな結構苦労するんだよ?」
そういうものなのか。以上の感想も出て来ないが、それなら確かに私も覚えていないはずだった。
「まあ、とにかく気を付けて。アイツ、サイコパスのくせに変な『地雷』が多くって、話すのも大変だから……」
メグは去りゆくタキシードの背を嫌な笑顔で見送りながら私に忠告をしたのだった。
第2話『三年生』
第2話『三年生』
春休みが終わり、新学年が始まる。先生の「高校受験が」「高校0年生が」という言葉にみんなげんなりしながら、それでも仲のいい同級生と同じクラスになったことを喜びあったり、ことあるごとに廊下で元同級生たちと話をしていた。
「うわー……セノ、よりによってストレンと同じクラスになっちゃったんだね」
別のクラスになったメグは、廊下からうちのクラスの面子《メンツ》を見て笑った。かなり色物揃いというか……一言で言えば、根暗《ねくら》の雑煮だ。
「暴力装置《アルトラ》までいっしょなんだ。まあ制御装置《リン》もいるから、問題は起きないと思うけど……」
席に座ったままの大柄な少年と、それに横から抱き着く小柄な少女。一年、二年の両方で警察沙汰を起こしている不良のアルトラと、彼の暴走を止めるためなら土下座までするリンは学年の有名人だった。
「リンちゃん、堂々と人前で抱き着いてる……なんか、変人揃いのクラスに紛れ込んだ気分」
「あはは、そうかもね。変人に染まらないように気をつけてねー?」
抱き着かれるのを恥ずかしがり、腕の拘束を解きながら何かを話しかけつつ彼女の頭を優しくなでる男と、とろけるような笑顔でそれを受け入れる女。
——しかし正直羨ましい。いったい何があれば、異性同士であんなに仲良く触れ合えるのだろうか。
「——してると思うよ、エッチなこと」
「なっ——!」
突然そんなことを耳元で囁くメグに驚愕しながら、視線を彼女に戻す。
「えー? 抱き合う二人に釘付けになって、そんなこと思ってたんでしょー?」
「ち、ちがうよ! ボクはただ、どうやったらあんなに仲良くなれるのか気になっただけ!」
「じゃあ合ってるじゃん、やっぱり『そういうこと』をしてこそ、あそこまで仲良くなれるんだと思うよ」
不純だ——でも、その感性は分からなくもない。
《《はじめて》》を大切な人にあげたい気持ちと、その大切な人が見つからないのに増大していく欲求は、ときに……いや毎晩、矛盾に満ちた自らを癒やす行為に至らせる。
その矛盾を解消してくれる相手——大切な人がいたなら、きっと|あの子《リン》のように、抱き着きたくなってしまうだろう。
——行為《セックス》を通して、絆はより深まるのだろう。
「では、女子保健委員は赤星《あかほし》さんに決定します」
新クラスの委員決めで保健委員になったリンに、皆《みな》が形式上の拍手を送る。
対立候補との差は大きかったが、それは彼女が去年も保健委員として活動した実績があったというだけのことで、別に誰がどの委員になろうと関係がない。
それでも一喜一憂してしまうのは、多分人間の性《さが》なのだ。明日には忘れるようなことで笑顔になれるのは、きっと私たちの愚かさゆえなのだろう。
「……次に、男子合唱係を決定します。候補者は有賀《ありが》さんと、須藤《すどう》さんです」
名前を呼ばれて立ったのは、不良《アルトラ》と不審者《ストレン》だった。担任が音楽の先生なのに、二者択一で変人のどちらかが音楽に関わる係をやるというのだから、笑ってしまう。
出席番号《あいうえお》順に行われる演説では、先にアルトラが教壇《きょうだん》に立ち、堂々と話し始めた。
「僕は歌うのが好きです。でも上手くはない。けれど、下手でも力いっぱい歌えば、歌うのが好きになる。
合唱は上手い人だけが歌う場ではなく、いろんなパートが声を合わせて一つの音楽になります。もちろん、僕みたいに下手でも、その音楽の一部になれます。百点満点じゃない。
足して、合わせて。楽しい合唱を作ります」
与えられた20秒のスピーチを、メモなどを見るわけでもなく、緊張もせずにハキハキと喋った不良《アルトラ》に拍手が送られる。
少し意外なくらい、しっかりとした演説に送られた拍手は、心なしかこれまでに送られた形式的なものよりも長く、皆が感銘を受けているかのようだった。
それに続いて、不審者《ストレン》のスピーチが始まった。
「——合唱は、ピアノ伴奏なくして成り立たない。ア・カペラの音楽でもなければ。
僕は多分歌わない。僕はピアノを弾く。そのとき、みんなが上手く歌えていなければ、ピアノを弾く意味もない。
だから、みんなに付いて来て貰うために合唱係に立候補した。よろしく——」
対立候補《アルトラ》の演説とは打って変わって、少し冷たい、ピリッとした空気が教室を巡る。
委員決めなんかで、真面目になっている人なんてそういないのに、皆この『対決《カード》』だけは面白そうだ、という様子で見ていた。
「では、顔を伏せて、投票する候補に手を挙げてください——有賀さんに投票する人は手を挙げてください————降ろしてください」
最初に決まった学級委員が上がった手を数え、書記係が黒板に数字を書き、次はストレンの票を数え……という動作が、他のクラスで起こった拍手の音の中で行われる。
「顔を上げてください」
黒板に書かれた数字は、二人の人気を比べたようなものだった。
有賀——28票 須藤——7票
「では、男子合唱係は有賀さんに決定します。また、女子合唱係は名取《ナトリ》さんに決定します」
いつも通りの拍手だが——やはり、それはどこか心のこもった、意味のあるもののように聞こえてならなかった。
——なんとなく、段に登ることを許されなかった、私の投票先の方を見てみる。彼はまるで、憎しみをぶつけるかのように、形式上の拍手すらもせず、合唱係を睨んでいた。
まるで『お前に音楽の何がわかる』とでも言いたげに。
そうして委員決めが終わり、結局ストレンは風紀委員に——私と同じ委員になった。
「そ、その、残念だったね。レンくんピアノ上手いのに——」
授業の間の五分休みで彼に話しかけると、一瞬私を睨むような目で見て——何かを思い出そうとしている様子だった。
「あれ、君。何処かで見たことある気がするな」
ああ、忘れられている。そうか、彼にとってピアノを褒められるのなんて日常茶飯事《あたりまえ》で、誰が褒めてくれたのかなんて、覚えていないんだ。
「ピアノの正式名称、ピアノフォルテって言うんでしょ?」
「ああ、君か。セノっていうんだね、よろしく」
「うん、スト……須藤レンくん」
彼は一瞬ぴくっと眉を動かして、私に釘を刺した。
「俺の名前は須藤|廉太郎《れんたろう》だ。二度と間違えるな」
春休みが終わり、新学年が始まる。先生の「高校受験が」「高校0年生が」という言葉にみんなげんなりしながら、それでも仲のいい同級生と同じクラスになったことを喜びあったり、ことあるごとに廊下で元同級生たちと話をしていた。
「うわー……セノ、よりによってストレンと同じクラスになっちゃったんだね」
別のクラスになったメグは、廊下からうちのクラスの面子《メンツ》を見て笑った。かなり色物揃いというか……一言で言えば、根暗《ねくら》の雑煮だ。
「暴力装置《アルトラ》までいっしょなんだ。まあ制御装置《リン》もいるから、問題は起きないと思うけど……」
席に座ったままの大柄な少年と、それに横から抱き着く小柄な少女。一年、二年の両方で警察沙汰を起こしている不良のアルトラと、彼の暴走を止めるためなら土下座までするリンは学年の有名人だった。
「リンちゃん、堂々と人前で抱き着いてる……なんか、変人揃いのクラスに紛れ込んだ気分」
「あはは、そうかもね。変人に染まらないように気をつけてねー?」
抱き着かれるのを恥ずかしがり、腕の拘束を解きながら何かを話しかけつつ彼女の頭を優しくなでる男と、とろけるような笑顔でそれを受け入れる女。
——しかし正直羨ましい。いったい何があれば、異性同士であんなに仲良く触れ合えるのだろうか。
「——してると思うよ、エッチなこと」
「なっ——!」
突然そんなことを耳元で囁くメグに驚愕しながら、視線を彼女に戻す。
「えー? 抱き合う二人に釘付けになって、そんなこと思ってたんでしょー?」
「ち、ちがうよ! ボクはただ、どうやったらあんなに仲良くなれるのか気になっただけ!」
「じゃあ合ってるじゃん、やっぱり『そういうこと』をしてこそ、あそこまで仲良くなれるんだと思うよ」
不純だ——でも、その感性は分からなくもない。
《《はじめて》》を大切な人にあげたい気持ちと、その大切な人が見つからないのに増大していく欲求は、ときに……いや毎晩、矛盾に満ちた自らを癒やす行為に至らせる。
その矛盾を解消してくれる相手——大切な人がいたなら、きっと|あの子《リン》のように、抱き着きたくなってしまうだろう。
——行為《セックス》を通して、絆はより深まるのだろう。
「では、女子保健委員は赤星《あかほし》さんに決定します」
新クラスの委員決めで保健委員になったリンに、皆《みな》が形式上の拍手を送る。
対立候補との差は大きかったが、それは彼女が去年も保健委員として活動した実績があったというだけのことで、別に誰がどの委員になろうと関係がない。
それでも一喜一憂してしまうのは、多分人間の性《さが》なのだ。明日には忘れるようなことで笑顔になれるのは、きっと私たちの愚かさゆえなのだろう。
「……次に、男子合唱係を決定します。候補者は有賀《ありが》さんと、須藤《すどう》さんです」
名前を呼ばれて立ったのは、不良《アルトラ》と不審者《ストレン》だった。担任が音楽の先生なのに、二者択一で変人のどちらかが音楽に関わる係をやるというのだから、笑ってしまう。
出席番号《あいうえお》順に行われる演説では、先にアルトラが教壇《きょうだん》に立ち、堂々と話し始めた。
「僕は歌うのが好きです。でも上手くはない。けれど、下手でも力いっぱい歌えば、歌うのが好きになる。
合唱は上手い人だけが歌う場ではなく、いろんなパートが声を合わせて一つの音楽になります。もちろん、僕みたいに下手でも、その音楽の一部になれます。百点満点じゃない。
足して、合わせて。楽しい合唱を作ります」
与えられた20秒のスピーチを、メモなどを見るわけでもなく、緊張もせずにハキハキと喋った不良《アルトラ》に拍手が送られる。
少し意外なくらい、しっかりとした演説に送られた拍手は、心なしかこれまでに送られた形式的なものよりも長く、皆が感銘を受けているかのようだった。
それに続いて、不審者《ストレン》のスピーチが始まった。
「——合唱は、ピアノ伴奏なくして成り立たない。ア・カペラの音楽でもなければ。
僕は多分歌わない。僕はピアノを弾く。そのとき、みんなが上手く歌えていなければ、ピアノを弾く意味もない。
だから、みんなに付いて来て貰うために合唱係に立候補した。よろしく——」
対立候補《アルトラ》の演説とは打って変わって、少し冷たい、ピリッとした空気が教室を巡る。
委員決めなんかで、真面目になっている人なんてそういないのに、皆この『対決《カード》』だけは面白そうだ、という様子で見ていた。
「では、顔を伏せて、投票する候補に手を挙げてください——有賀さんに投票する人は手を挙げてください————降ろしてください」
最初に決まった学級委員が上がった手を数え、書記係が黒板に数字を書き、次はストレンの票を数え……という動作が、他のクラスで起こった拍手の音の中で行われる。
「顔を上げてください」
黒板に書かれた数字は、二人の人気を比べたようなものだった。
有賀——28票 須藤——7票
「では、男子合唱係は有賀さんに決定します。また、女子合唱係は名取《ナトリ》さんに決定します」
いつも通りの拍手だが——やはり、それはどこか心のこもった、意味のあるもののように聞こえてならなかった。
——なんとなく、段に登ることを許されなかった、私の投票先の方を見てみる。彼はまるで、憎しみをぶつけるかのように、形式上の拍手すらもせず、合唱係を睨んでいた。
まるで『お前に音楽の何がわかる』とでも言いたげに。
そうして委員決めが終わり、結局ストレンは風紀委員に——私と同じ委員になった。
「そ、その、残念だったね。レンくんピアノ上手いのに——」
授業の間の五分休みで彼に話しかけると、一瞬私を睨むような目で見て——何かを思い出そうとしている様子だった。
「あれ、君。何処かで見たことある気がするな」
ああ、忘れられている。そうか、彼にとってピアノを褒められるのなんて日常茶飯事《あたりまえ》で、誰が褒めてくれたのかなんて、覚えていないんだ。
「ピアノの正式名称、ピアノフォルテって言うんでしょ?」
「ああ、君か。セノっていうんだね、よろしく」
「うん、スト……須藤レンくん」
彼は一瞬ぴくっと眉を動かして、私に釘を刺した。
「俺の名前は須藤|廉太郎《れんたろう》だ。二度と間違えるな」
第3話『先人』
第3話『先人』
委員会決めから数日が立ち、新しいクラスでの交友関係があらかた定まり始めた頃の昼休み。私は一人お手洗いに向かうリンと鉢合わせた。
リンは私と同じ『西小学校』出身で、小学三、四年生の頃はクラスが同じでそれなりに仲がよかった。しかし五年生になってクラスが別になってからは、もう一人の友人共々、関わることがなくなってしまっていた。
その頃彼女はいじめに遭っていたようだ。元々自分勝手で、人を小馬鹿にしたような態度を取ることが多かった彼女は——しかも多分、本人はそのことを自覚していないのだ。
それでいじめの標的にされたというのは、ある意味仕方のないことだったのだろう。
私も彼女に対する中傷、リン菌という言葉は聞いたことはあったし、いじめに対する同意を求められたことも——つまり彼女と関わるなと遠回しに言われたこともあった。
しかし中学生になって環境が変わってからは、いじめは目立たなくなっていた。
そんな『元・いじめられっ子』のリンだったが、彼氏——不良のアルトラとの出会いで、大きく変わったようだった。
「リンちゃん。ちょっとお話したいんだけど、今いい?」
「うん? いいよ、どうしたの?」
無防備な彼女はしっかりと手を洗いながら受け答えをする。今の彼女には私と仲が良かった頃のような横柄な態度もなく、あるいはいじめられていた頃のような、全てに怯えていた頃とも違い、堂々としていて落ち着きがあった。
「アルトラくんのことなんだけど……二人は、どうやってあんなに仲良くなったの?」
私たちは恋を覚える年頃だが、目立って付き合うカップルなんて精々数組だった。しかもその大半が私とは違う世界の住人だ。
というより、異性と付き合い始めることで違う世界に行ってしまうのだ。それでも私と似た空気感を持つ彼女は、一番話しかけやすかった。
質問を受けたリンは少し嬉しそうに頬を上げ、誇らしそうに語り始めた。
「アルトラはね、私のヒーローなんだよ。セノちゃんも知ってると思うけど……私、昔いじめられてたでしょ? それを、彼が救ってくれたの」
——なるほど、噂には聞いていたが、アルトラが高校生や同級生の不良グループをボコボコにしたというのは、やはり彼女のためだったのか。
「それでその……どうやって付き合い始めたの?」
救われるまでに何があったのか、私は気になって仕方がないのだ。
二年前まで、彼の噂は悪いものでしかなかった。学校の裏掲示板で彼の名前を見れば、誰でも殴る不良としての共通認識から話が始まったものだ。
「えっとね、最初は私からアルトラに話しかけたんだよ。『君が噂のヤバい奴?』なんて言って」
「えっ……? そんなふうに話しかけたの?」
「あはは……あの時は私もちょっと怖くて、緊張してたんだ」
ハンカチで手を拭きながら、笑顔でそう言う先人《リン》は、自分の中で『その日』を思い出しているようだ。
「すごいね……それ」
「うん。でね、それから少しずつ仲良くなって、二人でいっしょに戦って、みんなにこうして認めてもらえて——色々あったけど、一年生の終わりに、どちらから告白するわけでもなく付き合い始めたの」
……告白無しで付き合い? そんなことがあるのだろうか。
「どうやって? 今は正式に付き合ってるんでしょ?」
「えぇー……聞きたい……?」
「うん、聞かせてほしい」
リンは勿体ぶるような、恥ずかしがるような仕草をしつつ辺りを見回し、「あんまり言いふらさないでね」と前置きした上で話し始める。
「実はね、付き合い始める時、二人で……キスしたの。確かめ合うように……それで気が付いたら、お互いの唇を奪ってたの」
「すご……ドラマチックだね……」
「えへへっ」
照れながら言う彼女は、よほど理想的な恋愛をしてきたのだろう。愛を与え合い、求め合い、互いにとって不可欠な存在として、素敵なパートナーになったのだろう。
「ところで……」
ボクには、一つどうしても聞いてみたいことがあった。
彼女の耳元に口を当て、他の人には絶対に聞かれないように話をする。
「その、やっぱり——こっちも求め合ったり……?」
それを聞いたリンは一気に顔を真っ赤にして、肩を丸めながら、少し遅れて頷いた。
そうか——やはり身体も求め合える関係なのか。
「じ、実際、どうなの? 痛い? 楽しい? それとも——幸せ?」
私の質問に、リンは恥ずかしそうに、小さな声で答え始める。
「ちょっとだけ、痛いときもある……けど、幸せだよ。だってアルトラが——私のことを受け入れてくれるって、必要としてくれてるって、感じるから……」
その話を聞いて、思わずボクの身体も熱くなり、疼く。
——いいな。やっぱり、幸せなんだ。
「そうなんだ——ありがとう、また聞かせて」
彼女のもじもじとする姿にこちらまで恥ずかしくなってしまって、私は話を切り上げてメグに会いに行くことにした。
「へぇーっ! やっぱりヤってたんだ!」
「しーっ! しーっ!!」
メグの教室で、大声でそういう彼女に黙るように促す。
「ごめんごめん……で、何って言ってた?」
周りに聞かれないように、静かな声に戻った彼女もやはり先人《リン》の話が気になるようで、私に続きを話すよう求める。
年頃の私たちにとって、異性と交わることへの関心は大きく——無関係の人に聞き耳を立てられているような気すらする。
「その、痛いけど、幸せなんだって。求められてる感じがするって」
「なにそれ——めっちゃ羨ましいじゃん」
まともに異性と付き合ったことなんてない私たちにとって、彼らは最早《もはや》『神の領域』にいる存在に等しい。
「でも、そんな相手なんて、見つかる気がしないや」
彼らとは住む世界が違うことを理解したメグは『お手上げ』のジェスチャーをしながら笑った。
「私にも誰か良い人いないかなぁ」
「……レンくん。私はやっぱり、彼が少し気になる」
「えぇー!? 絶対にやめときな!?」
メグは即座に机を叩きながら立ち上がり、大声で叫ぶ。
「シーーッ!!」
「あ、ごめん」
再び冷静になった彼女は、周りの目を見て小さく謝る。
「……でも、求められるのも幸せなら、きっと——あの二人みたいに、素敵な関係になれる」
「うーん……でもアイツ、サイコパスだよ?」
「だって彼——やっぱり、他の男子と違って、なんか素敵なんだもん」
「——だめだこりゃ」
メグは額に手を当てて笑いながらも「まあ、応援はするね」と言ってくれるのだった。
委員会決めから数日が立ち、新しいクラスでの交友関係があらかた定まり始めた頃の昼休み。私は一人お手洗いに向かうリンと鉢合わせた。
リンは私と同じ『西小学校』出身で、小学三、四年生の頃はクラスが同じでそれなりに仲がよかった。しかし五年生になってクラスが別になってからは、もう一人の友人共々、関わることがなくなってしまっていた。
その頃彼女はいじめに遭っていたようだ。元々自分勝手で、人を小馬鹿にしたような態度を取ることが多かった彼女は——しかも多分、本人はそのことを自覚していないのだ。
それでいじめの標的にされたというのは、ある意味仕方のないことだったのだろう。
私も彼女に対する中傷、リン菌という言葉は聞いたことはあったし、いじめに対する同意を求められたことも——つまり彼女と関わるなと遠回しに言われたこともあった。
しかし中学生になって環境が変わってからは、いじめは目立たなくなっていた。
そんな『元・いじめられっ子』のリンだったが、彼氏——不良のアルトラとの出会いで、大きく変わったようだった。
「リンちゃん。ちょっとお話したいんだけど、今いい?」
「うん? いいよ、どうしたの?」
無防備な彼女はしっかりと手を洗いながら受け答えをする。今の彼女には私と仲が良かった頃のような横柄な態度もなく、あるいはいじめられていた頃のような、全てに怯えていた頃とも違い、堂々としていて落ち着きがあった。
「アルトラくんのことなんだけど……二人は、どうやってあんなに仲良くなったの?」
私たちは恋を覚える年頃だが、目立って付き合うカップルなんて精々数組だった。しかもその大半が私とは違う世界の住人だ。
というより、異性と付き合い始めることで違う世界に行ってしまうのだ。それでも私と似た空気感を持つ彼女は、一番話しかけやすかった。
質問を受けたリンは少し嬉しそうに頬を上げ、誇らしそうに語り始めた。
「アルトラはね、私のヒーローなんだよ。セノちゃんも知ってると思うけど……私、昔いじめられてたでしょ? それを、彼が救ってくれたの」
——なるほど、噂には聞いていたが、アルトラが高校生や同級生の不良グループをボコボコにしたというのは、やはり彼女のためだったのか。
「それでその……どうやって付き合い始めたの?」
救われるまでに何があったのか、私は気になって仕方がないのだ。
二年前まで、彼の噂は悪いものでしかなかった。学校の裏掲示板で彼の名前を見れば、誰でも殴る不良としての共通認識から話が始まったものだ。
「えっとね、最初は私からアルトラに話しかけたんだよ。『君が噂のヤバい奴?』なんて言って」
「えっ……? そんなふうに話しかけたの?」
「あはは……あの時は私もちょっと怖くて、緊張してたんだ」
ハンカチで手を拭きながら、笑顔でそう言う先人《リン》は、自分の中で『その日』を思い出しているようだ。
「すごいね……それ」
「うん。でね、それから少しずつ仲良くなって、二人でいっしょに戦って、みんなにこうして認めてもらえて——色々あったけど、一年生の終わりに、どちらから告白するわけでもなく付き合い始めたの」
……告白無しで付き合い? そんなことがあるのだろうか。
「どうやって? 今は正式に付き合ってるんでしょ?」
「えぇー……聞きたい……?」
「うん、聞かせてほしい」
リンは勿体ぶるような、恥ずかしがるような仕草をしつつ辺りを見回し、「あんまり言いふらさないでね」と前置きした上で話し始める。
「実はね、付き合い始める時、二人で……キスしたの。確かめ合うように……それで気が付いたら、お互いの唇を奪ってたの」
「すご……ドラマチックだね……」
「えへへっ」
照れながら言う彼女は、よほど理想的な恋愛をしてきたのだろう。愛を与え合い、求め合い、互いにとって不可欠な存在として、素敵なパートナーになったのだろう。
「ところで……」
ボクには、一つどうしても聞いてみたいことがあった。
彼女の耳元に口を当て、他の人には絶対に聞かれないように話をする。
「その、やっぱり——こっちも求め合ったり……?」
それを聞いたリンは一気に顔を真っ赤にして、肩を丸めながら、少し遅れて頷いた。
そうか——やはり身体も求め合える関係なのか。
「じ、実際、どうなの? 痛い? 楽しい? それとも——幸せ?」
私の質問に、リンは恥ずかしそうに、小さな声で答え始める。
「ちょっとだけ、痛いときもある……けど、幸せだよ。だってアルトラが——私のことを受け入れてくれるって、必要としてくれてるって、感じるから……」
その話を聞いて、思わずボクの身体も熱くなり、疼く。
——いいな。やっぱり、幸せなんだ。
「そうなんだ——ありがとう、また聞かせて」
彼女のもじもじとする姿にこちらまで恥ずかしくなってしまって、私は話を切り上げてメグに会いに行くことにした。
「へぇーっ! やっぱりヤってたんだ!」
「しーっ! しーっ!!」
メグの教室で、大声でそういう彼女に黙るように促す。
「ごめんごめん……で、何って言ってた?」
周りに聞かれないように、静かな声に戻った彼女もやはり先人《リン》の話が気になるようで、私に続きを話すよう求める。
年頃の私たちにとって、異性と交わることへの関心は大きく——無関係の人に聞き耳を立てられているような気すらする。
「その、痛いけど、幸せなんだって。求められてる感じがするって」
「なにそれ——めっちゃ羨ましいじゃん」
まともに異性と付き合ったことなんてない私たちにとって、彼らは最早《もはや》『神の領域』にいる存在に等しい。
「でも、そんな相手なんて、見つかる気がしないや」
彼らとは住む世界が違うことを理解したメグは『お手上げ』のジェスチャーをしながら笑った。
「私にも誰か良い人いないかなぁ」
「……レンくん。私はやっぱり、彼が少し気になる」
「えぇー!? 絶対にやめときな!?」
メグは即座に机を叩きながら立ち上がり、大声で叫ぶ。
「シーーッ!!」
「あ、ごめん」
再び冷静になった彼女は、周りの目を見て小さく謝る。
「……でも、求められるのも幸せなら、きっと——あの二人みたいに、素敵な関係になれる」
「うーん……でもアイツ、サイコパスだよ?」
「だって彼——やっぱり、他の男子と違って、なんか素敵なんだもん」
「——だめだこりゃ」
メグは額に手を当てて笑いながらも「まあ、応援はするね」と言ってくれるのだった。
第4話『相貌失認』
第4話『相貌失認《そうぼうしつにん》』
グラウンドで走り込みをする生徒たちが良く見える、一階の教室の窓側。前から二番目の席に、彼は座っていた。何をするでもなく、ただぼーっと、空を眺めながら。
「随分自分の世界に入り込んでるね、レンくん」
私が話しかけて、ようやく自分が生きていることを思い出したかのように振り返る彼は、ただ「やあ、セノ」とだけ言った。私はそんな彼の一つ前の席——リンの席に座らせてもらう。
「あれ、赤星《あかほし》だっけ? ごめん、人の顔覚えるの苦手でさ」
「セノだよ。リンちゃんの席を借りてるだけ」
「あっそう」
そう言いながら、彼は不快なくらいジロジロと、私の顔と身体を見始める。
「うん、確かに赤星はもう少し小さかったよな。セノも比較的小さいから、頭の中で混ざる」
「体格で覚えてるの……? 女子《私たち》なんて、すぐ体格変わるから顔で覚えた方がいいと思うけど」
ましてや成長期なのだ。今はまだ低身長の私も、いつか風紀委員長のようなスラッとした体型になれるかも知れない——と、夢見る時期《お年頃》なのだ。
そんな私の言葉を聞き、レンは「それが出来たら苦労してない」という顔をして諦めたようなため息を吐いた。
「相貌失認《そうぼうしつにん》というらしい。人の顔を覚えられない病気だそうだ」
——聞いたことがある。世の中には他者を記号的要素でしか識別出来ない病気を持つ人もいるのだと。
なるほど、と合点がいった。彼はなにも、私に興味がなくて覚えていないわけではなく、そういう病気で覚えられないだけなのだと。
そう思って少し安心したところに——彼は続けて言った。
「蟻にいちいち名前を付けて、個体を判別出来る人間がいるか? それを病気と言われても、僕にはいまいち分からない」
彼がサイコパスを演じているのか、本当にそうなのかは知らない——だがレンと知り合ってから調べたところによれば、本物のサイコパスはわざわざ人に嫌われるような真似はせず、むしろ人に気に入られる行動をするものらしい。
つまるところ、彼はただの————無神経《ノンデリ》なのだ。
「でも、私のことは覚えようとしてくれてたんだ」
「まあ。折角こうやって、関わろうとしてくれているんだ、覚える価値はある」
「価値、かぁ」
——彼にとって私は他の人とは違う。多少なりとも興味を持てる存在として受け入れられているのだろう。
ボクはそれが少し嬉しかった。
「……あれ? でもリンちゃんのことは覚えてるんだ」
「ん? ああ、赤星か」
彼が識別する|蟻《個人》は、彼にとって価値のある存在なのだと——今しがた、彼はそういったのだ。
ならば彼は、リン対してにどんな価値を見出しているのだろうか——
「ほら。うなじが『エロい』からね、あの子は」
「……最っ低。それ暴力装置《アルトラ》の前で言ったら、きっと殺されちゃうよ?」
私は呆れて席を立ち、そろそろ部活動を終えて戻ってくるであろうメグに会いに行こうとした。
すると、彼は後ろから私を呼んだ。
「良かったら、放課後にピアノの練習にでも付き合ってくれよ。一人だと退屈でさ」
「……考えとくね」
一旦は返事を保留にした。心の中は警戒心と興味の間で揺れたのだ。
それでも、いきなり襲われるようなことは無いだろうと思い——結局放課後には彼といっしょに下校することにしたのだった。
彼が山北《やまきた》小学校の出身であることを確認しなかったのを後悔した。
西小、北小、東小、南小校区であればせいぜい徒歩20分圏内なのだが、山北小校区だけは山を超えた地域の団地ということもあり、唯一自転車登校が認められる程学校から遠いのだ。
それで、彼の家に行くだけで40分も歩かされることになったのだった。
「先に言ってくれれば自転車で来たのに……」
「聞かれなかったから、知ってるんだと思ってた」
そもそも山北小出身の生徒は、400人くらいいる同級生の中に20人程度しかいない。しかもその大半が問題児であり——彼らの特有の空気感は、本能的に近寄りたくないと感じさせるものだった。
「今度からは、一回帰ってから来るからね」
「その方が速いなら、まあいいよ」
そうして辿り着いた山の麓にある彼の家は想像より新しく、大きかった。
「入っておいで」
自転車を半透明な屋根付きの駐車場の横に止めてから、彼は家の鍵を開け、緊張する私に手招きをした。
「お、お邪魔します」
「別に、誰もいないよ」
そう言いながら彼は玄関に上がってすぐ左の広間に入って行ったので、私はスリッパも履かずに追いかける。
そして部屋に入ると、そこには《ソルフェージュ須藤》と書かれた元看板であろう金属製の板が、縦長のピアノの白いシーツの上に置かれていた。
「もしかしてここ、お母さんの……教室?」
「そうだよ。昔はこの部屋でピアノ教室をやってた」
彼は『ザ・ピアノ』といった感じの、大きいピアノの前の椅子に座り、鍵盤の蓋を開けた。
「なんで、二台もピアノが?」
「ん? ああ、アップライトピアノか」
「アップ……?」
形の違いで用途が違うのだろうか。しかしどうにも、アップライトピアノが使われている形跡はなく——私にはそれがただの物置にも見えた。
「グランドピアノとアップライトピアノ。|グランドピアノ《こっち》が本物のピアノで、|アップライトピアノ《そっち》は練習用さ。と言っても、僕は普段からこっちで練習してるけどね」
「へ、へぇ」
よく分からないが、ピアノにも格式の違いがあるのだろう。嬉しそうに語る彼には申し訳ないが、私にはそれくらいしか分からなかった。
彼は鍵盤に指を触れ、少し難しそうな、両手を同時に素早く、同じ動きで動かす曲を弾いたあとで、ピアノに真剣に向き合ったのだった。
「じゃあ、聴かせてあげるよ」
そうして彼が弾き始めたのは——ああ、あの曲だ。
素早く動き回る手で、物悲しさと情熱、素早さと重さ、優しさと激しさを奏でる。
不完全への焦燥。羨望《せんぼう》と劣等感。完璧への|渇望《かつぼう》。諦念とそれに対する怒り。「何故そんなものを美しいと思ってしまったのか」という自責の問いと——それでもなお満たされぬことへの絶望。
あまりにも、美しい。コンサートホールとは違い胸が直接音で振動するかのような迫力に——ボクは完全に虜になっていた。
たった7分程度。決して短いわけでもないはずなのに、そう思えてしまうほど名残惜しく、しかし終わりがあるから美しいんだと思わせるその演奏を見て、ボクは無意識に拍手をした。
「——やっぱり、すごい」
涙が出るかと思うほどに圧倒的な美しい音圧に、ボクは言葉までこぼしていた。
「これは月光という曲の第三楽章だ。母はこの曲を『ピアノソナタ』だと言っていたが——違う。この曲の正体は、秘めた衝動と内なる葛藤の衝突、現実と理想の衝突、美しさに対する、羨望と渇望だ」
それがこの曲に込められた思いなのか、あるいは単に、レンが感じ取り増幅させた思いがそれなのかは分からない。しかし少なくとも、ピアノと音楽を通して、ボクはレンの内にある『あまりにも純粋な人間性』を見たのだ。
——それは最早《もはや》、音楽などではない。
私たちが言葉に気持ちを翻訳し伝えるように、彼はその気持ちを表現するための音楽《言語》を奏でたのだ。
それでも私は、この感情を伝える言葉《言語》を持ち合わせていなかった——彼に、ボクがどれだけ感動したのかを表現する手段を、私は知らないのだ。
そうしてただ尊敬の眼差しを向けるだけの私に、レンは膝に置いた手を差し出し——その表現の世界に私を招いたのだった。
「次は、君を奏でる番だ——」
グラウンドで走り込みをする生徒たちが良く見える、一階の教室の窓側。前から二番目の席に、彼は座っていた。何をするでもなく、ただぼーっと、空を眺めながら。
「随分自分の世界に入り込んでるね、レンくん」
私が話しかけて、ようやく自分が生きていることを思い出したかのように振り返る彼は、ただ「やあ、セノ」とだけ言った。私はそんな彼の一つ前の席——リンの席に座らせてもらう。
「あれ、赤星《あかほし》だっけ? ごめん、人の顔覚えるの苦手でさ」
「セノだよ。リンちゃんの席を借りてるだけ」
「あっそう」
そう言いながら、彼は不快なくらいジロジロと、私の顔と身体を見始める。
「うん、確かに赤星はもう少し小さかったよな。セノも比較的小さいから、頭の中で混ざる」
「体格で覚えてるの……? 女子《私たち》なんて、すぐ体格変わるから顔で覚えた方がいいと思うけど」
ましてや成長期なのだ。今はまだ低身長の私も、いつか風紀委員長のようなスラッとした体型になれるかも知れない——と、夢見る時期《お年頃》なのだ。
そんな私の言葉を聞き、レンは「それが出来たら苦労してない」という顔をして諦めたようなため息を吐いた。
「相貌失認《そうぼうしつにん》というらしい。人の顔を覚えられない病気だそうだ」
——聞いたことがある。世の中には他者を記号的要素でしか識別出来ない病気を持つ人もいるのだと。
なるほど、と合点がいった。彼はなにも、私に興味がなくて覚えていないわけではなく、そういう病気で覚えられないだけなのだと。
そう思って少し安心したところに——彼は続けて言った。
「蟻にいちいち名前を付けて、個体を判別出来る人間がいるか? それを病気と言われても、僕にはいまいち分からない」
彼がサイコパスを演じているのか、本当にそうなのかは知らない——だがレンと知り合ってから調べたところによれば、本物のサイコパスはわざわざ人に嫌われるような真似はせず、むしろ人に気に入られる行動をするものらしい。
つまるところ、彼はただの————無神経《ノンデリ》なのだ。
「でも、私のことは覚えようとしてくれてたんだ」
「まあ。折角こうやって、関わろうとしてくれているんだ、覚える価値はある」
「価値、かぁ」
——彼にとって私は他の人とは違う。多少なりとも興味を持てる存在として受け入れられているのだろう。
ボクはそれが少し嬉しかった。
「……あれ? でもリンちゃんのことは覚えてるんだ」
「ん? ああ、赤星か」
彼が識別する|蟻《個人》は、彼にとって価値のある存在なのだと——今しがた、彼はそういったのだ。
ならば彼は、リン対してにどんな価値を見出しているのだろうか——
「ほら。うなじが『エロい』からね、あの子は」
「……最っ低。それ暴力装置《アルトラ》の前で言ったら、きっと殺されちゃうよ?」
私は呆れて席を立ち、そろそろ部活動を終えて戻ってくるであろうメグに会いに行こうとした。
すると、彼は後ろから私を呼んだ。
「良かったら、放課後にピアノの練習にでも付き合ってくれよ。一人だと退屈でさ」
「……考えとくね」
一旦は返事を保留にした。心の中は警戒心と興味の間で揺れたのだ。
それでも、いきなり襲われるようなことは無いだろうと思い——結局放課後には彼といっしょに下校することにしたのだった。
彼が山北《やまきた》小学校の出身であることを確認しなかったのを後悔した。
西小、北小、東小、南小校区であればせいぜい徒歩20分圏内なのだが、山北小校区だけは山を超えた地域の団地ということもあり、唯一自転車登校が認められる程学校から遠いのだ。
それで、彼の家に行くだけで40分も歩かされることになったのだった。
「先に言ってくれれば自転車で来たのに……」
「聞かれなかったから、知ってるんだと思ってた」
そもそも山北小出身の生徒は、400人くらいいる同級生の中に20人程度しかいない。しかもその大半が問題児であり——彼らの特有の空気感は、本能的に近寄りたくないと感じさせるものだった。
「今度からは、一回帰ってから来るからね」
「その方が速いなら、まあいいよ」
そうして辿り着いた山の麓にある彼の家は想像より新しく、大きかった。
「入っておいで」
自転車を半透明な屋根付きの駐車場の横に止めてから、彼は家の鍵を開け、緊張する私に手招きをした。
「お、お邪魔します」
「別に、誰もいないよ」
そう言いながら彼は玄関に上がってすぐ左の広間に入って行ったので、私はスリッパも履かずに追いかける。
そして部屋に入ると、そこには《ソルフェージュ須藤》と書かれた元看板であろう金属製の板が、縦長のピアノの白いシーツの上に置かれていた。
「もしかしてここ、お母さんの……教室?」
「そうだよ。昔はこの部屋でピアノ教室をやってた」
彼は『ザ・ピアノ』といった感じの、大きいピアノの前の椅子に座り、鍵盤の蓋を開けた。
「なんで、二台もピアノが?」
「ん? ああ、アップライトピアノか」
「アップ……?」
形の違いで用途が違うのだろうか。しかしどうにも、アップライトピアノが使われている形跡はなく——私にはそれがただの物置にも見えた。
「グランドピアノとアップライトピアノ。|グランドピアノ《こっち》が本物のピアノで、|アップライトピアノ《そっち》は練習用さ。と言っても、僕は普段からこっちで練習してるけどね」
「へ、へぇ」
よく分からないが、ピアノにも格式の違いがあるのだろう。嬉しそうに語る彼には申し訳ないが、私にはそれくらいしか分からなかった。
彼は鍵盤に指を触れ、少し難しそうな、両手を同時に素早く、同じ動きで動かす曲を弾いたあとで、ピアノに真剣に向き合ったのだった。
「じゃあ、聴かせてあげるよ」
そうして彼が弾き始めたのは——ああ、あの曲だ。
素早く動き回る手で、物悲しさと情熱、素早さと重さ、優しさと激しさを奏でる。
不完全への焦燥。羨望《せんぼう》と劣等感。完璧への|渇望《かつぼう》。諦念とそれに対する怒り。「何故そんなものを美しいと思ってしまったのか」という自責の問いと——それでもなお満たされぬことへの絶望。
あまりにも、美しい。コンサートホールとは違い胸が直接音で振動するかのような迫力に——ボクは完全に虜になっていた。
たった7分程度。決して短いわけでもないはずなのに、そう思えてしまうほど名残惜しく、しかし終わりがあるから美しいんだと思わせるその演奏を見て、ボクは無意識に拍手をした。
「——やっぱり、すごい」
涙が出るかと思うほどに圧倒的な美しい音圧に、ボクは言葉までこぼしていた。
「これは月光という曲の第三楽章だ。母はこの曲を『ピアノソナタ』だと言っていたが——違う。この曲の正体は、秘めた衝動と内なる葛藤の衝突、現実と理想の衝突、美しさに対する、羨望と渇望だ」
それがこの曲に込められた思いなのか、あるいは単に、レンが感じ取り増幅させた思いがそれなのかは分からない。しかし少なくとも、ピアノと音楽を通して、ボクはレンの内にある『あまりにも純粋な人間性』を見たのだ。
——それは最早《もはや》、音楽などではない。
私たちが言葉に気持ちを翻訳し伝えるように、彼はその気持ちを表現するための音楽《言語》を奏でたのだ。
それでも私は、この感情を伝える言葉《言語》を持ち合わせていなかった——彼に、ボクがどれだけ感動したのかを表現する手段を、私は知らないのだ。
そうしてただ尊敬の眼差しを向けるだけの私に、レンは膝に置いた手を差し出し——その表現の世界に私を招いたのだった。
「次は、君を奏でる番だ——」
第5話『共鳴』
第5話『共鳴』
昨日の衝撃的な演奏を、私は誰にも話せずにいた。
私はそれが「間違ったこと」だと知っていたから——あるいは「恥ずべきこと」「隠すべきこと」と分かっているから、親友のメグといつも通りに話す間、ずっとモヤモヤとしていたのだ。
——少し痛いけれど、幸せ。
昨日そんなことを言っていたリンのうなじを授業中に眺めているレンは、私の存在を確認しても自分から挨拶の一つもしないし、彼もまた昨日のことを話そうとはしなかった。
だが私にも理解は出来た。人は自分を表現するために、下着や人に見せない部分にまでこだわったりするが——それをわざわざ他人に見せ、言いふらすのは。痴女《ヘンタイ》と何ら変わりないのだ。
「ねえ、リンちゃん」
昼休み、彼女が一人でお手洗いに向かうのを追いかけ、また手を洗っている間に話しかける。
「スズちゃ——ごめん、セノちゃん。どうしたの?」
意外な人物に再び話しかけられたことに驚いたらしいリンは、それでも私の話を聞いてくれた。
そんな彼女に——今の自分を聴いてほしいと願うボクは、露出魔と同じなのかもしれなかった。
「——痛かったけど、幸せだった」
その言葉の意味を理解したリンは、ハンカチで手を拭きながら、顔を真っ赤にした。
誰にも見せるべきではない|下着の色《えっち》の話。それをボクは、先人であるリンと——見せ合いたいと思ってしまったのだ。
「よ、よかった——! そっか、セノちゃん、彼氏さんいたんだね!」
「えっと……その、彼氏ってわけではないんだけれど——」
「えっ……!?」
リンは目をまん丸く開いて、ハンカチを床に落としてしまった。彼女の表情はたちまち若干の嫌悪感と心配の混ざったものになり、落とし物を拾うよりも先に追求を開始した。
「か、彼氏さんじゃない人と……!?」
「いやっ……! でも、好きな人だから!」
「あ、そっか。良かったー……」
私の行いに対する理屈が通ったリンは、胸をなで下ろしながら落としたハンカチを拾い、それを水道で洗い始めた。
レンが私の好きな人——か。そうだ、ボクは彼に恋をしてるのだ。
「分かるよ、私も付き合う前から……そういうことをしちゃう想像とか——いっぱいしてたし」
「あはは……私は想像もしてなかったかな……」
「だ、大丈夫……? ねえ、もし辛かったら、保健室行く……?」
再び心配そうな顔をしたリンは、小さな手で頑張ってハンカチを絞りながら、私の様子をうかがう。
「ううん、大丈夫だよ。ただ、話を聞いて欲しかっただけ」
「そっか……!」
リンはまだ少し濡れているであろうハンカチをポケットに仕舞い、ボクが自分の意思でその選択したのだと、理解してくれた。そして私の肩を両手で掴んで、他の生徒に聞こえないように小声で言った。
「——二回目からは、準備して行ったほうがいいよ。断られちゃうかもだから」
……多分彼女の体験談なのだろう。
|リンの彼氏《アルトラ》のことは良く知らないが、確かにクラスメイトとして彼を見ていると——変な所で律儀そうな男に見えた。
「もし良かったら、お店の人が変な目で見てこない所と、それでも嫌なら自販機も教えるから……!」
「頼りになりますっ……!」
流石は一年以上付き合っているカップルだ——そこらへんのことは熟知しているらしい。
「そっかー、セノちゃんが……えへへー」
毎日|不審者《ストレン》にエロい目で見られていることも知らない、無邪気で可愛いこの生き物。小学生の頃からよく知る彼女があの虎みたいに大きな生き物と、やることをやっていると思うと——なんだか少し複雑な気分にもなるが、今は少し頼もしかった。
放課後、ホームルームが終わって人がはけるのを待っていたところで、リンは私にノートの破片を差し出す。そこにはメッセージアプリのIDが記入されていた。
「セノちゃん、よかったら連絡して!」
「ありがと。帰ったら登録しておくね」
「うん。そういう相談、ちゃんと乗るからね……!」
そう言い終えると、リンは私たちを注視していたアルトラの方へと向かっていった。
教室から出ながら、彼に正面から抱き着いた彼女を微笑ましく眺めていると、背後からレンの声がした——彼は廊下で私を待っていたらしい。
「セノ。今日も家に来るんだろ?」
レンは周りの人たちに見られるかもしれないのに、背後から私の柔らかい部分を触りながら、二人だけの演奏会にボクを誘った。
……正直、満更でもなかった。
「——うん。でも待って、準備してから行くから」
「準備……? まあいい、先に家で待ってる」
「え……うん、分かった」
レンは極度の面倒くさがり屋らしい。私の家まで来てからいっしょに帰れば良いのに、そうとだけ言って私の身体から手を離し、一人でスタスタと廊下を歩き去っていった。
でも、そのお陰でメグと話す機会が少し得られたのだった。
「お、セノ。どう、ストレンと進展あった? ——って、昨日の今日じゃ何も変わらないか」
吹奏楽部の練習に向かう途中のメグは教室の前で足を止めて、彼との仲の進展を訊ねてくる。
「——うん、少し進展はあったかも」
少しと言うにはあまりにも急だが。普通は時間をかけて、絆を確かめる行為——私たちは、昨日の今日で恋人たちの|幸せ《ゴール》に到達していた。
「へぇ、ストレンに恋愛感情があるなんてね……アイツ、普段何考えてるか分かんないし、人のこと全然覚えようともしないから」
「ああ……それはレンくんが『相貌失認《そうぼうしつにん》』っていう病気なだけで——いちおう、一部のクラスメイトのことは覚えてるみたい」
——小柄でうなじがエロい、なんて記号的で最低な要素でだが。
「あーね。私はてっきり|他人《ひと》に興味がないだけだと思ってたけど——そっか、病気でそう見えてるだけなら、まあ……」
「うん。多分|人間《ひと》に興味ないってのは事実だけど……私のことはちゃんと覚えてくれてるし」
ボクは彼にとって、覚えておく価値のある人間なのだ。
——彼のあらゆる表現をこの身で感じ、その衝動と葛藤を知る、唯一の存在なのだ。
「ごめん、私そろそろ行かないと! 待ってー、ナトリー!」
メグは前側の扉からスッと出ていった私と共通の知人——かつて私とリンと、三人で「おちびちゃんズ」と呼ばれていたうちの一人であるナトリを追いかけていったのだった。
昨日の衝撃的な演奏を、私は誰にも話せずにいた。
私はそれが「間違ったこと」だと知っていたから——あるいは「恥ずべきこと」「隠すべきこと」と分かっているから、親友のメグといつも通りに話す間、ずっとモヤモヤとしていたのだ。
——少し痛いけれど、幸せ。
昨日そんなことを言っていたリンのうなじを授業中に眺めているレンは、私の存在を確認しても自分から挨拶の一つもしないし、彼もまた昨日のことを話そうとはしなかった。
だが私にも理解は出来た。人は自分を表現するために、下着や人に見せない部分にまでこだわったりするが——それをわざわざ他人に見せ、言いふらすのは。痴女《ヘンタイ》と何ら変わりないのだ。
「ねえ、リンちゃん」
昼休み、彼女が一人でお手洗いに向かうのを追いかけ、また手を洗っている間に話しかける。
「スズちゃ——ごめん、セノちゃん。どうしたの?」
意外な人物に再び話しかけられたことに驚いたらしいリンは、それでも私の話を聞いてくれた。
そんな彼女に——今の自分を聴いてほしいと願うボクは、露出魔と同じなのかもしれなかった。
「——痛かったけど、幸せだった」
その言葉の意味を理解したリンは、ハンカチで手を拭きながら、顔を真っ赤にした。
誰にも見せるべきではない|下着の色《えっち》の話。それをボクは、先人であるリンと——見せ合いたいと思ってしまったのだ。
「よ、よかった——! そっか、セノちゃん、彼氏さんいたんだね!」
「えっと……その、彼氏ってわけではないんだけれど——」
「えっ……!?」
リンは目をまん丸く開いて、ハンカチを床に落としてしまった。彼女の表情はたちまち若干の嫌悪感と心配の混ざったものになり、落とし物を拾うよりも先に追求を開始した。
「か、彼氏さんじゃない人と……!?」
「いやっ……! でも、好きな人だから!」
「あ、そっか。良かったー……」
私の行いに対する理屈が通ったリンは、胸をなで下ろしながら落としたハンカチを拾い、それを水道で洗い始めた。
レンが私の好きな人——か。そうだ、ボクは彼に恋をしてるのだ。
「分かるよ、私も付き合う前から……そういうことをしちゃう想像とか——いっぱいしてたし」
「あはは……私は想像もしてなかったかな……」
「だ、大丈夫……? ねえ、もし辛かったら、保健室行く……?」
再び心配そうな顔をしたリンは、小さな手で頑張ってハンカチを絞りながら、私の様子をうかがう。
「ううん、大丈夫だよ。ただ、話を聞いて欲しかっただけ」
「そっか……!」
リンはまだ少し濡れているであろうハンカチをポケットに仕舞い、ボクが自分の意思でその選択したのだと、理解してくれた。そして私の肩を両手で掴んで、他の生徒に聞こえないように小声で言った。
「——二回目からは、準備して行ったほうがいいよ。断られちゃうかもだから」
……多分彼女の体験談なのだろう。
|リンの彼氏《アルトラ》のことは良く知らないが、確かにクラスメイトとして彼を見ていると——変な所で律儀そうな男に見えた。
「もし良かったら、お店の人が変な目で見てこない所と、それでも嫌なら自販機も教えるから……!」
「頼りになりますっ……!」
流石は一年以上付き合っているカップルだ——そこらへんのことは熟知しているらしい。
「そっかー、セノちゃんが……えへへー」
毎日|不審者《ストレン》にエロい目で見られていることも知らない、無邪気で可愛いこの生き物。小学生の頃からよく知る彼女があの虎みたいに大きな生き物と、やることをやっていると思うと——なんだか少し複雑な気分にもなるが、今は少し頼もしかった。
放課後、ホームルームが終わって人がはけるのを待っていたところで、リンは私にノートの破片を差し出す。そこにはメッセージアプリのIDが記入されていた。
「セノちゃん、よかったら連絡して!」
「ありがと。帰ったら登録しておくね」
「うん。そういう相談、ちゃんと乗るからね……!」
そう言い終えると、リンは私たちを注視していたアルトラの方へと向かっていった。
教室から出ながら、彼に正面から抱き着いた彼女を微笑ましく眺めていると、背後からレンの声がした——彼は廊下で私を待っていたらしい。
「セノ。今日も家に来るんだろ?」
レンは周りの人たちに見られるかもしれないのに、背後から私の柔らかい部分を触りながら、二人だけの演奏会にボクを誘った。
……正直、満更でもなかった。
「——うん。でも待って、準備してから行くから」
「準備……? まあいい、先に家で待ってる」
「え……うん、分かった」
レンは極度の面倒くさがり屋らしい。私の家まで来てからいっしょに帰れば良いのに、そうとだけ言って私の身体から手を離し、一人でスタスタと廊下を歩き去っていった。
でも、そのお陰でメグと話す機会が少し得られたのだった。
「お、セノ。どう、ストレンと進展あった? ——って、昨日の今日じゃ何も変わらないか」
吹奏楽部の練習に向かう途中のメグは教室の前で足を止めて、彼との仲の進展を訊ねてくる。
「——うん、少し進展はあったかも」
少しと言うにはあまりにも急だが。普通は時間をかけて、絆を確かめる行為——私たちは、昨日の今日で恋人たちの|幸せ《ゴール》に到達していた。
「へぇ、ストレンに恋愛感情があるなんてね……アイツ、普段何考えてるか分かんないし、人のこと全然覚えようともしないから」
「ああ……それはレンくんが『相貌失認《そうぼうしつにん》』っていう病気なだけで——いちおう、一部のクラスメイトのことは覚えてるみたい」
——小柄でうなじがエロい、なんて記号的で最低な要素でだが。
「あーね。私はてっきり|他人《ひと》に興味がないだけだと思ってたけど——そっか、病気でそう見えてるだけなら、まあ……」
「うん。多分|人間《ひと》に興味ないってのは事実だけど……私のことはちゃんと覚えてくれてるし」
ボクは彼にとって、覚えておく価値のある人間なのだ。
——彼のあらゆる表現をこの身で感じ、その衝動と葛藤を知る、唯一の存在なのだ。
「ごめん、私そろそろ行かないと! 待ってー、ナトリー!」
メグは前側の扉からスッと出ていった私と共通の知人——かつて私とリンと、三人で「おちびちゃんズ」と呼ばれていたうちの一人であるナトリを追いかけていったのだった。
第6話『満月』
第6話『満月』
あれからレンの家に行く準備をして——それからボクは、そんな準備は無駄だと彼に責め立てられたのだった。
彼が表現した怒りは昨日よりも少し私を痛めつけたが、それでもボクは——彼のその気持ちを一身に受けられて、嬉しかったのだ。
グランドピアノの椅子に座るレン。私はアップライトピアノに、くしゃくしゃになって落ちてしまったシーツをかけ直す。シーツを広げ直している間に彼はグランドピアノの蓋を開いており、珍しくゆったりとした、それでいて悲しいような曲を弾き始めていた。
「——月光?」
聞いたことのある雰囲気だった。だが普段のような、激しい衝動を感じない。落ち着いた優しい音色が、真っ白な防音室に充満した。
アップライトピアノの椅子に腰かけながら、彼の普段見せない一面を、ボクは聴いている。それはまさしく——夜の、欠けのない【月の光】だった。
幻想的で、なのに手が届かない——いや、手を伸ばそうとすることすら出来ないような、美しいあの月。
ただ見上げる。ただ、その美しさに陶酔する——
「——月光の第一楽章だ。これを母は夜想曲《ノクターン》と言った。でも、違う。実際はそんな幻想的なものじゃない。これは理想に対する諦めで、眩い月明かりに影を落とす、嫉妬や羨望すら許されない美しさに対する、劣等感だ」
——満月が、確かに見えた。
そうか。この劣等感が、あの焦りを、絶望を、渇望を産むのだ。
「——まるで、ボクみたい」
輝く光に対する憧れがいつしか焦りに変わり、遠いはずの月を求めて、その美しさを知るためにこの身を差し出す。
ボクは、彼の奏でる【月光】そのものなのだ——
「何を言ってるんだ」
彼は、露骨に嫌そうな顔をした。
「だって、ボク——私は、あなたの美しさを知りたくて、あなたに奏でられに来たんだもん」
ボクがそう言うと彼は怒った様子で席を立ち上がり、ピアノの蓋をバン、と閉める。
「お前に何がわかる。知った口を効くなら、もう二度とお前には聴かせない」
「そんな——」
何が彼の逆鱗に触れたのか。これが地雷だったというのか——そんな、ただその美しさに共感しただけで?
ボクはレンに何か言い返そうと、一瞬立ち上がりかけた。しかし——私はそれを許さなかった。
「——ごめんなさい、もう言いません」
彼の音楽は共感を求めなどしない。ただ私はその表面の美しさを見ていればいい。その内側に一歩でも踏み出そうとする者は、誰であれ許されないのだ。
「音楽は表現の道具だ。それを盗み出して自分を表現しようとするような奴は、くだらない歌詞でも口ずさんでいればいい」
それが、彼の信念だ。
純粋な彼の気持ちを表現するための道具を盗んで、彼の気持ちではなく自らを理解しようとする行為——つまり、誰かが彼を道具にする行為を、彼は許せないのだろう。
「——はい、もうしません。だからまた、私にも聴かせてください……」
防音室を貫通して五時のチャイムが小さく鳴り響く中で、アップライトピアノの椅子から私は彼に頭《こうべ》を垂れたのだった。
翌週のこと。今日は放課後に委員会の招集が行われ、毎年恒例となっているらしい『あいさつ運動』とやらの当番を決めることになっていた。
しかし二人の同級生の『自己犠牲』によって、わざわざ朝に20分も早く起きて、馬鹿みたいに「オハヨーオハヨー」と言わされずに済んだので、あの二人には感謝しなくてはいけない。
「あれ。三組の須藤《すどう》くんは来てないの?」
風紀委員長兼あいさつ当番の美人さんは、レンの行方に心当たりがないかを私に訊ねた。
「あはは……教室にはいたんだけどね。多分保健室とかかな……」
——誘えるわけがない。今朝、それとなく「放課後に委員会あるよ」と伝えたのに、レンは「あっそう」とだけ言って窓の外を眺めていたのだから。
「まあ、そういうこともあるわよね。私も去年、委員会すっぽかしたりしてたし……」
委員長がそんな告白をしている所に、もう一人のあいさつ当番がやって来て、ボソッと呟いた。
「……風紀委員終わってんな、ほんと。図書委員になればよかった」
「歩き読書してた人には言われたくないんですけど!?」
彼らもそれぞれ別クラスの男女だが、様子を見るに、きっとあの二人も付き合っているんだろう。私が目の前にいるにも関わらず、二人で痴話喧嘩を始めたのだった。
「アイツ今日、伴奏のオーディションだろ、委員長さん」
「えっ? ああ……なんかアルトラがそんなこと言ってたわね。須藤くんもピアノ弾くんだ」
——むしろあの大男がピアノを弾く方が意外だろ。と心の中でツッコミを入れながらも、それなら音楽室に遊びに行こうか、という気にもなった。
「そういうわけで、僕らは友だちがピアノを弾くところを見に行くから、これで」
「ぼ……私も行く。レンのピアノ好きだから……」
そうして三人並んで、委員会が行われた一階の教室から別棟四階の音楽室へと移動するのだった。
少し急いで階段を登り、十数人の野次馬《オーディエンス》が見守る中に私たちも加わる。丁度三組のオーディションが始まるところだったようで、学生服姿のレンがピアノの前でペコリと一礼をした。
「三組一番。須藤|廉太郎《れんたろう》」
彼は名を名乗り、音楽室のグランドピアノに腰かける。そして、彼の完璧な演奏が始まった——
優しく、どこか悲しい音色。どこか幻想的で、まるで過去を悔いるような音から——サビに入ると、「失う恐ろしさを忘れるな」と伝わるような、滑らかで美しい音が響く。
——完成された美しい音楽。これこそが、レンのピアノだ。
一番だけで終了したその曲に対して、オーディエンスは自然と拍手を送る。
「こりゃ、アルトラの負けだな」
男もそう呟きながら、レンに対して拍手を送っていた。
「ううん。アルトラのピアノは全く別物だから。まだ分かんないわよ」
委員会はそう言いながら、今しがた名乗りを終えてピアノに座った彼に注目した。そして、彼は——レンと同じ曲を、全く違った雰囲気で弾き始めた。
——確かに、鐘が鳴っている。
巨体から生み出された力が、広い音楽室中に響き渡り始めた。
あれからレンの家に行く準備をして——それからボクは、そんな準備は無駄だと彼に責め立てられたのだった。
彼が表現した怒りは昨日よりも少し私を痛めつけたが、それでもボクは——彼のその気持ちを一身に受けられて、嬉しかったのだ。
グランドピアノの椅子に座るレン。私はアップライトピアノに、くしゃくしゃになって落ちてしまったシーツをかけ直す。シーツを広げ直している間に彼はグランドピアノの蓋を開いており、珍しくゆったりとした、それでいて悲しいような曲を弾き始めていた。
「——月光?」
聞いたことのある雰囲気だった。だが普段のような、激しい衝動を感じない。落ち着いた優しい音色が、真っ白な防音室に充満した。
アップライトピアノの椅子に腰かけながら、彼の普段見せない一面を、ボクは聴いている。それはまさしく——夜の、欠けのない【月の光】だった。
幻想的で、なのに手が届かない——いや、手を伸ばそうとすることすら出来ないような、美しいあの月。
ただ見上げる。ただ、その美しさに陶酔する——
「——月光の第一楽章だ。これを母は夜想曲《ノクターン》と言った。でも、違う。実際はそんな幻想的なものじゃない。これは理想に対する諦めで、眩い月明かりに影を落とす、嫉妬や羨望すら許されない美しさに対する、劣等感だ」
——満月が、確かに見えた。
そうか。この劣等感が、あの焦りを、絶望を、渇望を産むのだ。
「——まるで、ボクみたい」
輝く光に対する憧れがいつしか焦りに変わり、遠いはずの月を求めて、その美しさを知るためにこの身を差し出す。
ボクは、彼の奏でる【月光】そのものなのだ——
「何を言ってるんだ」
彼は、露骨に嫌そうな顔をした。
「だって、ボク——私は、あなたの美しさを知りたくて、あなたに奏でられに来たんだもん」
ボクがそう言うと彼は怒った様子で席を立ち上がり、ピアノの蓋をバン、と閉める。
「お前に何がわかる。知った口を効くなら、もう二度とお前には聴かせない」
「そんな——」
何が彼の逆鱗に触れたのか。これが地雷だったというのか——そんな、ただその美しさに共感しただけで?
ボクはレンに何か言い返そうと、一瞬立ち上がりかけた。しかし——私はそれを許さなかった。
「——ごめんなさい、もう言いません」
彼の音楽は共感を求めなどしない。ただ私はその表面の美しさを見ていればいい。その内側に一歩でも踏み出そうとする者は、誰であれ許されないのだ。
「音楽は表現の道具だ。それを盗み出して自分を表現しようとするような奴は、くだらない歌詞でも口ずさんでいればいい」
それが、彼の信念だ。
純粋な彼の気持ちを表現するための道具を盗んで、彼の気持ちではなく自らを理解しようとする行為——つまり、誰かが彼を道具にする行為を、彼は許せないのだろう。
「——はい、もうしません。だからまた、私にも聴かせてください……」
防音室を貫通して五時のチャイムが小さく鳴り響く中で、アップライトピアノの椅子から私は彼に頭《こうべ》を垂れたのだった。
翌週のこと。今日は放課後に委員会の招集が行われ、毎年恒例となっているらしい『あいさつ運動』とやらの当番を決めることになっていた。
しかし二人の同級生の『自己犠牲』によって、わざわざ朝に20分も早く起きて、馬鹿みたいに「オハヨーオハヨー」と言わされずに済んだので、あの二人には感謝しなくてはいけない。
「あれ。三組の須藤《すどう》くんは来てないの?」
風紀委員長兼あいさつ当番の美人さんは、レンの行方に心当たりがないかを私に訊ねた。
「あはは……教室にはいたんだけどね。多分保健室とかかな……」
——誘えるわけがない。今朝、それとなく「放課後に委員会あるよ」と伝えたのに、レンは「あっそう」とだけ言って窓の外を眺めていたのだから。
「まあ、そういうこともあるわよね。私も去年、委員会すっぽかしたりしてたし……」
委員長がそんな告白をしている所に、もう一人のあいさつ当番がやって来て、ボソッと呟いた。
「……風紀委員終わってんな、ほんと。図書委員になればよかった」
「歩き読書してた人には言われたくないんですけど!?」
彼らもそれぞれ別クラスの男女だが、様子を見るに、きっとあの二人も付き合っているんだろう。私が目の前にいるにも関わらず、二人で痴話喧嘩を始めたのだった。
「アイツ今日、伴奏のオーディションだろ、委員長さん」
「えっ? ああ……なんかアルトラがそんなこと言ってたわね。須藤くんもピアノ弾くんだ」
——むしろあの大男がピアノを弾く方が意外だろ。と心の中でツッコミを入れながらも、それなら音楽室に遊びに行こうか、という気にもなった。
「そういうわけで、僕らは友だちがピアノを弾くところを見に行くから、これで」
「ぼ……私も行く。レンのピアノ好きだから……」
そうして三人並んで、委員会が行われた一階の教室から別棟四階の音楽室へと移動するのだった。
少し急いで階段を登り、十数人の野次馬《オーディエンス》が見守る中に私たちも加わる。丁度三組のオーディションが始まるところだったようで、学生服姿のレンがピアノの前でペコリと一礼をした。
「三組一番。須藤|廉太郎《れんたろう》」
彼は名を名乗り、音楽室のグランドピアノに腰かける。そして、彼の完璧な演奏が始まった——
優しく、どこか悲しい音色。どこか幻想的で、まるで過去を悔いるような音から——サビに入ると、「失う恐ろしさを忘れるな」と伝わるような、滑らかで美しい音が響く。
——完成された美しい音楽。これこそが、レンのピアノだ。
一番だけで終了したその曲に対して、オーディエンスは自然と拍手を送る。
「こりゃ、アルトラの負けだな」
男もそう呟きながら、レンに対して拍手を送っていた。
「ううん。アルトラのピアノは全く別物だから。まだ分かんないわよ」
委員会はそう言いながら、今しがた名乗りを終えてピアノに座った彼に注目した。そして、彼は——レンと同じ曲を、全く違った雰囲気で弾き始めた。
——確かに、鐘が鳴っている。
巨体から生み出された力が、広い音楽室中に響き渡り始めた。
第7話『ff』
第7話『ff』
力強い鐘の音が鳴り終わり、宣誓が始まる。あんなこともあったと、優しく過去を思い出すかのように振り返ように、滑らかで堂々とした音が奏でられる。
アルトラの演奏は決して上手くはない。ミスタッチが目立ってしかたがない。なのに何故かその優しい力強さが、手に入れたものを守る覚悟を呼びかけているようで、自然と身体がリズムに乗るのを感じる。
信じられない——同じ曲なのに、弾き手の違いでここまで別の曲になるなんて。
「これが、アルトラのピアノよ」
「……まあ、確かに、これは分からんな」
演奏後の拍手の中で言葉を交わした委員長とその彼氏と共に、予想の付かなくなった勝負に固唾を飲む。
——レンのピアノは『完璧』だった。だがレンの演奏は、他者の介入を認めていない。それ一つで完成された音楽だ。
一方でアルトラのピアノは『未完結』だ。それ故《ゆえ》、演奏に参加したくなる。自らもその音楽の一部となることを、身体が求める。
「——まるで、コンサートとライブだ」
メガネをかけた小柄な男は、二人の特徴を分析して言語化した。二つの全く異なる演奏、それぞれに良さがあり、それぞれに不足がある。しかし、伴奏に求められる資質は——
「三組の伴奏は、有賀《ありが》くんに決定しました」
三組《うち》のクラスの担任にして、音楽教師である審査委員長は、皆《みな》の前で高らかに『天才の敗北』を宣言した。
レンは「いよっし!」とガッツポーズを決めるアルトラを、絶望したような顔で睨みつけ、ボソボソと呪詛を呟いていた。
「アルトラ、すごーい!」
目的の演奏が終わったので音楽室を出ると、どこで見物していたのか、ぴょこぴょこと跳ねるリンが音楽室から出てきたアルトラに横から飛び付いていた。
「リン、ありがと。まさか本当に受かるとは思ってなかったから……自分でも驚いてる」
|敗者《レン》がすぐ後ろを通っているにも関わらず、二人は喜びながら、人前で堂々とイチャつく。
「楽譜も読めないのに凄いじゃん」
軽い拍手を送りながら、委員長と男の二人もアルトラに近付く。私は私で、レンをどう慰めるべきかを考えながら同じ方向に近付く。
そして、委員長達が丁度レンとすれ違ったときに、事件は起きた。
「おい、セノ——」
「いやまあ、わりと『簡単な曲』だったから、すぐに耳コピ出来ちゃった——」
レンが私を見つけて何かを言おうとしたところで、アルトラがレンを侮辱するような言葉を吐き——レンは、ついに彼らの方に振り返った。
「今、何って言った?」
彼は怒りを隠そうともせず、自分より遥かに強いであろう『暴力装置』に詰め寄る。音楽室の周りの空気が、まるで冬にでも戻ったかのように冷たくなる。
「レン、駄目——」
「てめぇ今|何《なん》っつった!!」
怒りを抑えられなくなったレンは、私の静止も聞かず、怒鳴りながらアルトラの胸ぐらに掴みかかる。
駄目だ、『暴力装置』が作動する——そう思い、レンの背後から彼の腕を引き離すべく近寄ったところで、アルトラは優しく話し始める。
「違うよ、須藤《すどう》。謙遜だ。僕だって、本当は何十時間も練習したさ」
アルトラは殴り返さなかった。リンも多少怯えてはいるが、冷静だった。しかし、レンは黙ったまま、恨みのこもった目で相手の目を睨み付け続ける。
「——ごめん、無神経だった。まさか、あんな天才的な演奏に勝てるなんて思ってなかったから、ちょっと興奮しすぎてたんだ」
アルトラは無抵抗のまま、もう一度「ごめん」と言いながら、相手の目を見る。すると、レンは軽く舌打ちをしながら、一瞬アルトラから目線を離す。
「……本番までに仕上げろ。耳コピじゃなくて楽譜を読め」
レンは胸ぐらから手を離しながら、吐き捨てるように言って、階段の方へと消えていく。
「お前——成長したな、また脇腹に一撃入れるのかと思った」
「あれはお前がリンのこと傷付けたからであって——」
「あのときは普通に死んだかと思った。本気で蹴りやがって……」
彼らの他愛ない内輪《うちわ》話で、周りの空気が元に戻る。
……そうだ、レンを追わなくちゃ。
きっとレンは傷付いている。ボクを呼ぼうとしたのだから——今、彼は私のことを求めているはずだ。
急いで階段を駆け下り、別棟の登下校口へ向かい、レンの下駄箱を確認する。そこには上履きが置かれていた。
すぐに帰ってしまったのか。私のことを待っていてくれると思ったのに——いや、きっと家で待っているのだろう。
早く行かなくては。きっと彼は悲しんでいる、きっと彼は慰めを必要としている。
一番の得意分野で、素人同然の男に負けて、悔しくないわけがない。私は急いで一旦家に帰り、すぐに私服に着替え、自転車に跨がって、力の限りペダルを漕いだ。
今日は学校を出てから20分くらいで辿り着いた、きっと彼は——待っていてくれる。
何故か震える手でインターフォンを押すと、すぐにスピーカーから「入れ」と声が聞こえてくるので、私は黙ってドアを開けて、家に入ってすぐ左の部屋に、ノックをして入った。
「遅い」
グランドピアノの前に座るレンは、いつにも増して不機嫌そうにしている。
でも——彼はちゃんと、私のことを待っていてくれた。
「ごめんなさい、これでも出来るだけ速く——」
「言い訳するな」
「……はい」
そう言いながら彼は、ピアノに両手を乗せた。
「こっちに来い」
レンはグランドピアノの横まで私を呼び付けると、私に命令を下す。
「ここで脱げ」
「えっ……」
私が困惑しながらレンの方を見ていると、彼は「早くしろ」と言いながら演奏を開始した。
いつもより力強い『第三楽章』の音圧に身体中が振動する中、私は手提げバッグをピアノの下に起き——彼の望むとおり、自らの手で一枚ずつ、心を隠す障害物を、ゆっくりと取り払い始める。
彼はピアノの鍵盤に釘付けで、私の身体など見ていない。いつもは目を瞑《つむ》って演奏するようなところでも、彼は鍵盤を——勝者《アルトラ》に向けていたあの目で、睨む。
……なんて乱暴な演奏なんだ。彼はこの曲に対して『衝動と葛藤』と言っていたが、今の彼が行っているのは『八つ当たりの暴力』だ。まるで音楽そのものを否定するかのように、剥き出しにされた感情で、ピアノを殴りつけている。
これが、彼の本当の心なのか。無秩序な憎悪《ぞうお》と、破滅的な怒りが渦巻き、最早《もはや》何一つとして自らを守るものを身に着けていないボクの感性に、直接侵入する。
ピアニストとしての自信を失い——自らを破壊するかのような痛々しい演奏は、かつて彼が語ったような『ピアノフォルテ』の弾きわけなど存在せず、結局最後まで、調律された雑音のままで終了した。
「レン——」
きっと、共感すれば彼は怒り狂うだろう。
でも、ボクには、今の演奏から彼の気持ちを理解出来た。
そのまま、ゴワゴワするカーペットの床に寝転がされ、私は彼の次の感情表現の道具になる。
痛い、痛い——彼の憎悪が私を蹂躙する。それをボクは受け止める。
「いたい、いたいよ……」
私がそう言ってもレンは決して優しくなどしてくれない。ただ、ただ衝動のままに、滑らかになってくれない楽器を、壊れる程乱暴に扱う。
「どうせ、僕は求められやしない」
レンは悲しそうにそう言葉を零す。
——違う、違うよ、レン。
「ぼくは、あなたのこと、すきだよ」
痛い、痛い——でも、幸せなんだ。
きっと彼の演奏は、優しくなる日が来る。あの美しい音色を奏でる日が来る——けれど、それは今日じゃない。
レンの両手が私の首に触れて、親指を食い込ませて私の喉笛を押しつぶす。
「——喋るなよ。お前には何もわからないくせに」
……苦しい。息をしようとする度に首を絞める力は強まるのに、楽器は調律され、次第に滑らかになり始める。
「れん…………すきだよ………………」
必死で絞り出した言葉も、彼は不快そうに受け止め、意識が飛びそうな私に対して、言葉をかけてくれる。
「もう、死んじゃえよ」
彼は泣きながら、辛さと悔しさの全てを私にぶつける。
ボクは——言葉では共感出来なくても、行動で、行為で、彼の気持ちを受け止めてあげられる。
「いい…………よ……ころ…………して……」
幸せ。きみの弱さを、ボクだけが知っているんだ。
もっと、泣いて。
壊していいよ、ボクのこと。殺してもいい。
私の意識が限界のところで、無意識に締め返された彼は、先に一瞬意識を手放し、リズムを崩壊させる。
「っ……はぁ、はぁ」
首から彼の両手が離れ、私はようやくまともに空気を吸い込み、一気に意識が回復するのを感じる。
「……セノ」
膝が絨毯のせいで真っ赤になったレンは、立ち上がりながら私の名前を呼ぶ。
「なに、レンくん」
「……壊れるなよ」
——!!
そう言いながら正装に着替え、グランドピアノに座った彼は、今度はいつもより優しく『第一楽章』を弾き始めたのだった。
力強い鐘の音が鳴り終わり、宣誓が始まる。あんなこともあったと、優しく過去を思い出すかのように振り返ように、滑らかで堂々とした音が奏でられる。
アルトラの演奏は決して上手くはない。ミスタッチが目立ってしかたがない。なのに何故かその優しい力強さが、手に入れたものを守る覚悟を呼びかけているようで、自然と身体がリズムに乗るのを感じる。
信じられない——同じ曲なのに、弾き手の違いでここまで別の曲になるなんて。
「これが、アルトラのピアノよ」
「……まあ、確かに、これは分からんな」
演奏後の拍手の中で言葉を交わした委員長とその彼氏と共に、予想の付かなくなった勝負に固唾を飲む。
——レンのピアノは『完璧』だった。だがレンの演奏は、他者の介入を認めていない。それ一つで完成された音楽だ。
一方でアルトラのピアノは『未完結』だ。それ故《ゆえ》、演奏に参加したくなる。自らもその音楽の一部となることを、身体が求める。
「——まるで、コンサートとライブだ」
メガネをかけた小柄な男は、二人の特徴を分析して言語化した。二つの全く異なる演奏、それぞれに良さがあり、それぞれに不足がある。しかし、伴奏に求められる資質は——
「三組の伴奏は、有賀《ありが》くんに決定しました」
三組《うち》のクラスの担任にして、音楽教師である審査委員長は、皆《みな》の前で高らかに『天才の敗北』を宣言した。
レンは「いよっし!」とガッツポーズを決めるアルトラを、絶望したような顔で睨みつけ、ボソボソと呪詛を呟いていた。
「アルトラ、すごーい!」
目的の演奏が終わったので音楽室を出ると、どこで見物していたのか、ぴょこぴょこと跳ねるリンが音楽室から出てきたアルトラに横から飛び付いていた。
「リン、ありがと。まさか本当に受かるとは思ってなかったから……自分でも驚いてる」
|敗者《レン》がすぐ後ろを通っているにも関わらず、二人は喜びながら、人前で堂々とイチャつく。
「楽譜も読めないのに凄いじゃん」
軽い拍手を送りながら、委員長と男の二人もアルトラに近付く。私は私で、レンをどう慰めるべきかを考えながら同じ方向に近付く。
そして、委員長達が丁度レンとすれ違ったときに、事件は起きた。
「おい、セノ——」
「いやまあ、わりと『簡単な曲』だったから、すぐに耳コピ出来ちゃった——」
レンが私を見つけて何かを言おうとしたところで、アルトラがレンを侮辱するような言葉を吐き——レンは、ついに彼らの方に振り返った。
「今、何って言った?」
彼は怒りを隠そうともせず、自分より遥かに強いであろう『暴力装置』に詰め寄る。音楽室の周りの空気が、まるで冬にでも戻ったかのように冷たくなる。
「レン、駄目——」
「てめぇ今|何《なん》っつった!!」
怒りを抑えられなくなったレンは、私の静止も聞かず、怒鳴りながらアルトラの胸ぐらに掴みかかる。
駄目だ、『暴力装置』が作動する——そう思い、レンの背後から彼の腕を引き離すべく近寄ったところで、アルトラは優しく話し始める。
「違うよ、須藤《すどう》。謙遜だ。僕だって、本当は何十時間も練習したさ」
アルトラは殴り返さなかった。リンも多少怯えてはいるが、冷静だった。しかし、レンは黙ったまま、恨みのこもった目で相手の目を睨み付け続ける。
「——ごめん、無神経だった。まさか、あんな天才的な演奏に勝てるなんて思ってなかったから、ちょっと興奮しすぎてたんだ」
アルトラは無抵抗のまま、もう一度「ごめん」と言いながら、相手の目を見る。すると、レンは軽く舌打ちをしながら、一瞬アルトラから目線を離す。
「……本番までに仕上げろ。耳コピじゃなくて楽譜を読め」
レンは胸ぐらから手を離しながら、吐き捨てるように言って、階段の方へと消えていく。
「お前——成長したな、また脇腹に一撃入れるのかと思った」
「あれはお前がリンのこと傷付けたからであって——」
「あのときは普通に死んだかと思った。本気で蹴りやがって……」
彼らの他愛ない内輪《うちわ》話で、周りの空気が元に戻る。
……そうだ、レンを追わなくちゃ。
きっとレンは傷付いている。ボクを呼ぼうとしたのだから——今、彼は私のことを求めているはずだ。
急いで階段を駆け下り、別棟の登下校口へ向かい、レンの下駄箱を確認する。そこには上履きが置かれていた。
すぐに帰ってしまったのか。私のことを待っていてくれると思ったのに——いや、きっと家で待っているのだろう。
早く行かなくては。きっと彼は悲しんでいる、きっと彼は慰めを必要としている。
一番の得意分野で、素人同然の男に負けて、悔しくないわけがない。私は急いで一旦家に帰り、すぐに私服に着替え、自転車に跨がって、力の限りペダルを漕いだ。
今日は学校を出てから20分くらいで辿り着いた、きっと彼は——待っていてくれる。
何故か震える手でインターフォンを押すと、すぐにスピーカーから「入れ」と声が聞こえてくるので、私は黙ってドアを開けて、家に入ってすぐ左の部屋に、ノックをして入った。
「遅い」
グランドピアノの前に座るレンは、いつにも増して不機嫌そうにしている。
でも——彼はちゃんと、私のことを待っていてくれた。
「ごめんなさい、これでも出来るだけ速く——」
「言い訳するな」
「……はい」
そう言いながら彼は、ピアノに両手を乗せた。
「こっちに来い」
レンはグランドピアノの横まで私を呼び付けると、私に命令を下す。
「ここで脱げ」
「えっ……」
私が困惑しながらレンの方を見ていると、彼は「早くしろ」と言いながら演奏を開始した。
いつもより力強い『第三楽章』の音圧に身体中が振動する中、私は手提げバッグをピアノの下に起き——彼の望むとおり、自らの手で一枚ずつ、心を隠す障害物を、ゆっくりと取り払い始める。
彼はピアノの鍵盤に釘付けで、私の身体など見ていない。いつもは目を瞑《つむ》って演奏するようなところでも、彼は鍵盤を——勝者《アルトラ》に向けていたあの目で、睨む。
……なんて乱暴な演奏なんだ。彼はこの曲に対して『衝動と葛藤』と言っていたが、今の彼が行っているのは『八つ当たりの暴力』だ。まるで音楽そのものを否定するかのように、剥き出しにされた感情で、ピアノを殴りつけている。
これが、彼の本当の心なのか。無秩序な憎悪《ぞうお》と、破滅的な怒りが渦巻き、最早《もはや》何一つとして自らを守るものを身に着けていないボクの感性に、直接侵入する。
ピアニストとしての自信を失い——自らを破壊するかのような痛々しい演奏は、かつて彼が語ったような『ピアノフォルテ』の弾きわけなど存在せず、結局最後まで、調律された雑音のままで終了した。
「レン——」
きっと、共感すれば彼は怒り狂うだろう。
でも、ボクには、今の演奏から彼の気持ちを理解出来た。
そのまま、ゴワゴワするカーペットの床に寝転がされ、私は彼の次の感情表現の道具になる。
痛い、痛い——彼の憎悪が私を蹂躙する。それをボクは受け止める。
「いたい、いたいよ……」
私がそう言ってもレンは決して優しくなどしてくれない。ただ、ただ衝動のままに、滑らかになってくれない楽器を、壊れる程乱暴に扱う。
「どうせ、僕は求められやしない」
レンは悲しそうにそう言葉を零す。
——違う、違うよ、レン。
「ぼくは、あなたのこと、すきだよ」
痛い、痛い——でも、幸せなんだ。
きっと彼の演奏は、優しくなる日が来る。あの美しい音色を奏でる日が来る——けれど、それは今日じゃない。
レンの両手が私の首に触れて、親指を食い込ませて私の喉笛を押しつぶす。
「——喋るなよ。お前には何もわからないくせに」
……苦しい。息をしようとする度に首を絞める力は強まるのに、楽器は調律され、次第に滑らかになり始める。
「れん…………すきだよ………………」
必死で絞り出した言葉も、彼は不快そうに受け止め、意識が飛びそうな私に対して、言葉をかけてくれる。
「もう、死んじゃえよ」
彼は泣きながら、辛さと悔しさの全てを私にぶつける。
ボクは——言葉では共感出来なくても、行動で、行為で、彼の気持ちを受け止めてあげられる。
「いい…………よ……ころ…………して……」
幸せ。きみの弱さを、ボクだけが知っているんだ。
もっと、泣いて。
壊していいよ、ボクのこと。殺してもいい。
私の意識が限界のところで、無意識に締め返された彼は、先に一瞬意識を手放し、リズムを崩壊させる。
「っ……はぁ、はぁ」
首から彼の両手が離れ、私はようやくまともに空気を吸い込み、一気に意識が回復するのを感じる。
「……セノ」
膝が絨毯のせいで真っ赤になったレンは、立ち上がりながら私の名前を呼ぶ。
「なに、レンくん」
「……壊れるなよ」
——!!
そう言いながら正装に着替え、グランドピアノに座った彼は、今度はいつもより優しく『第一楽章』を弾き始めたのだった。
第8話『ハウリング』
第8話『ハウリング』
あいさつ当番の二人が二年生、三年生の共通登下校口の辺りで元気に「オハヨーオハヨー」している所を通り抜け、教室に向かう。教室にいたレンはどんよりと曇った空を眺めていた。
痣を隠すために喉元に湿布を貼っている私には相変わらず興味もなさそうで、昨日一瞬見せた優しさは、みじんも感じられなかった。
「レン……昨日は、ありがとう……」
まだ少し痛みの残る声帯で声をかけるが、レンは無視して薄暗い灰色の空や体育館の壁面を眺めたまま、目の前に座った私とは一切コミュニケーションを取る気が無いようだった。
まだ人も疎《まば》らな午前7時20分、私はリンの椅子に座る。そしてただ虚空を見つめる、どこか寂しそうなレンの横顔を観察していた。
——昨日、彼は幸せな苦しみから開放されたボクに「壊れるなよ」と、優しく言葉をかけてくれた。
初めて聞いた彼の本心——ボクを大切に思う気持ちを胸に大事に仕舞う。昨日の屈辱を忘れようと努める彼に、私は必要以上に言葉をかけなかった。
「あれ、セノちゃんおはよう」
珍しく朝早くから、カバンを二人分持って静かな教室に入って来た席の主《あるじ》は、空気も読まずに私に話しかける。
「ごめん、邪魔だった?」
私はそう言いながら、アルトラの机の上にカバンをおいて教科書を引き出しに仕舞う彼女に声をかけた。
「ううん、大丈夫。でも、教科書を仕舞う間だけ退《ど》いてくれると嬉しいかな……」
そう言いながらこちらに向かってくるリンの邪魔にならないように、私は一つ隣の席に移動する。
「彼氏《アルトラ》はいっしょじゃないの?」
「うん、アルトラは音楽室に行ってるよ。家に電子ピアノしかないから、先生が特別に、しばらくは学校のピアノ使って練習していいって」
私は、相変わらず空気を読まずに敗者《レン》の傷口を抉りかねない発言をするリンに呆れつつ「そうなんだ」と返事をする。
レンは、目の前で立ったまま教科書を仕舞うリンの後ろ姿を凝視していた。
——そしてそのまま、彼は視点の先にあった、突き出された部分にゆっくりと手を触れた。
「わっ——び、びっくりした、どうしたの須藤《すどう》くん?」
いきなりお尻に触れられたリンは、あくまで穏便に、振り返ってレンに優しく話しかける。
しかしレンは何も答えず、静かに立ち上がる。
——教室には、私たちの他に誰もいない。ただ、グラウンドから部活生たちのかけ声が響くだけの教室で、レンは、リンを窓際に追いやるように立った。
「ま、待って……ちょっと、怖い……かも……」
私よりも小柄なリンは、目の前に立つレンを見上げながら、彼の唐突な行動に抗議をする。
——だが、レンは構わず彼女の小さな身体を鷲掴みにした。
「やっ……やめて、やめて、ください……」
リンは恐怖で——きっとイジメを受けていたときのことを思い出しながら、必死でしゃがみ込もうとする。
そんな彼女を、容赦なくいじめる彼を——私は、止められなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
リンは涙目になりながらいじめっ子に許しを乞い、ほとんど無抵抗のまま、レンに全身を確かめられる。
「——レン」
自分の口が自然と動いたことに驚いた。
——見ていられなかったのかもしれない。目の前で友人がボクの『彼氏』にイジメられているのを。
私の声に反応した彼は、リンのポケットから手を離して、そのまましゃがみ込んだ彼女に声をかける。
「悪いな、持ち物検査をさせてもらったよ。カバンを二つも持って来ていて、怪しかったから」
異様なまでに取り乱す彼女に、異様なまでに冷静な彼はそう言うと、また自分の席に戻った。
「あ……あぁ……ごめんなさい……」
泣きながら謝るリンは、足が竦んで上手く立ち上がれないようだ。窓枠に必死に手をかけ、床を濡らしながら、なんとか立ち上がろうと足掻いている。
「で、これはなんだ? 不要物じゃないのか?」
レンはリンのポケットから出てきたであろうピンクの水晶かなにかのキーホルダーを彼女に見せつける。
「や……返して、ください」
「駄目だ。これは没収だな」
「ごめんなさい……返して、ください……」
レンは席に座りながら彼女を眺めつつ、リンが謝り倒す姿を——満足そうに眺めながら、自分の席に座った。
「——保健室、連れてくね」
リンに着替えが必要だと判断した私は、彼女に肩を貸して歩くのを手伝う。
「やだ……セノちゃんまで汚れちゃうよ……」
この期に及んで人の心配をする彼女の言葉を無視しつつ、私は彼女を保健室まで連れて行った。
———————
保健室の先生は詳しく事情を聞かずとも、すぐにリンをシャワー室に入れて着替えを用意していた。
「——アルトラくん?」
先生は私にそれとなく事情聴取を始める。
二年生の頃から保健委員らしいリンの交友関係についても、ある程度把握しているようだ。
「違います——ただちょっと、嫌なことを思い出しちゃったみたいで」
「フラッシュバックかしら。一体何があったの?」
——どう説明すべきか。いや、下手に説明するべきではないだろう、下手をすればこの件は暴力沙汰になってしまう。
「——分かりません。持ち物検査をしていたら……」
「……なるほどね」
先生は自分の中で勝手に結論をつけてくれたらしく、それ以上は私に聞き込んでくることはなかった。
私もリンのイジメが長期で暴力的なものだったという話は知っている。先生は単に『身体を触れられたことによるトラウマのフラッシュバック』だと結論を付けたのだろう。
「えっと、瀬野《セノ》さんだっけ。ありがとうね」
先生は私の名札を確認しながら、あとは引き受ける旨を私に伝えて、保健室用のカルテに『PS』と書きながら、私が出ていくのを見守っていたのだった。
あいさつ当番の二人が二年生、三年生の共通登下校口の辺りで元気に「オハヨーオハヨー」している所を通り抜け、教室に向かう。教室にいたレンはどんよりと曇った空を眺めていた。
痣を隠すために喉元に湿布を貼っている私には相変わらず興味もなさそうで、昨日一瞬見せた優しさは、みじんも感じられなかった。
「レン……昨日は、ありがとう……」
まだ少し痛みの残る声帯で声をかけるが、レンは無視して薄暗い灰色の空や体育館の壁面を眺めたまま、目の前に座った私とは一切コミュニケーションを取る気が無いようだった。
まだ人も疎《まば》らな午前7時20分、私はリンの椅子に座る。そしてただ虚空を見つめる、どこか寂しそうなレンの横顔を観察していた。
——昨日、彼は幸せな苦しみから開放されたボクに「壊れるなよ」と、優しく言葉をかけてくれた。
初めて聞いた彼の本心——ボクを大切に思う気持ちを胸に大事に仕舞う。昨日の屈辱を忘れようと努める彼に、私は必要以上に言葉をかけなかった。
「あれ、セノちゃんおはよう」
珍しく朝早くから、カバンを二人分持って静かな教室に入って来た席の主《あるじ》は、空気も読まずに私に話しかける。
「ごめん、邪魔だった?」
私はそう言いながら、アルトラの机の上にカバンをおいて教科書を引き出しに仕舞う彼女に声をかけた。
「ううん、大丈夫。でも、教科書を仕舞う間だけ退《ど》いてくれると嬉しいかな……」
そう言いながらこちらに向かってくるリンの邪魔にならないように、私は一つ隣の席に移動する。
「彼氏《アルトラ》はいっしょじゃないの?」
「うん、アルトラは音楽室に行ってるよ。家に電子ピアノしかないから、先生が特別に、しばらくは学校のピアノ使って練習していいって」
私は、相変わらず空気を読まずに敗者《レン》の傷口を抉りかねない発言をするリンに呆れつつ「そうなんだ」と返事をする。
レンは、目の前で立ったまま教科書を仕舞うリンの後ろ姿を凝視していた。
——そしてそのまま、彼は視点の先にあった、突き出された部分にゆっくりと手を触れた。
「わっ——び、びっくりした、どうしたの須藤《すどう》くん?」
いきなりお尻に触れられたリンは、あくまで穏便に、振り返ってレンに優しく話しかける。
しかしレンは何も答えず、静かに立ち上がる。
——教室には、私たちの他に誰もいない。ただ、グラウンドから部活生たちのかけ声が響くだけの教室で、レンは、リンを窓際に追いやるように立った。
「ま、待って……ちょっと、怖い……かも……」
私よりも小柄なリンは、目の前に立つレンを見上げながら、彼の唐突な行動に抗議をする。
——だが、レンは構わず彼女の小さな身体を鷲掴みにした。
「やっ……やめて、やめて、ください……」
リンは恐怖で——きっとイジメを受けていたときのことを思い出しながら、必死でしゃがみ込もうとする。
そんな彼女を、容赦なくいじめる彼を——私は、止められなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
リンは涙目になりながらいじめっ子に許しを乞い、ほとんど無抵抗のまま、レンに全身を確かめられる。
「——レン」
自分の口が自然と動いたことに驚いた。
——見ていられなかったのかもしれない。目の前で友人がボクの『彼氏』にイジメられているのを。
私の声に反応した彼は、リンのポケットから手を離して、そのまましゃがみ込んだ彼女に声をかける。
「悪いな、持ち物検査をさせてもらったよ。カバンを二つも持って来ていて、怪しかったから」
異様なまでに取り乱す彼女に、異様なまでに冷静な彼はそう言うと、また自分の席に戻った。
「あ……あぁ……ごめんなさい……」
泣きながら謝るリンは、足が竦んで上手く立ち上がれないようだ。窓枠に必死に手をかけ、床を濡らしながら、なんとか立ち上がろうと足掻いている。
「で、これはなんだ? 不要物じゃないのか?」
レンはリンのポケットから出てきたであろうピンクの水晶かなにかのキーホルダーを彼女に見せつける。
「や……返して、ください」
「駄目だ。これは没収だな」
「ごめんなさい……返して、ください……」
レンは席に座りながら彼女を眺めつつ、リンが謝り倒す姿を——満足そうに眺めながら、自分の席に座った。
「——保健室、連れてくね」
リンに着替えが必要だと判断した私は、彼女に肩を貸して歩くのを手伝う。
「やだ……セノちゃんまで汚れちゃうよ……」
この期に及んで人の心配をする彼女の言葉を無視しつつ、私は彼女を保健室まで連れて行った。
———————
保健室の先生は詳しく事情を聞かずとも、すぐにリンをシャワー室に入れて着替えを用意していた。
「——アルトラくん?」
先生は私にそれとなく事情聴取を始める。
二年生の頃から保健委員らしいリンの交友関係についても、ある程度把握しているようだ。
「違います——ただちょっと、嫌なことを思い出しちゃったみたいで」
「フラッシュバックかしら。一体何があったの?」
——どう説明すべきか。いや、下手に説明するべきではないだろう、下手をすればこの件は暴力沙汰になってしまう。
「——分かりません。持ち物検査をしていたら……」
「……なるほどね」
先生は自分の中で勝手に結論をつけてくれたらしく、それ以上は私に聞き込んでくることはなかった。
私もリンのイジメが長期で暴力的なものだったという話は知っている。先生は単に『身体を触れられたことによるトラウマのフラッシュバック』だと結論を付けたのだろう。
「えっと、瀬野《セノ》さんだっけ。ありがとうね」
先生は私の名札を確認しながら、あとは引き受ける旨を私に伝えて、保健室用のカルテに『PS』と書きながら、私が出ていくのを見守っていたのだった。
第9話『リターン』
第9話『リターン』
教室に戻り、誰も片付けていなかった水たまりを雑巾で水拭きしながら、没収したキーホルダーを曇り空にかざしているレンに話しかける。
「……それ、どうするつもりなの?」
「しばらく没収しといて、飽きたら返すか、捨てるか、先生に渡すかだな」
「ねぇ、きっと大事なものだよ。あの真面目なリンちゃんが、理由もなくそんなもの持ち込まないと思うから……」
「そんなに大事なのか。なら、なおさら簡単に返すわけにはいかない」
——いらないことを言ってしまった。
レンには同情や共感を求めても無駄なのだろう。彼が興味を持つのは、自分を含め誰かの『勝手な解釈』ではなくその『表現そのもの』なのだから。
「大事だと思うのなら、態度で見せるだろう。恐怖を失禁で表現したように」
「……これ以上は、本当に暴力装置《アルトラ》の逆鱗に触れちゃうよ」
「なんのために? 怒ったところで、僕が返すとは限らないだろう」
ストレンは本当に理解していないようだ。
だが、私は少しずつ彼を理解し始めている。
「——怒りで、愛を表現できてしまうから」
アルトラは、友人であるらしい委員長の彼氏を蹴ったと話していた——それは、その男がリンを傷付けたからなのだと。
愛の証明。その表現としてアルトラは人を蹴る。私はレンの暴力を受け入れる。それは同じことなのだ——言葉では伝えられない想いを行動で証明し、表現しているに過ぎない。
掃除が終わりしばらくすると、大慌てでアルトラが教室に飛び込んでくる。
「リン——っ! 誰か、リンを見てないか!?」
「あ、アルトラくん——リンちゃんなら保健室に——」
「わかった、ありがとう!」
——彼は嵐のように走ってやってきて、走り去っていった。きっと音楽室にリンが来ないので、不安になっているのだろう。
「本当に、それだけは返さないと——それが大事であればあるほど、それを取り戻すことが彼らの愛の表現になるし、場合によっては暴力すら辞さないと思うから——」
「——なるほど。オスのカマキリのように、その命を差し出すことが利益となることすらあると」
確か、カマキリのオスは交尾が終わるとメスに食べられてしまうのだったか。そうすることでより多くの子孫を残せるようになるのだと、小学生の頃に聞いた覚えがある。
同じことだろう、得られる利益《メリット》が差し出す対価《コスト》を超えるのなら、人も生き物も、その行動を取れてしまう。
——だから私は、レンにこの身体を差し出しているのだから。
「まあいい、担任が来たら押し付ける」
「それがいいと思う……変に返しても色々言われそうだし……」
風紀委員の立場を利用するようだが、実際それが一番丸く収まるだろう。それでも暴力装置《アルトラ》が報復に来る可能性はあるが——持ち続けるよりは何倍もマシだ。
———————
朝のホームルームが始まる直前、レンはピンクの水晶のキーホルダーを「リンが持ってた」とだけ言って担任に渡し、アルトラがリンを連れて保健室から戻ってきたのは一時間目の始まる直前だった。
リンは恐る恐るレンの前の席に座りながら、いつもよりも少しだけ席を誰もいない前の方に寄せ、椅子をギリギリまで前に出し、後ろからちょっかいを出されないようにしていたのだった。
それからというもの、アルトラとリンは昼休みも放課後も翌日の朝も、二人で音楽室に通い詰めているようだった。朝早くの教室にも、耳をすませば遠くからあの鐘の音が鳴り響くのが聴こえてくる。
「やあ、セノ」
「おはよ、レンくん」
「今日は赤星《あかほし》、また一人で来るかな」
「……来ないと思う。一時間目に席替えだし、終わってから荷物おいたほうが机軽いからね」
成績にほとんど影響のない前期確認テストも少し前に終わり、うちのクラスでは今日、席替えが行われる。机ごと持ち運んで移動することになる今日、わざわざ重量を増やして労力を増やす必要はない。
——そうでなくても、もうリンはアルトラと別行動をしないだろう。何をされたのかを話しているかは分からないが、どちらにせよ一人で動くことなどないはずだ。
そして一時間目の席替えの結果、レンは教室の一番後ろの窓際——大当たりの位置を引いていて、私はその二つ前の席、アルトラは窓側の一番前、リンはその真後ろの席——私の二つ前の席になっていた。|理想的な席《隣》ではないが、羨ましい。
「久しぶり、よろしくね」
「……うん。よろしく、セノ」
私の隣に座ったのはナトリだった。リンと同じかそれより背の低いは、小学五年生の頃から突然内向的な性格になり、かなり仲の良かったはずのリンや私を含めて、ほとんどの友好関係を断《た》っていた。
今思えば彼女も不良たちの標的になっていたのだと思う。リンのそれほど目立ついじめではなかったし、長期的なものではなかったからそのイメージはないが——内向的な性格になった頃に、ちょうどいじめが落ち着いた気がする。
五、六年生では二人ともクラスが違ったので私は詳しくないが——やはり、周りにまでいじめられていたリンのほうが酷い目に遭っていたと思う。
それなのに、ナトリのほうが傷付いているように見えたのは——勝手に人の傷を比べてはいけないかもしれないが、不思議だった。
しかし今の彼女は、かつて『おちびちゃんズ』として仲の良かった頃のものとは違う妖《あや》しい微笑みを浮かべていて——それが何故か、少し恐ろしく見えたのだった。
教室に戻り、誰も片付けていなかった水たまりを雑巾で水拭きしながら、没収したキーホルダーを曇り空にかざしているレンに話しかける。
「……それ、どうするつもりなの?」
「しばらく没収しといて、飽きたら返すか、捨てるか、先生に渡すかだな」
「ねぇ、きっと大事なものだよ。あの真面目なリンちゃんが、理由もなくそんなもの持ち込まないと思うから……」
「そんなに大事なのか。なら、なおさら簡単に返すわけにはいかない」
——いらないことを言ってしまった。
レンには同情や共感を求めても無駄なのだろう。彼が興味を持つのは、自分を含め誰かの『勝手な解釈』ではなくその『表現そのもの』なのだから。
「大事だと思うのなら、態度で見せるだろう。恐怖を失禁で表現したように」
「……これ以上は、本当に暴力装置《アルトラ》の逆鱗に触れちゃうよ」
「なんのために? 怒ったところで、僕が返すとは限らないだろう」
ストレンは本当に理解していないようだ。
だが、私は少しずつ彼を理解し始めている。
「——怒りで、愛を表現できてしまうから」
アルトラは、友人であるらしい委員長の彼氏を蹴ったと話していた——それは、その男がリンを傷付けたからなのだと。
愛の証明。その表現としてアルトラは人を蹴る。私はレンの暴力を受け入れる。それは同じことなのだ——言葉では伝えられない想いを行動で証明し、表現しているに過ぎない。
掃除が終わりしばらくすると、大慌てでアルトラが教室に飛び込んでくる。
「リン——っ! 誰か、リンを見てないか!?」
「あ、アルトラくん——リンちゃんなら保健室に——」
「わかった、ありがとう!」
——彼は嵐のように走ってやってきて、走り去っていった。きっと音楽室にリンが来ないので、不安になっているのだろう。
「本当に、それだけは返さないと——それが大事であればあるほど、それを取り戻すことが彼らの愛の表現になるし、場合によっては暴力すら辞さないと思うから——」
「——なるほど。オスのカマキリのように、その命を差し出すことが利益となることすらあると」
確か、カマキリのオスは交尾が終わるとメスに食べられてしまうのだったか。そうすることでより多くの子孫を残せるようになるのだと、小学生の頃に聞いた覚えがある。
同じことだろう、得られる利益《メリット》が差し出す対価《コスト》を超えるのなら、人も生き物も、その行動を取れてしまう。
——だから私は、レンにこの身体を差し出しているのだから。
「まあいい、担任が来たら押し付ける」
「それがいいと思う……変に返しても色々言われそうだし……」
風紀委員の立場を利用するようだが、実際それが一番丸く収まるだろう。それでも暴力装置《アルトラ》が報復に来る可能性はあるが——持ち続けるよりは何倍もマシだ。
———————
朝のホームルームが始まる直前、レンはピンクの水晶のキーホルダーを「リンが持ってた」とだけ言って担任に渡し、アルトラがリンを連れて保健室から戻ってきたのは一時間目の始まる直前だった。
リンは恐る恐るレンの前の席に座りながら、いつもよりも少しだけ席を誰もいない前の方に寄せ、椅子をギリギリまで前に出し、後ろからちょっかいを出されないようにしていたのだった。
それからというもの、アルトラとリンは昼休みも放課後も翌日の朝も、二人で音楽室に通い詰めているようだった。朝早くの教室にも、耳をすませば遠くからあの鐘の音が鳴り響くのが聴こえてくる。
「やあ、セノ」
「おはよ、レンくん」
「今日は赤星《あかほし》、また一人で来るかな」
「……来ないと思う。一時間目に席替えだし、終わってから荷物おいたほうが机軽いからね」
成績にほとんど影響のない前期確認テストも少し前に終わり、うちのクラスでは今日、席替えが行われる。机ごと持ち運んで移動することになる今日、わざわざ重量を増やして労力を増やす必要はない。
——そうでなくても、もうリンはアルトラと別行動をしないだろう。何をされたのかを話しているかは分からないが、どちらにせよ一人で動くことなどないはずだ。
そして一時間目の席替えの結果、レンは教室の一番後ろの窓際——大当たりの位置を引いていて、私はその二つ前の席、アルトラは窓側の一番前、リンはその真後ろの席——私の二つ前の席になっていた。|理想的な席《隣》ではないが、羨ましい。
「久しぶり、よろしくね」
「……うん。よろしく、セノ」
私の隣に座ったのはナトリだった。リンと同じかそれより背の低いは、小学五年生の頃から突然内向的な性格になり、かなり仲の良かったはずのリンや私を含めて、ほとんどの友好関係を断《た》っていた。
今思えば彼女も不良たちの標的になっていたのだと思う。リンのそれほど目立ついじめではなかったし、長期的なものではなかったからそのイメージはないが——内向的な性格になった頃に、ちょうどいじめが落ち着いた気がする。
五、六年生では二人ともクラスが違ったので私は詳しくないが——やはり、周りにまでいじめられていたリンのほうが酷い目に遭っていたと思う。
それなのに、ナトリのほうが傷付いているように見えたのは——勝手に人の傷を比べてはいけないかもしれないが、不思議だった。
しかし今の彼女は、かつて『おちびちゃんズ』として仲の良かった頃のものとは違う妖《あや》しい微笑みを浮かべていて——それが何故か、少し恐ろしく見えたのだった。
第10話『ゲテモノ』
第10話『ゲテモノ』
日常にどんな事件があろう。この頃アルトラはレンを厳しい目で睨むようになっており、リンが例の一件を話したのだろうと理解したが——特に喧嘩が起こるわけでもなく、これといって大きな変化はない。
リンの精神状態もいつの間にか回復しており、いつも通り彼女は休み時間のたびに彼氏に抱き着いては、チワワか何かのように「待て」をされている。
私はといえば、週に一度レンの家に遊びに行き奏でられる程度だった。そんな状況で一ヶ月程度が経過し、話題は二週間後の修学旅行のもの一辺倒になっていたのだ。
「広島っていったら、やっぱお好み焼きだよね!」
昼休み、久々に部活がオフのメグがクラスに遊びに来ていた。私のような帰宅部にはオフの概念がいまいちわからないが、土日祝日も部活、平日も当然部活と学業をこなす彼女たちは、いったいいつ休んでいるのだろう。
「……粉ものあんまり好きじゃないんだよね」
隣の席に座る、同じく吹奏楽部のナトリも珍しく会話に参加し、話題の腰を折っていた。
「えー、私は好きだけどなぁ。たこ焼きとか……熱々の粉ものって良くない?」
「わかるー! セノは関西適性あるね!」
「……恵美《めぐみ》は何でも食べるじゃん」
「はは……この前なんか、わさびキャラメルの食レポしてたね……」
「……ゲテモノじゃん」
「えー、美味しかったよ? わさびキャラメル」
呟きサイトでゲテモノ——もとい、チャレンジ精神旺盛な食べ物をよく食レポしているメグのアカウントには、フォロワーが1000人もいる。
去年その活動でプチ炎上したようだったが——彼女は今でもブログを書いており、読者たちは彼女の悪食《あくじき》を楽しんでいるようだ。
「それいったら、セノだって——っと……」
メグは私の二つ後ろの席に座り、無意味に空を眺めているレン『本人』の存在を思い出し、すんでのところで方向転換をする。
「——ほら、リンちゃん。一年の始めの頃にいじめられてた子。あの子今、|アルトラ《ゲテモノ》と付き合ってるんでしょ?」
「……着地失敗してる」
「まあ……はは。あの二人を見てると、私はやっぱり羨ましいけどね」
ボクも、誰にも理解されないレンを好きになっている。きっとリンも、当時誰にも理解されていなかったアルトラを好きになったとき、似たようなこと気持ちを持っていたのだと思う。
自分にはないものを持っている誰か。それを求めて、理解したいと思ってしまうこの気持ちを。
「ナトリは好きな人とかいないの?」
「いない。恵美は?」
「えー、気になってる人はいるけどぉ……」
「あ、ごめん。やっぱ興味ない」
「えっ!? 恋話《コイバナ》する流れだったじゃん!?」
ナトリはまたしてもメグの話題の腰をへし折る。
腰痛待ったなしのメグは、次の話題に事欠き——女三人寄れば姦しいというが、井戸端会議よろしく噂の話に足を踏み入れ、囁くような小声で話し始めた。
「じゃあ——リンちゃん、不良にエロいことされてた説って、知ってる?」
——メグのブログを燃やした学校の裏掲示板で、一時期まことしやかに騒がれたことのある信憑性にかけるネタ。それを彼女は持ち出した。
「なんか、アルトラがボコボコにした不良ってのが、過去に女の子にめちゃくちゃする動画を売って警察にお世話になってたって話があってさ」
「……でもそれ、結局時系列的に被害者はリンちゃんじゃないって話だったでしょ。そもそもこの学校、この学年の子かも怪しいって」
私は友人のことを詮索する友人に対して少しだけ不快感を懐きながらも、その可能性を否定するために、当時のコメントで見かけた噂を投げ返した。
しかしメグは、ようやく軌道に乗りかけた話題に花を咲かせるために——無神経なことを言い始めた。
「いやでも、そんな噂の立つ子を選ぶって……アルトラも相当なゲテモノ食いじゃない?」
「——やめてそういう話! 不快なんだけど!」
唐突に立ち上がったナトリに、メグは驚いた顔をする。多分私もメグと同じ顔をしたが、ボクはナトリと同じ気持ちだった。
周りの注目を集めてしまい、メグはキョロキョロと辺りを見渡してから、ゆっくりと席に座りなおすナトリに謝罪をした。
「ご、ごめんてナトリ。そういえばそっか、ナトリも——いや、なんでもない」
「……ごめん。怒鳴っちゃった」
……時系列的に、被害者候補の一人がナトリなのだ。
とはいえその噂にはなんの根拠もない。実際被害者の情報は一切公開されておらず、加害者側のその話すら、噂でしかないのだから。
そんな噂で『汚れた女』扱いされるとなれば——当然ナトリは不快だろう。
「えっと……そうそう、アルトラはなんか、風紀委員長からも一年の頃に言い寄られてて、それでリンちゃんを選んだって噂でさ——その、なんでリンちゃんだったんだろうなーって」
「うんうん、委員長美人さんだもんね。リンちゃんも可愛いけど——美貌で言えば委員長の方に軍配上がるし」
「……誰それ。ってか、アルトラくんってモテるんだアレで」
ようやくナトリも話題に食いつき、会話が成立しそうだった。
「モテるっていうか——なんだろうね、多分依存されやすい体質なんじゃないかな? 去年委員長とクラス同じだったんだけど、狩野《かのう》さんのあの怒りっぷり……たまたまパートがオフの日だったから見れたんだけど——最後はアルトラに抱きしめられて、すっごい幸せそうに泣いてたんだよ」
「あそっか、メグは去年二組だっけ。リンちゃんと委員長がクラスメイトか」
「——あ、もしかして家燃えた子?」
「そうそう。家っていうか神社が燃えて——お父さんが亡くなったみたい。山火事にならなかったのはお父さんの犠牲のおかげだって、村の人たちは言ってるらしいよ」
結局話題は学校内の有名人たちの噂に落ち着き、私たちは昼休みを語り明かしたのだった。
日常にどんな事件があろう。この頃アルトラはレンを厳しい目で睨むようになっており、リンが例の一件を話したのだろうと理解したが——特に喧嘩が起こるわけでもなく、これといって大きな変化はない。
リンの精神状態もいつの間にか回復しており、いつも通り彼女は休み時間のたびに彼氏に抱き着いては、チワワか何かのように「待て」をされている。
私はといえば、週に一度レンの家に遊びに行き奏でられる程度だった。そんな状況で一ヶ月程度が経過し、話題は二週間後の修学旅行のもの一辺倒になっていたのだ。
「広島っていったら、やっぱお好み焼きだよね!」
昼休み、久々に部活がオフのメグがクラスに遊びに来ていた。私のような帰宅部にはオフの概念がいまいちわからないが、土日祝日も部活、平日も当然部活と学業をこなす彼女たちは、いったいいつ休んでいるのだろう。
「……粉ものあんまり好きじゃないんだよね」
隣の席に座る、同じく吹奏楽部のナトリも珍しく会話に参加し、話題の腰を折っていた。
「えー、私は好きだけどなぁ。たこ焼きとか……熱々の粉ものって良くない?」
「わかるー! セノは関西適性あるね!」
「……恵美《めぐみ》は何でも食べるじゃん」
「はは……この前なんか、わさびキャラメルの食レポしてたね……」
「……ゲテモノじゃん」
「えー、美味しかったよ? わさびキャラメル」
呟きサイトでゲテモノ——もとい、チャレンジ精神旺盛な食べ物をよく食レポしているメグのアカウントには、フォロワーが1000人もいる。
去年その活動でプチ炎上したようだったが——彼女は今でもブログを書いており、読者たちは彼女の悪食《あくじき》を楽しんでいるようだ。
「それいったら、セノだって——っと……」
メグは私の二つ後ろの席に座り、無意味に空を眺めているレン『本人』の存在を思い出し、すんでのところで方向転換をする。
「——ほら、リンちゃん。一年の始めの頃にいじめられてた子。あの子今、|アルトラ《ゲテモノ》と付き合ってるんでしょ?」
「……着地失敗してる」
「まあ……はは。あの二人を見てると、私はやっぱり羨ましいけどね」
ボクも、誰にも理解されないレンを好きになっている。きっとリンも、当時誰にも理解されていなかったアルトラを好きになったとき、似たようなこと気持ちを持っていたのだと思う。
自分にはないものを持っている誰か。それを求めて、理解したいと思ってしまうこの気持ちを。
「ナトリは好きな人とかいないの?」
「いない。恵美は?」
「えー、気になってる人はいるけどぉ……」
「あ、ごめん。やっぱ興味ない」
「えっ!? 恋話《コイバナ》する流れだったじゃん!?」
ナトリはまたしてもメグの話題の腰をへし折る。
腰痛待ったなしのメグは、次の話題に事欠き——女三人寄れば姦しいというが、井戸端会議よろしく噂の話に足を踏み入れ、囁くような小声で話し始めた。
「じゃあ——リンちゃん、不良にエロいことされてた説って、知ってる?」
——メグのブログを燃やした学校の裏掲示板で、一時期まことしやかに騒がれたことのある信憑性にかけるネタ。それを彼女は持ち出した。
「なんか、アルトラがボコボコにした不良ってのが、過去に女の子にめちゃくちゃする動画を売って警察にお世話になってたって話があってさ」
「……でもそれ、結局時系列的に被害者はリンちゃんじゃないって話だったでしょ。そもそもこの学校、この学年の子かも怪しいって」
私は友人のことを詮索する友人に対して少しだけ不快感を懐きながらも、その可能性を否定するために、当時のコメントで見かけた噂を投げ返した。
しかしメグは、ようやく軌道に乗りかけた話題に花を咲かせるために——無神経なことを言い始めた。
「いやでも、そんな噂の立つ子を選ぶって……アルトラも相当なゲテモノ食いじゃない?」
「——やめてそういう話! 不快なんだけど!」
唐突に立ち上がったナトリに、メグは驚いた顔をする。多分私もメグと同じ顔をしたが、ボクはナトリと同じ気持ちだった。
周りの注目を集めてしまい、メグはキョロキョロと辺りを見渡してから、ゆっくりと席に座りなおすナトリに謝罪をした。
「ご、ごめんてナトリ。そういえばそっか、ナトリも——いや、なんでもない」
「……ごめん。怒鳴っちゃった」
……時系列的に、被害者候補の一人がナトリなのだ。
とはいえその噂にはなんの根拠もない。実際被害者の情報は一切公開されておらず、加害者側のその話すら、噂でしかないのだから。
そんな噂で『汚れた女』扱いされるとなれば——当然ナトリは不快だろう。
「えっと……そうそう、アルトラはなんか、風紀委員長からも一年の頃に言い寄られてて、それでリンちゃんを選んだって噂でさ——その、なんでリンちゃんだったんだろうなーって」
「うんうん、委員長美人さんだもんね。リンちゃんも可愛いけど——美貌で言えば委員長の方に軍配上がるし」
「……誰それ。ってか、アルトラくんってモテるんだアレで」
ようやくナトリも話題に食いつき、会話が成立しそうだった。
「モテるっていうか——なんだろうね、多分依存されやすい体質なんじゃないかな? 去年委員長とクラス同じだったんだけど、狩野《かのう》さんのあの怒りっぷり……たまたまパートがオフの日だったから見れたんだけど——最後はアルトラに抱きしめられて、すっごい幸せそうに泣いてたんだよ」
「あそっか、メグは去年二組だっけ。リンちゃんと委員長がクラスメイトか」
「——あ、もしかして家燃えた子?」
「そうそう。家っていうか神社が燃えて——お父さんが亡くなったみたい。山火事にならなかったのはお父さんの犠牲のおかげだって、村の人たちは言ってるらしいよ」
結局話題は学校内の有名人たちの噂に落ち着き、私たちは昼休みを語り明かしたのだった。
第11話『セフレ』
第11話『セフレ』
愛とは何か。結局アルトラに恋をしていたのだという委員長は、その恋が破れて一年もしないうちに別の男と結ばれた。私はといえば好きになったばかりの人と、よく知らないうちから繋がり、自分でも今の関係を理解しきれていない。
——ボクはまだ愛が何なのか、本当の意味では理解出来ていないのだ。
今日の風紀委員会にもレンは結局参加しておらず、そんなことを考えているうちに会議は終了した。そして彼の不在に気付いた委員長が私のもとにやって来たのだった。
「……まあ、今日はサボりよね?」
「——多分。伝えてあったんだけど、なかなか聞いてくれなくて……」
力関係的に私がレンに何か口出しをできるはずがない。そんなことをすれば、彼はボクを捨てる——その確信がある。
「別にあなたが悪いわけじゃないけど……いちおう風紀委員なんだから、フリでも真面目にしなさいって言っておいてもらえる?」
「あ……はい。伝えときます……」
「かしこまらなくていいから……仕事多いし人気のある委員会じゃないから、参加したくない気持ちはわかるし……」
「おい委員長」
いつも通り、委員長の彼氏がツッコミを入れに来る——彼はアルトラの代わりの男なのだろうか。
「委員長、ちょっとプライベートな……相談? してもいい?」
「えっ? 別に、委員会終わったし、このあと予定ないからいいわよ」
「お、外したほうがいいか?」
彼氏はそう言って席を外そうとしたが、私は彼の名札を読んで呼び止める。
「えっと——坪島《つぼじま》くん? にも聞いてほしいです」
「ケイでいい。名字呼びは慣れてなくってな」
「私もスズって呼んで。瀬野《セノ》さん——セノでいい?」
「うん、セノで」
私たちは互いの呼び名を確認し、会話を始めた。
しかしいきなり本題に入るのも難しいので、取り敢えず馴れ初めから聞いていく。
「二人って、何がきっかけで付き合い始めたんですか?」
「んー……きっかけかぁ。ケイが轢かれたから?」
「——えっ、轢かれた?」
「私が体調不良のケイを家に送ろうとしてたときに、私が轢かれそうになったのを突き飛ばして、代わりに轢かれたの」
「いやぁ、ほんとよく生きてたよなぁ、僕」
「半年くらい意識不明だったんだっけ」
「四ヶ月半くらいじゃなかったか?」
「————えっ??」
……参考にならない。そんなのほとんど運命じゃないか。
「決定的だったのは、私のお父さんが亡くなったときね——私を抱きしめながら『幸せなんて僕が定義してやる!』とかなんとか、カッコつけちゃってねぇ」
「うわおまえ、やめろ! 覚えてんのかよ!!」
「一生忘れませんけどー??」
……中二病の延長線上の恋だろうか。実際そうか、彼らが付き合い始めたのは中二の頃だろう。
このままだとノロケ始めると思い、少し早いが本題を切り出す。
「えっと……その、二人は『愛って何』だと思いますか?」
こういうのを『哲学』と言うらしい。そんなものを自分一人でずっと考えていても仕方がないので、恋愛の先輩たちに聞くのが早いと思ったのだ。
すると、意外にもケイの方がその話題に食い付いたのだった。
「愛か。性愛、友愛、家族愛、隣人愛、種類は色々あるが——その本質は、見返りを求めない関係、じゃないか?」
「……見返りを求めない?」
「というより、求めずとも互いに支え合う関係と言うべきか。与えたから返せではなく、返されるとわかっているから与えられるもの——それが愛だと思う」
難しい。だがつまり、愛というのは——
「つまり、表現の『結果』としての、関係——?」
「そう言えると思う。そしてその表現も愛と言うのでは」
「——なるほど、状態と行動、どちらも同じ名前だから分かりづらいんだ」
「……? なんの話してるの?」
委員長、スズは私たちの『哲学』の定義にあまりついてきていない。
だが彼女は話の腰を折るのではなく、別の角度からの視点を提供した。
「愛って、どちらかと言ったら『受け入れること』じゃないの? ほら、あなたが好きな『運命愛』だって、そういう意味なんでしょ?」
「……なるほど。あまりにも多義的過ぎるな」
「受け入れること……」
与え、受け入れ、受け取るもの。そしてその関係を『愛』と呼ぶらしい。
「じゃあ——どれか一つでも、欠ければ?」
「欠け……? 確かに、場合によってはそれは関係としての『愛』を損なうだろうか」
「——でも、無理に与えろって催促されたなら、それを受け入れないことだってあるじゃない」
「その催促自体が『愛』の定義から外れないか? 見返りを求めないのが『愛』なんだから」
「あ、そっか」
——やはり、先人たちに聞くに限る。難しい定義が、なんとなく納得出来るレベルで構築されていく。
スズとケイはこういう『哲学』の思考にきっと向いているのだろう。
「見返りを求めず、与え合う関係——それが『愛』?」
「——それで僕は納得出来る」
「私も」
なるほど。ボクの疑問が、一つ解消に近付いた。
……薄々、気付いていた。そしてリンとアルトラの関係を垣間見て思い知った——自分とレンの関係がどういうものなのか。
——レンは、私を愛しているわけではないのではないか。
そして、それに身体を捧げ続ける私は——恋人の代用品。
つまり、ボクは——レンのセフレなのではないか?
愛とは何か。結局アルトラに恋をしていたのだという委員長は、その恋が破れて一年もしないうちに別の男と結ばれた。私はといえば好きになったばかりの人と、よく知らないうちから繋がり、自分でも今の関係を理解しきれていない。
——ボクはまだ愛が何なのか、本当の意味では理解出来ていないのだ。
今日の風紀委員会にもレンは結局参加しておらず、そんなことを考えているうちに会議は終了した。そして彼の不在に気付いた委員長が私のもとにやって来たのだった。
「……まあ、今日はサボりよね?」
「——多分。伝えてあったんだけど、なかなか聞いてくれなくて……」
力関係的に私がレンに何か口出しをできるはずがない。そんなことをすれば、彼はボクを捨てる——その確信がある。
「別にあなたが悪いわけじゃないけど……いちおう風紀委員なんだから、フリでも真面目にしなさいって言っておいてもらえる?」
「あ……はい。伝えときます……」
「かしこまらなくていいから……仕事多いし人気のある委員会じゃないから、参加したくない気持ちはわかるし……」
「おい委員長」
いつも通り、委員長の彼氏がツッコミを入れに来る——彼はアルトラの代わりの男なのだろうか。
「委員長、ちょっとプライベートな……相談? してもいい?」
「えっ? 別に、委員会終わったし、このあと予定ないからいいわよ」
「お、外したほうがいいか?」
彼氏はそう言って席を外そうとしたが、私は彼の名札を読んで呼び止める。
「えっと——坪島《つぼじま》くん? にも聞いてほしいです」
「ケイでいい。名字呼びは慣れてなくってな」
「私もスズって呼んで。瀬野《セノ》さん——セノでいい?」
「うん、セノで」
私たちは互いの呼び名を確認し、会話を始めた。
しかしいきなり本題に入るのも難しいので、取り敢えず馴れ初めから聞いていく。
「二人って、何がきっかけで付き合い始めたんですか?」
「んー……きっかけかぁ。ケイが轢かれたから?」
「——えっ、轢かれた?」
「私が体調不良のケイを家に送ろうとしてたときに、私が轢かれそうになったのを突き飛ばして、代わりに轢かれたの」
「いやぁ、ほんとよく生きてたよなぁ、僕」
「半年くらい意識不明だったんだっけ」
「四ヶ月半くらいじゃなかったか?」
「————えっ??」
……参考にならない。そんなのほとんど運命じゃないか。
「決定的だったのは、私のお父さんが亡くなったときね——私を抱きしめながら『幸せなんて僕が定義してやる!』とかなんとか、カッコつけちゃってねぇ」
「うわおまえ、やめろ! 覚えてんのかよ!!」
「一生忘れませんけどー??」
……中二病の延長線上の恋だろうか。実際そうか、彼らが付き合い始めたのは中二の頃だろう。
このままだとノロケ始めると思い、少し早いが本題を切り出す。
「えっと……その、二人は『愛って何』だと思いますか?」
こういうのを『哲学』と言うらしい。そんなものを自分一人でずっと考えていても仕方がないので、恋愛の先輩たちに聞くのが早いと思ったのだ。
すると、意外にもケイの方がその話題に食い付いたのだった。
「愛か。性愛、友愛、家族愛、隣人愛、種類は色々あるが——その本質は、見返りを求めない関係、じゃないか?」
「……見返りを求めない?」
「というより、求めずとも互いに支え合う関係と言うべきか。与えたから返せではなく、返されるとわかっているから与えられるもの——それが愛だと思う」
難しい。だがつまり、愛というのは——
「つまり、表現の『結果』としての、関係——?」
「そう言えると思う。そしてその表現も愛と言うのでは」
「——なるほど、状態と行動、どちらも同じ名前だから分かりづらいんだ」
「……? なんの話してるの?」
委員長、スズは私たちの『哲学』の定義にあまりついてきていない。
だが彼女は話の腰を折るのではなく、別の角度からの視点を提供した。
「愛って、どちらかと言ったら『受け入れること』じゃないの? ほら、あなたが好きな『運命愛』だって、そういう意味なんでしょ?」
「……なるほど。あまりにも多義的過ぎるな」
「受け入れること……」
与え、受け入れ、受け取るもの。そしてその関係を『愛』と呼ぶらしい。
「じゃあ——どれか一つでも、欠ければ?」
「欠け……? 確かに、場合によってはそれは関係としての『愛』を損なうだろうか」
「——でも、無理に与えろって催促されたなら、それを受け入れないことだってあるじゃない」
「その催促自体が『愛』の定義から外れないか? 見返りを求めないのが『愛』なんだから」
「あ、そっか」
——やはり、先人たちに聞くに限る。難しい定義が、なんとなく納得出来るレベルで構築されていく。
スズとケイはこういう『哲学』の思考にきっと向いているのだろう。
「見返りを求めず、与え合う関係——それが『愛』?」
「——それで僕は納得出来る」
「私も」
なるほど。ボクの疑問が、一つ解消に近付いた。
……薄々、気付いていた。そしてリンとアルトラの関係を垣間見て思い知った——自分とレンの関係がどういうものなのか。
——レンは、私を愛しているわけではないのではないか。
そして、それに身体を捧げ続ける私は——恋人の代用品。
つまり、ボクは——レンのセフレなのではないか?
第12話『C線上のフォルテシモ』
第12話『C線上のフォルテシモ』
恋愛のABCというものがあるのだという。恋人同士の関係の発展において、Aはハグ、Bはキス、そしてCはセックスなのだと。
誰の理論かなんて知らない。知らないけれど、私たちはなんとなくそれが理想の——普通の関係なのだと納得していた。
「やっぱりあの美人委員長もCまで行ってんのかなぁ。でもなんとなく、あそこはそういうことしなさそうなんだよなぁ……意外とB止まりだったりして?」
遅かれ早かれ、必ず恋愛は『C線上』にたどり着く。今、誰がどの段階にいるのか。それを予想するのは、ボクたちのような凡人、遠い世界を夢見る子供の遊びの一つだった。
「でも、そういう恋愛も羨ましいよねぇ。ゆっくり、確かめ合うように進んでいくって感じで……」
ボクは、キスも、ハグも、したことがない。
そこに繊細な弾きわけは存在せず、ボクは常に『|C線上《セックス》』でレンの気持ちを受け止める。
「|徐々に強く《クレッシェンド》から、|強く《フォルテ》って感じ——うん、やっぱり羨ましい!」
常に強く。常に激しく。常に、求められたとおりに。ボクは彼の楽器として存在する。
ピアノフォルテが、その弾きわけを行える楽器なのだとしたら。
ボクたちの関係。そしてボクという楽器の名前は——
「『C線上のフォルテシモ』」
それは愛ではないかもしれない。それは異常なことかもしれない。それでもボクは知りたい。レンを理解したい。そのための楽器でしかないのだとしても。彼が必要としてくれるのなら。
「……なにそれ?」
話を聞いているふりをしていた相手のメグは、ボクがぽつりと呟いた言葉に反応した。
「あ、いや……自分に楽器みたいな名前をつけるとしたら、って考えちゃって」
「……? 楽器なのに、なんか楽譜みたいな名前。それ、わかりやすく言えば『ドレミの狂騒』みたいな意味だからね?」
「あ……うん。やっぱ変なんだ」
「音の響きはカッコイイけどね! 『C線上のフォルテシモ』かぁ。真っ白で、力強いとも捉えられるからねぇ」
——真っ白。
混じりっ気のない、滑らかなあの白鍵の上で奏でられる音楽。それが『愛の代用品』なのだとしたら。
「ボクは多分、今、満たされてる」
夜な夜な寂しく己を慰めることもなくなり、恋人たちのあれこれを羨むこともなくなった。レンの美しい演奏を聴きながら、奏でられるこの日々を指してそう呼べるなら。
ボクは彼のオリジナルの楽器であり、音楽であり、恋や愛を超えた先にある、一つの形なのだ。
———————
ある日の放課後。私は音楽室に向かい、アルトラの横で合唱曲を歌っているリンを捕まえて相談をする。
「どうしたの? セノちゃん!」
「リンちゃん。その、聞いてほしいことがあって……」
吹奏楽部の部員たちとアルトラの演奏が不協和音が奏でるなか、私は近くのお手洗いまでリンを連れ出して、またしても『哲学』的な相談をする。
「愛のないえっちって——どう思う?」
ボクは一度だけ、リンとアルトラの交わりに加わった。
求め合い与え合う、その愛情表現を見て——ボクは大いに狂わされたのだった。
「……全く同じ質問を、ちょっと前に私もアルトラにしたんだよね」
「……えっ、そうなの?」
「うん——痛みを乗り越えるためだけに、アルトラの身体を求め続ける私のことをどう思うかって……」
なんとなく察した。
噂は本当だったのだろう——つまり、リンは不良たちの性的ないじめの被害者だったと——彼女は自白したも同然だった。
「アルトラは、求められるのも嬉しいんだから、いくらでも求めてくれればいいって言ってた」
「それであんな滅茶苦茶なことしてるんだ……彼、死にそうだったけど……」
「あはは……。だからね、私はアルトラにそんなに遠慮してないよ。だって、セノちゃんから見たら異常かもしれないけど、私たちにとってはあれが一番幸せなんだから」
周りの目なんて、二人だけの関係に関係ない。
言われてみれば当たり前だ。そんなもの、下着の色を指定する校則並みに無意味で——本来的に言えば、人様の下着の色を気にして確認しようとするほうが異常なのだから。
「ううん。異常じゃない。リンちゃんとアルトラくんの愛は——ボクのあこがれ。ああ在りたいと思えるような、幸せな関係だと思った」
「あはっ。セノちゃんも彼氏さんといい関係なんだね。求めて、求められて、愛し合って——互いの『欠落』を埋め合う。誰が何を言おうと私は幸せだし、満たされてるから」
「——うん。痛いけど、幸せ。ボクにもそれが分かるようになったよ」
「たとえ、えっちがただの欲望だとしても、お互いを愛し合えるのなら、それは愛のないえっちなんかじゃないよ」
——お互いに愛し合えるのなら。
果たしてレンは、ボクを愛しているのか。分からない。
それでもボクは、この『C線上のフォルテシモ』を愛しているのだ。
恋愛のABCというものがあるのだという。恋人同士の関係の発展において、Aはハグ、Bはキス、そしてCはセックスなのだと。
誰の理論かなんて知らない。知らないけれど、私たちはなんとなくそれが理想の——普通の関係なのだと納得していた。
「やっぱりあの美人委員長もCまで行ってんのかなぁ。でもなんとなく、あそこはそういうことしなさそうなんだよなぁ……意外とB止まりだったりして?」
遅かれ早かれ、必ず恋愛は『C線上』にたどり着く。今、誰がどの段階にいるのか。それを予想するのは、ボクたちのような凡人、遠い世界を夢見る子供の遊びの一つだった。
「でも、そういう恋愛も羨ましいよねぇ。ゆっくり、確かめ合うように進んでいくって感じで……」
ボクは、キスも、ハグも、したことがない。
そこに繊細な弾きわけは存在せず、ボクは常に『|C線上《セックス》』でレンの気持ちを受け止める。
「|徐々に強く《クレッシェンド》から、|強く《フォルテ》って感じ——うん、やっぱり羨ましい!」
常に強く。常に激しく。常に、求められたとおりに。ボクは彼の楽器として存在する。
ピアノフォルテが、その弾きわけを行える楽器なのだとしたら。
ボクたちの関係。そしてボクという楽器の名前は——
「『C線上のフォルテシモ』」
それは愛ではないかもしれない。それは異常なことかもしれない。それでもボクは知りたい。レンを理解したい。そのための楽器でしかないのだとしても。彼が必要としてくれるのなら。
「……なにそれ?」
話を聞いているふりをしていた相手のメグは、ボクがぽつりと呟いた言葉に反応した。
「あ、いや……自分に楽器みたいな名前をつけるとしたら、って考えちゃって」
「……? 楽器なのに、なんか楽譜みたいな名前。それ、わかりやすく言えば『ドレミの狂騒』みたいな意味だからね?」
「あ……うん。やっぱ変なんだ」
「音の響きはカッコイイけどね! 『C線上のフォルテシモ』かぁ。真っ白で、力強いとも捉えられるからねぇ」
——真っ白。
混じりっ気のない、滑らかなあの白鍵の上で奏でられる音楽。それが『愛の代用品』なのだとしたら。
「ボクは多分、今、満たされてる」
夜な夜な寂しく己を慰めることもなくなり、恋人たちのあれこれを羨むこともなくなった。レンの美しい演奏を聴きながら、奏でられるこの日々を指してそう呼べるなら。
ボクは彼のオリジナルの楽器であり、音楽であり、恋や愛を超えた先にある、一つの形なのだ。
———————
ある日の放課後。私は音楽室に向かい、アルトラの横で合唱曲を歌っているリンを捕まえて相談をする。
「どうしたの? セノちゃん!」
「リンちゃん。その、聞いてほしいことがあって……」
吹奏楽部の部員たちとアルトラの演奏が不協和音が奏でるなか、私は近くのお手洗いまでリンを連れ出して、またしても『哲学』的な相談をする。
「愛のないえっちって——どう思う?」
ボクは一度だけ、リンとアルトラの交わりに加わった。
求め合い与え合う、その愛情表現を見て——ボクは大いに狂わされたのだった。
「……全く同じ質問を、ちょっと前に私もアルトラにしたんだよね」
「……えっ、そうなの?」
「うん——痛みを乗り越えるためだけに、アルトラの身体を求め続ける私のことをどう思うかって……」
なんとなく察した。
噂は本当だったのだろう——つまり、リンは不良たちの性的ないじめの被害者だったと——彼女は自白したも同然だった。
「アルトラは、求められるのも嬉しいんだから、いくらでも求めてくれればいいって言ってた」
「それであんな滅茶苦茶なことしてるんだ……彼、死にそうだったけど……」
「あはは……。だからね、私はアルトラにそんなに遠慮してないよ。だって、セノちゃんから見たら異常かもしれないけど、私たちにとってはあれが一番幸せなんだから」
周りの目なんて、二人だけの関係に関係ない。
言われてみれば当たり前だ。そんなもの、下着の色を指定する校則並みに無意味で——本来的に言えば、人様の下着の色を気にして確認しようとするほうが異常なのだから。
「ううん。異常じゃない。リンちゃんとアルトラくんの愛は——ボクのあこがれ。ああ在りたいと思えるような、幸せな関係だと思った」
「あはっ。セノちゃんも彼氏さんといい関係なんだね。求めて、求められて、愛し合って——互いの『欠落』を埋め合う。誰が何を言おうと私は幸せだし、満たされてるから」
「——うん。痛いけど、幸せ。ボクにもそれが分かるようになったよ」
「たとえ、えっちがただの欲望だとしても、お互いを愛し合えるのなら、それは愛のないえっちなんかじゃないよ」
——お互いに愛し合えるのなら。
果たしてレンは、ボクを愛しているのか。分からない。
それでもボクは、この『C線上のフォルテシモ』を愛しているのだ。
【第二章】修学旅行
第13話『戦争』
第二章『修学旅行』
第13話『戦争』
人生とは選択の連続だ。それはつまり、どの道を辿ってどの地獄へ向かい死んでゆくのかを決める旅路である。人間はそこに意味を求めたり、理由を探して生きている。
しかし私にとって、そういうものは心の底からどうでも良かった。
かつて酷いいじめを受けていた頃。私はそのことを両親に伝えて助けを求めるという選択をした。そうすればより良い道に進めると思ったから。
その道の先で両親は離婚し、私は母に「産まなければよかった」とまで言われ、いじめっ子たちの標的はかつて親友だったリンへと移り——彼女が私の代わりに受けた報復の動画を何度も見せつけられた。
「アルトラぁ……っ、すきぃっ……」
「あーもう、恥ずかしいって……!」
「あはは。満更でもなさそうだよ?」
修学旅行に向かうバスの中、隣に座っているセノは通路を挟んで反対側でイチャつくカップルに絡んでいた。
小学生以来の友人グループ——低身長の女子三人で『おちびちゃんズ』と呼ばれた私たちは、中学三年生になって奇跡的にクラスメイトとして集うことになったのだ。
寝ぼけ眼《まなこ》のリンは、大切な人を見つけたらしい。かつて私の前では女王のように振る舞っていた彼女が、ここまで子供っぽい振る舞いを見せるのは——どうにも、胸が痛んで仕方がなかった。
——何故なら、私は幼い頃からリンのことを恋愛対象として見ていたから。
当然、私はこのことを誰かに明かしたり、気取られるようなことはしてこなかった。もし仮に私の『同性愛《ソドミー》』が露見すれば——間違いなく彼女はそれを気持ち悪がるから。
しかも私はリンに恨まれているのだ。彼女が酷いいじめを受けていた頃、私は助けを求める彼女を見捨てて——何もしないことを選択し、絶望へと叩き落としたのだから。
噂によれば、私の女王様は|アルトラ《ヒーロー》を他の女と取り合って我が物にしたのだという。その際に彼女が相手の女の罪悪感を煽って奪い取ったのは、想像に難くない。
昔からリンは自己中心的なのだ。遊園地で一人家族から離れて駆け出したときにも、彼女を追いかけて共にはぐれた私が「大人たちをちゃんと見てなかったから」と言って怒り、不機嫌な顔をするような人だった。
「みんな見てるから……こら、リン!」
「えへっ……いいもーん。みんなに見せよ?」
「——ちょっと、流石にストップ、リンちゃん!!」
人に自分の優れた点を見せ付けて『マウント』を取り、相手が不快になるのにも構わず自分を誇示する。そんな彼女を好きになる人がいるとは思わなかった——まさか私以外に、現れるとは思わなかったのだ。
———————
そしてバスは目的地である広島の原爆ドームへと到着し、私たちは戦争の歴史を語り継ぐためのグロテスクな資料館へと放り込まれた。
戦争の話は曽祖父が生きていた頃に聞かされたことがあった。ソビエト連邦からやってきたという私の曽祖父一家は、戦時中肩身の狭い思いをしながら逃げるように洞穴《ほらあな》に住み着き、ときに空襲のあとの焼け野原から芋を掘り起こしたりして食い繋いだそうだ。
私は溶解したブリキの弁当箱や蒸発した人体の影の残るコンクリート塀の展示を見ながら、隣で怯えるセノを無視して歩を進めた。
そしてリンの彼氏、展示をまじまじと見つめているアルトラ——本性の分からない古い知り合いに対して、歴史の話を教える。
「国家総力戦。国民全員が武器を手に、戦場に向かう戦争だったんだよ」
「……そんなの、もうなんのための戦争だか分かんないな」
「——国家が一番に守るべきものが国民じゃなくなったから、こうなったんだって。国民を守るための組織を守るために、国家が国民を総動員したの」
私を軽く睨んだリンは、負けじとアルトラに曽祖父から聞いた話をした。
……だが、歴史の点数なら私の方が優れている。
「——ABCD包囲網。満州国を含めて巨大な経済圏を築いていた帝国は、その血液として油を必要としていた。でも、それを止められてしまって——戦争をしなければ、戦争をするより多くの人が不幸になり、飢餓と貧困で死んだかもしれなかったの」
「でも、それは人を殺していい理由にはならない——」
「なる。対価《コスト》が打撃《ダメージ》を下回るのなら。人にしろ国家にしろ、そうなれば合理的な手段を取らざるを得ない」
平和主義的な思想を持つようになったのは良いが、本来の彼女は——むしろ他人を傷付けることを躊躇しない利己主義者だったのだ。
帝国主義《ファシズム》的な思想を持っておきながら、それを自分の本質と結び付けられない学年順位三位のリンは、社会科が苦手なのだ。
「そうなったとき、選択肢なんてない。そこで選択を誤るような人は——生き残れない」
「……でも。私はそれでも、最後まで人の正義を信じたい」
「それで。リンちゃんは運良くアルトラくんに出会えただけ。もし会えなかったなら、今頃どうなってたの?」
「それは…………わかんないけど」
リンは露骨に不快そうな顔をして、まるで「出会わなかった可能性など存在しないのだから、考える意味がない」とでも言いたげに私を見た。
しかし彼女は分かっていない。
その選択が何を呼び起こすのかを。
「悪いのは戦争そのものじゃない。始めざるを得なくなったきっかけ。その選択肢。いくら悲しんで、いくら祈ったとしても、選択を間違えれば同じことが起きる」
「……でも、選択を間違えた先の未来を想像できれば、きっと違う選択ができる」
「いや。最初から、選択肢なんてないのが一番だよ。ねえ、アルトラくん。それで突き進んだ先が奈落でも、選択肢がなければ、きっと後悔しなくて済む——そうでしょう?」
学年二位と三位の会話に唐突に巻き込まれた古い知り合いは、目をぱちぱちさせながら私の親戚の方を見て——ようやく私のことを思い出したようだった。
「————もしかして、奏穂《かなほ》ちゃん?」
「思い出した? 昔、ピアノ教室でいっしょだったでしょ」
「……いや、雰囲気変わりすぎだろ! 誰が分かるか!」
「色々あってね——あなたたちといっしょ。学年順位表で『名取《ナトリ》 奏穂』って、名前見たことない?」
「知らねぇよ、どんな字書くかとか!」
私とアルトラの会話を聞いたリンは「信じられない」といった顔をして、小さく首を振った。
「うそ、面識あったんだ……」
「うん。世間って狭いね……」
二人は息ぴったりでため息を吐《つ》き、互いに目を見合わせていた。
「それで、どう思う? あなた『哲学』好きだったでしょ」
「好きっていうか……まあ、実際『自由刑』なんて言葉があるくらいには、人は選択肢を嫌うらしいね」
「ふーん。『自由刑』ねぇ……私は『畜群《ちくぐん》道徳』を答えてほしかったんだけど」
「ああ……なんだっけそれ……クッソ、ケイが居ればな……」
「ん? 呼んだか?」
アルトラが頭を掻きむしる後ろで、他のクラスの生徒が声を上げた——なんと、学年一位の天才少年である坪島《つぼじま》 慧《ケイ》までもがこの群れに合流したのだ。
「前に教えただろ。『畜群道徳』は社会の正しさに従えっていう考え。僕らが『にせもの』って呼んでたものの正体だ。んで、どっちかといえば君が言いたいのは『奴隷道徳』だな。自由を放棄し、選択を否定して、そうあることこそ正しいと信じる道徳だ」
「そう? へぇ、あなたも『哲学』好きなんだ」
「いや……僕の『哲学』なんて大半がケイ由来だからな?」
——そういえばアルトラとケイは同じ小学校出身だったか。つまりアルトラの幼い頃からの『哲学』好きは、天才・ケイの影響ということなのだろう。
「えっとぉ……この人たちは、何を話してるの?」
「わかんないわよ……ねえ、ケイ。ここ怖いから早く出たいんだけど……」
ケイの後ろには風紀委員長の狩野《かのう》 珠洲《スズ》も控えており、追い付いてきたセノと薄暗い展示室で肩を寄せあっていたのだった。
第13話『戦争』
人生とは選択の連続だ。それはつまり、どの道を辿ってどの地獄へ向かい死んでゆくのかを決める旅路である。人間はそこに意味を求めたり、理由を探して生きている。
しかし私にとって、そういうものは心の底からどうでも良かった。
かつて酷いいじめを受けていた頃。私はそのことを両親に伝えて助けを求めるという選択をした。そうすればより良い道に進めると思ったから。
その道の先で両親は離婚し、私は母に「産まなければよかった」とまで言われ、いじめっ子たちの標的はかつて親友だったリンへと移り——彼女が私の代わりに受けた報復の動画を何度も見せつけられた。
「アルトラぁ……っ、すきぃっ……」
「あーもう、恥ずかしいって……!」
「あはは。満更でもなさそうだよ?」
修学旅行に向かうバスの中、隣に座っているセノは通路を挟んで反対側でイチャつくカップルに絡んでいた。
小学生以来の友人グループ——低身長の女子三人で『おちびちゃんズ』と呼ばれた私たちは、中学三年生になって奇跡的にクラスメイトとして集うことになったのだ。
寝ぼけ眼《まなこ》のリンは、大切な人を見つけたらしい。かつて私の前では女王のように振る舞っていた彼女が、ここまで子供っぽい振る舞いを見せるのは——どうにも、胸が痛んで仕方がなかった。
——何故なら、私は幼い頃からリンのことを恋愛対象として見ていたから。
当然、私はこのことを誰かに明かしたり、気取られるようなことはしてこなかった。もし仮に私の『同性愛《ソドミー》』が露見すれば——間違いなく彼女はそれを気持ち悪がるから。
しかも私はリンに恨まれているのだ。彼女が酷いいじめを受けていた頃、私は助けを求める彼女を見捨てて——何もしないことを選択し、絶望へと叩き落としたのだから。
噂によれば、私の女王様は|アルトラ《ヒーロー》を他の女と取り合って我が物にしたのだという。その際に彼女が相手の女の罪悪感を煽って奪い取ったのは、想像に難くない。
昔からリンは自己中心的なのだ。遊園地で一人家族から離れて駆け出したときにも、彼女を追いかけて共にはぐれた私が「大人たちをちゃんと見てなかったから」と言って怒り、不機嫌な顔をするような人だった。
「みんな見てるから……こら、リン!」
「えへっ……いいもーん。みんなに見せよ?」
「——ちょっと、流石にストップ、リンちゃん!!」
人に自分の優れた点を見せ付けて『マウント』を取り、相手が不快になるのにも構わず自分を誇示する。そんな彼女を好きになる人がいるとは思わなかった——まさか私以外に、現れるとは思わなかったのだ。
———————
そしてバスは目的地である広島の原爆ドームへと到着し、私たちは戦争の歴史を語り継ぐためのグロテスクな資料館へと放り込まれた。
戦争の話は曽祖父が生きていた頃に聞かされたことがあった。ソビエト連邦からやってきたという私の曽祖父一家は、戦時中肩身の狭い思いをしながら逃げるように洞穴《ほらあな》に住み着き、ときに空襲のあとの焼け野原から芋を掘り起こしたりして食い繋いだそうだ。
私は溶解したブリキの弁当箱や蒸発した人体の影の残るコンクリート塀の展示を見ながら、隣で怯えるセノを無視して歩を進めた。
そしてリンの彼氏、展示をまじまじと見つめているアルトラ——本性の分からない古い知り合いに対して、歴史の話を教える。
「国家総力戦。国民全員が武器を手に、戦場に向かう戦争だったんだよ」
「……そんなの、もうなんのための戦争だか分かんないな」
「——国家が一番に守るべきものが国民じゃなくなったから、こうなったんだって。国民を守るための組織を守るために、国家が国民を総動員したの」
私を軽く睨んだリンは、負けじとアルトラに曽祖父から聞いた話をした。
……だが、歴史の点数なら私の方が優れている。
「——ABCD包囲網。満州国を含めて巨大な経済圏を築いていた帝国は、その血液として油を必要としていた。でも、それを止められてしまって——戦争をしなければ、戦争をするより多くの人が不幸になり、飢餓と貧困で死んだかもしれなかったの」
「でも、それは人を殺していい理由にはならない——」
「なる。対価《コスト》が打撃《ダメージ》を下回るのなら。人にしろ国家にしろ、そうなれば合理的な手段を取らざるを得ない」
平和主義的な思想を持つようになったのは良いが、本来の彼女は——むしろ他人を傷付けることを躊躇しない利己主義者だったのだ。
帝国主義《ファシズム》的な思想を持っておきながら、それを自分の本質と結び付けられない学年順位三位のリンは、社会科が苦手なのだ。
「そうなったとき、選択肢なんてない。そこで選択を誤るような人は——生き残れない」
「……でも。私はそれでも、最後まで人の正義を信じたい」
「それで。リンちゃんは運良くアルトラくんに出会えただけ。もし会えなかったなら、今頃どうなってたの?」
「それは…………わかんないけど」
リンは露骨に不快そうな顔をして、まるで「出会わなかった可能性など存在しないのだから、考える意味がない」とでも言いたげに私を見た。
しかし彼女は分かっていない。
その選択が何を呼び起こすのかを。
「悪いのは戦争そのものじゃない。始めざるを得なくなったきっかけ。その選択肢。いくら悲しんで、いくら祈ったとしても、選択を間違えれば同じことが起きる」
「……でも、選択を間違えた先の未来を想像できれば、きっと違う選択ができる」
「いや。最初から、選択肢なんてないのが一番だよ。ねえ、アルトラくん。それで突き進んだ先が奈落でも、選択肢がなければ、きっと後悔しなくて済む——そうでしょう?」
学年二位と三位の会話に唐突に巻き込まれた古い知り合いは、目をぱちぱちさせながら私の親戚の方を見て——ようやく私のことを思い出したようだった。
「————もしかして、奏穂《かなほ》ちゃん?」
「思い出した? 昔、ピアノ教室でいっしょだったでしょ」
「……いや、雰囲気変わりすぎだろ! 誰が分かるか!」
「色々あってね——あなたたちといっしょ。学年順位表で『名取《ナトリ》 奏穂』って、名前見たことない?」
「知らねぇよ、どんな字書くかとか!」
私とアルトラの会話を聞いたリンは「信じられない」といった顔をして、小さく首を振った。
「うそ、面識あったんだ……」
「うん。世間って狭いね……」
二人は息ぴったりでため息を吐《つ》き、互いに目を見合わせていた。
「それで、どう思う? あなた『哲学』好きだったでしょ」
「好きっていうか……まあ、実際『自由刑』なんて言葉があるくらいには、人は選択肢を嫌うらしいね」
「ふーん。『自由刑』ねぇ……私は『畜群《ちくぐん》道徳』を答えてほしかったんだけど」
「ああ……なんだっけそれ……クッソ、ケイが居ればな……」
「ん? 呼んだか?」
アルトラが頭を掻きむしる後ろで、他のクラスの生徒が声を上げた——なんと、学年一位の天才少年である坪島《つぼじま》 慧《ケイ》までもがこの群れに合流したのだ。
「前に教えただろ。『畜群道徳』は社会の正しさに従えっていう考え。僕らが『にせもの』って呼んでたものの正体だ。んで、どっちかといえば君が言いたいのは『奴隷道徳』だな。自由を放棄し、選択を否定して、そうあることこそ正しいと信じる道徳だ」
「そう? へぇ、あなたも『哲学』好きなんだ」
「いや……僕の『哲学』なんて大半がケイ由来だからな?」
——そういえばアルトラとケイは同じ小学校出身だったか。つまりアルトラの幼い頃からの『哲学』好きは、天才・ケイの影響ということなのだろう。
「えっとぉ……この人たちは、何を話してるの?」
「わかんないわよ……ねえ、ケイ。ここ怖いから早く出たいんだけど……」
ケイの後ろには風紀委員長の狩野《かのう》 珠洲《スズ》も控えており、追い付いてきたセノと薄暗い展示室で肩を寄せあっていたのだった。
第13.5話『幕間』『遠縁』
第13.5話『幕間』
『遠縁』
名取《ナトリ》奏穂《かなほ》。私は正直、彼女があまり好きではない。決して敵だとは思っていないが——
元々、ナトリとは幼稚園に入る前からの友人だった。小学校に上がったばかりの頃、既に周りと身長差が開き始めていた私たち二人は『おちびちゃんズ』として大人たちに可愛がられていた。そんな私の幼少期の記憶は——大半が彼女だったのだ。
姉妹のように扱われてきた私たちは、小学四年生の頃までは誰もが認める大親友だった。その頃の友人の一人がセノで、彼女は五、六年生のクラスが違ったのであまり関わりがなくなっていたが——ナトリは違う。明白に、私を捨てたのだ。
私が不良たちにいじめられていた小学五年生のあの日。助けを求める私の目から、彼女は恐怖とともに目を逸らした。巻き込まれてなるものかと——リンはどうなってもいいから、自分はいじめないでくれと。
私はそんな彼女を——許せなかったのだ。
「ナトリちゃん。私は選んだの。最適解としての正解じゃなくて、苦労してでも進む平和な道を」
「————そっか」
私は二度と彼女を『カナちゃん』とは呼ばない。彼女自身、周りにナトリと呼ばせているのだから。そう呼んでやればいい。これが私なりの小さな復讐なのだから。
「えっと、なんって呼べばいい……? 昔みたいに奏穂《かなほ》ちゃん?」
「やめて。私、自分の名前嫌いだから」
「——そうだったのか、ごめん。ナトリ」
アルトラの謝罪を軽く首を振って受け入れ、ナトリはケイに話しかける。
「それで——ケイくん。あなたがアルトラくんの『哲学』の先生なの?」
「先生っていうか……こいつが滅茶苦茶興味持って聞いてくるから教えてるだけで……」
「じゃあ先生で合ってるじゃない……」
セノと身を寄せ合うスズが後ろからツッコミを入れる。
二人の様子を見たアルトラが歩き出したことで六人ともゆっくりと歩き出し、最早《もはや》展示もそっちのけで話し始める。
「ちなみに、ケイくんは『戦争』についてはどう思うの?」
「ん? 多分アルトラと同意見だぞ」
「……アルトラくんの意見知らないんだけど」
二人に目を向けられたアルトラは、自分の中で出していた結論——私の理想とは相反する、世界の構造的欠陥を述べる。
「……国家は『リヴァイアサン』であると同時に、国家間では『ベヒモス』だ。自分の権利を守るためには、戦争も——手段たり得ると思う」
「つまり国家は国民の全権を持ち、それゆえに他国との交渉においては自らの権利を絶対に手放せないものだと。うん、同意見だ」
「——へぇ。『哲学』ってそういう応用効くんだ」
「何言ってんだ、それを納得するための『哲学』だ。これはこういう理屈でこうだ、反論あるか。っていうのが『哲学』ベースの議論だろ」
ケイ曰く、万学の祖。何かを考えるための『納得出来る何か』を探し始めた——疑問を持ったところに『哲学』があったのだと。
数学や科学はその証明、歴史や文化はその変遷でしかないのだと、ケイに語られたことがあった。
「だから、僕らにとって最も確からしい事実は、戦争なんて望めど望まねど、構造的に起きることを避けられない事象だってことだ」
「……だってさ、リンちゃん。世界は理想だけで動いてない——だから戦争は起きるし、喧嘩だって起きてしまう」
「——それは、私たちがお互いを理解きれていないから。だから今の時代は、差別だとか偏見をなくしてお互いを知る努力をしてるんでしょ」
「あはは、リンちゃんがそれ言うんだ…………いや、ごめんなさい。私は言われて当然のことをしたから——リンちゃんは悪くないんだけど……」
アルトラは眉をひそめてナトリの話を聞いたあとで、心配そうに私の顔を見た——過去に何かあったのか、と。
「——聞きたい? アルトラくん。私とリンちゃんの間に何があったか」
「……話さなくていいよ。今なら、私もあれが『仕方なかった』ってのは理解出来るから」
それでも、理屈と感情は一致しないが。かつての親友が私を切り捨てたという絶望は——到底、克服できるものではない。
少しの沈黙。歩く六人のバラバラな歩調と空調の音に、展示の見学が終わった生徒たちの喧騒が響く。そんな中、アルトラはナトリに対して私とは無関係の疑問を投げた。
「……ねえ、かな——ナトリ。なんでナトリはピアノ弾くの辞めちゃったんだよ」
そうだ。ナトリはかつてピアノを弾いていた。彼女の母が元ピアニスト志望の天才だったこともあり、彼女の家にはアップライトピアノが置いてあった。
「私がママの代わりにピアニストになる!」などと意気込んでいた幼い頃の彼女は、本当に天才的で——大人でも弾くのが難しいとされる曲を、自分のものにして弾いてのけたのだ。
そんな彼女は、アルトラの目を見ながらゆっくりと語る。
「——両親が離婚して、ピアノが嫌いになったの。奏穂《かなほ》って名前もお母さんが付けたものだから、名乗りたくない」
彼女の両親は、私がいじめられ始めてすぐの頃に離婚している。今思えば、家庭環境も彼女の変化に関係しているのだろう。
きっと私が大好きだった『カナちゃん』は、そのときに死んでしまったのだ。
「離婚————そっか、それは——辛かったな……」
アルトラはナトリに異様に共感を示す。彼も小学一年生の頃に両親が離婚しており、苦しんだのだと——出会ったばかりの頃に聞かされたことがある。
彼のその様子に、ナトリも安易な共感ではないと理解したのか、少し安心したように目を閉じ首を振った。
———————
薄暗くおどろおどろしい資料館を抜け、明るく賑やかなホールへと出る。ケイとスズはそれぞれ自分のクラスの列へと戻っており、出席番号が隣の私とアルトラは話を続けていた。
「アルトラがナトリちゃんと面識あるなんて、ほんと世間の狭さを思い知ったよ……」
「僕も。なんか、僕らっていつ会っててもおかしくなかったんだなって」
「なんなら多分、コンクールに遊びに行ったときに私たち会ってるんじゃない……?」
「流石に……覚えてないなぁ……」
アルトラは笑いながら私の手を握っている。
幼い日の記憶を辿れば、確かに彼の影があったような、なかったような——覚えているはずもなかった。
そしてアルトラは、彼女が語ろうとしなかった私たちの過去について、私に訊ねた。
「ナトリと仲良かったの?」
「うん——私たち、実は遠縁の親戚で……ひいお祖父ちゃんがいっしょなんだよね。ロシア人なんだけど……」
「……へっ? リンって海外の血入ってるんだ」
「母方のお祖父ちゃんがロシア人だよ。……って言っても、背の低い人だったんだけどね。私が小学生の頃に亡くなっちゃってるし」
「道理で可愛いわけだ……クオーターだったのか」
とはいえ私が引いている血は、低身長と色白なところくらいだが。顔立ちはどちらかといえば——嫌いな父譲りなので、あまり関係がない気もする。
「……ナトリちゃんとは、ほとんど姉妹みたいに扱われてきたんだ。その……彼女のお母さんが私の親族だったんだけど、離婚してからどこかに消えちゃって……それから、家ぐるみの付き合いもないの」
「それで、仲が悪くなった——って話?」
「——聞きたい?」
アルトラは小さくこくりと頷いて、私の過去の話——泣いたあの日の裏側を知りたがった。
「……ナトリちゃんはあの日、私が助けを求めていても、応えてくれなくって……それで、私が逆恨みっていうか……裏切られたって思ってるだけなんだけど」
「——そっか、同級生だったんだもんね」
「うん、クラスメイトだった。私がいじめられていたときに、ナトリちゃんは——関わるのを嫌がって、目を逸らして、私を見捨てて——」
仕方がない。仕方がないのだ。別に私は彼女にも巻き込まれてほしいと願ったわけではないのだから。仕方がないのだ。
それでも——あの日の私の絶望は、決してナトリを許そうとはしない。なんで私なんだ。なんで私が汚れて、なんでナトリは助かって——なんで、私はそれを恨んでいるんだ。
ずるい。ずるいずるいずるい。私もそっちが良かった。私もそっちに立ちたかった。なんで。そんなことを思うのは最低なのに。なんで。
「リン……?」
「……ごめん。私は出来れば、ナトリちゃんと関わりたくない。私の汚れた部分があの子を許さないから——私も自分が許せなくなる」
「そっ——か。分かった……」
ナトリだって辛かったはずだと、理解しようとする自分ごと憎い。そしてナトリを許そうとしない自分も憎い。
だったらもう、忘れてしまうしかない。どう関わろうと、どう許そうと、私は——苦しむのだから。
「……やっぱり、戦争ってなくならないんだね」
この憎しみを正当化して、彼女を徹底的に悪として打ちのめすことを自分が許せたなら。それほど楽なことはない。だから『|自己正当化《We Are Right》』はなくならない——
「……そうかも、しれないね。だって、誰かを理解して、許そうとするのって——殴り合って打ちのめすより、何十倍も痛くて、大変だから」
相手を理解しないことが、ときには自分の一番の救いになる。アルトラはそんな悲しい現実を直視して、寂しそうに目を閉じたのだった。
———————
戦争は悲劇で、食べるものも満足になく、空襲警報に怯えて防空壕に飛び込んで——そんな陰鬱な講話が終わると、アルトラは退屈そうに私語を挟んだ。
「……うちのひいお祖父ちゃん、日本軍として従軍してたんだよ。それで、まだ生きてた頃に近隣の学校の講話に呼ばれて——戦争の楽しかった記憶を語って、滅茶苦茶怒られたらしい」
「——なんか、アルトラのひいお祖父ちゃんなんだなって感じする」
「だから、なんっていうか……戦争の中にも楽しさはあったんだって教えられてるから、ああいう悲劇一辺倒の語り聞いてると、作り物だなって思わされちゃう。まあ、楽しい部分があるとより生々しいんだけど……」
「手口がホラーのそれ寄りじゃん」
……嘘かホントか、ロシア人のひいお祖父ちゃんはひいお祖母ちゃんと一緒に空襲を利用して焼き芋を作った、なんて話をしていた。当時日本にいた白人は肩身が狭かったらしいが、それでもそれなりに楽しみはあったらしいので——確かに、どんな場所にもリアルな楽しみというのはあるものだろう。
平和学習という名目ではあるが、修学旅行である以上、学校側もそうお堅いことは言わない。30分程度の戦後史の講話が行われた後、すぐに自由散策——先に行動班ごとの行き先は事前に決めてあるのだが、子どもたちだけでの未知の大冒険が始まったのだった。
『遠縁』
名取《ナトリ》奏穂《かなほ》。私は正直、彼女があまり好きではない。決して敵だとは思っていないが——
元々、ナトリとは幼稚園に入る前からの友人だった。小学校に上がったばかりの頃、既に周りと身長差が開き始めていた私たち二人は『おちびちゃんズ』として大人たちに可愛がられていた。そんな私の幼少期の記憶は——大半が彼女だったのだ。
姉妹のように扱われてきた私たちは、小学四年生の頃までは誰もが認める大親友だった。その頃の友人の一人がセノで、彼女は五、六年生のクラスが違ったのであまり関わりがなくなっていたが——ナトリは違う。明白に、私を捨てたのだ。
私が不良たちにいじめられていた小学五年生のあの日。助けを求める私の目から、彼女は恐怖とともに目を逸らした。巻き込まれてなるものかと——リンはどうなってもいいから、自分はいじめないでくれと。
私はそんな彼女を——許せなかったのだ。
「ナトリちゃん。私は選んだの。最適解としての正解じゃなくて、苦労してでも進む平和な道を」
「————そっか」
私は二度と彼女を『カナちゃん』とは呼ばない。彼女自身、周りにナトリと呼ばせているのだから。そう呼んでやればいい。これが私なりの小さな復讐なのだから。
「えっと、なんって呼べばいい……? 昔みたいに奏穂《かなほ》ちゃん?」
「やめて。私、自分の名前嫌いだから」
「——そうだったのか、ごめん。ナトリ」
アルトラの謝罪を軽く首を振って受け入れ、ナトリはケイに話しかける。
「それで——ケイくん。あなたがアルトラくんの『哲学』の先生なの?」
「先生っていうか……こいつが滅茶苦茶興味持って聞いてくるから教えてるだけで……」
「じゃあ先生で合ってるじゃない……」
セノと身を寄せ合うスズが後ろからツッコミを入れる。
二人の様子を見たアルトラが歩き出したことで六人ともゆっくりと歩き出し、最早《もはや》展示もそっちのけで話し始める。
「ちなみに、ケイくんは『戦争』についてはどう思うの?」
「ん? 多分アルトラと同意見だぞ」
「……アルトラくんの意見知らないんだけど」
二人に目を向けられたアルトラは、自分の中で出していた結論——私の理想とは相反する、世界の構造的欠陥を述べる。
「……国家は『リヴァイアサン』であると同時に、国家間では『ベヒモス』だ。自分の権利を守るためには、戦争も——手段たり得ると思う」
「つまり国家は国民の全権を持ち、それゆえに他国との交渉においては自らの権利を絶対に手放せないものだと。うん、同意見だ」
「——へぇ。『哲学』ってそういう応用効くんだ」
「何言ってんだ、それを納得するための『哲学』だ。これはこういう理屈でこうだ、反論あるか。っていうのが『哲学』ベースの議論だろ」
ケイ曰く、万学の祖。何かを考えるための『納得出来る何か』を探し始めた——疑問を持ったところに『哲学』があったのだと。
数学や科学はその証明、歴史や文化はその変遷でしかないのだと、ケイに語られたことがあった。
「だから、僕らにとって最も確からしい事実は、戦争なんて望めど望まねど、構造的に起きることを避けられない事象だってことだ」
「……だってさ、リンちゃん。世界は理想だけで動いてない——だから戦争は起きるし、喧嘩だって起きてしまう」
「——それは、私たちがお互いを理解きれていないから。だから今の時代は、差別だとか偏見をなくしてお互いを知る努力をしてるんでしょ」
「あはは、リンちゃんがそれ言うんだ…………いや、ごめんなさい。私は言われて当然のことをしたから——リンちゃんは悪くないんだけど……」
アルトラは眉をひそめてナトリの話を聞いたあとで、心配そうに私の顔を見た——過去に何かあったのか、と。
「——聞きたい? アルトラくん。私とリンちゃんの間に何があったか」
「……話さなくていいよ。今なら、私もあれが『仕方なかった』ってのは理解出来るから」
それでも、理屈と感情は一致しないが。かつての親友が私を切り捨てたという絶望は——到底、克服できるものではない。
少しの沈黙。歩く六人のバラバラな歩調と空調の音に、展示の見学が終わった生徒たちの喧騒が響く。そんな中、アルトラはナトリに対して私とは無関係の疑問を投げた。
「……ねえ、かな——ナトリ。なんでナトリはピアノ弾くの辞めちゃったんだよ」
そうだ。ナトリはかつてピアノを弾いていた。彼女の母が元ピアニスト志望の天才だったこともあり、彼女の家にはアップライトピアノが置いてあった。
「私がママの代わりにピアニストになる!」などと意気込んでいた幼い頃の彼女は、本当に天才的で——大人でも弾くのが難しいとされる曲を、自分のものにして弾いてのけたのだ。
そんな彼女は、アルトラの目を見ながらゆっくりと語る。
「——両親が離婚して、ピアノが嫌いになったの。奏穂《かなほ》って名前もお母さんが付けたものだから、名乗りたくない」
彼女の両親は、私がいじめられ始めてすぐの頃に離婚している。今思えば、家庭環境も彼女の変化に関係しているのだろう。
きっと私が大好きだった『カナちゃん』は、そのときに死んでしまったのだ。
「離婚————そっか、それは——辛かったな……」
アルトラはナトリに異様に共感を示す。彼も小学一年生の頃に両親が離婚しており、苦しんだのだと——出会ったばかりの頃に聞かされたことがある。
彼のその様子に、ナトリも安易な共感ではないと理解したのか、少し安心したように目を閉じ首を振った。
———————
薄暗くおどろおどろしい資料館を抜け、明るく賑やかなホールへと出る。ケイとスズはそれぞれ自分のクラスの列へと戻っており、出席番号が隣の私とアルトラは話を続けていた。
「アルトラがナトリちゃんと面識あるなんて、ほんと世間の狭さを思い知ったよ……」
「僕も。なんか、僕らっていつ会っててもおかしくなかったんだなって」
「なんなら多分、コンクールに遊びに行ったときに私たち会ってるんじゃない……?」
「流石に……覚えてないなぁ……」
アルトラは笑いながら私の手を握っている。
幼い日の記憶を辿れば、確かに彼の影があったような、なかったような——覚えているはずもなかった。
そしてアルトラは、彼女が語ろうとしなかった私たちの過去について、私に訊ねた。
「ナトリと仲良かったの?」
「うん——私たち、実は遠縁の親戚で……ひいお祖父ちゃんがいっしょなんだよね。ロシア人なんだけど……」
「……へっ? リンって海外の血入ってるんだ」
「母方のお祖父ちゃんがロシア人だよ。……って言っても、背の低い人だったんだけどね。私が小学生の頃に亡くなっちゃってるし」
「道理で可愛いわけだ……クオーターだったのか」
とはいえ私が引いている血は、低身長と色白なところくらいだが。顔立ちはどちらかといえば——嫌いな父譲りなので、あまり関係がない気もする。
「……ナトリちゃんとは、ほとんど姉妹みたいに扱われてきたんだ。その……彼女のお母さんが私の親族だったんだけど、離婚してからどこかに消えちゃって……それから、家ぐるみの付き合いもないの」
「それで、仲が悪くなった——って話?」
「——聞きたい?」
アルトラは小さくこくりと頷いて、私の過去の話——泣いたあの日の裏側を知りたがった。
「……ナトリちゃんはあの日、私が助けを求めていても、応えてくれなくって……それで、私が逆恨みっていうか……裏切られたって思ってるだけなんだけど」
「——そっか、同級生だったんだもんね」
「うん、クラスメイトだった。私がいじめられていたときに、ナトリちゃんは——関わるのを嫌がって、目を逸らして、私を見捨てて——」
仕方がない。仕方がないのだ。別に私は彼女にも巻き込まれてほしいと願ったわけではないのだから。仕方がないのだ。
それでも——あの日の私の絶望は、決してナトリを許そうとはしない。なんで私なんだ。なんで私が汚れて、なんでナトリは助かって——なんで、私はそれを恨んでいるんだ。
ずるい。ずるいずるいずるい。私もそっちが良かった。私もそっちに立ちたかった。なんで。そんなことを思うのは最低なのに。なんで。
「リン……?」
「……ごめん。私は出来れば、ナトリちゃんと関わりたくない。私の汚れた部分があの子を許さないから——私も自分が許せなくなる」
「そっ——か。分かった……」
ナトリだって辛かったはずだと、理解しようとする自分ごと憎い。そしてナトリを許そうとしない自分も憎い。
だったらもう、忘れてしまうしかない。どう関わろうと、どう許そうと、私は——苦しむのだから。
「……やっぱり、戦争ってなくならないんだね」
この憎しみを正当化して、彼女を徹底的に悪として打ちのめすことを自分が許せたなら。それほど楽なことはない。だから『|自己正当化《We Are Right》』はなくならない——
「……そうかも、しれないね。だって、誰かを理解して、許そうとするのって——殴り合って打ちのめすより、何十倍も痛くて、大変だから」
相手を理解しないことが、ときには自分の一番の救いになる。アルトラはそんな悲しい現実を直視して、寂しそうに目を閉じたのだった。
———————
戦争は悲劇で、食べるものも満足になく、空襲警報に怯えて防空壕に飛び込んで——そんな陰鬱な講話が終わると、アルトラは退屈そうに私語を挟んだ。
「……うちのひいお祖父ちゃん、日本軍として従軍してたんだよ。それで、まだ生きてた頃に近隣の学校の講話に呼ばれて——戦争の楽しかった記憶を語って、滅茶苦茶怒られたらしい」
「——なんか、アルトラのひいお祖父ちゃんなんだなって感じする」
「だから、なんっていうか……戦争の中にも楽しさはあったんだって教えられてるから、ああいう悲劇一辺倒の語り聞いてると、作り物だなって思わされちゃう。まあ、楽しい部分があるとより生々しいんだけど……」
「手口がホラーのそれ寄りじゃん」
……嘘かホントか、ロシア人のひいお祖父ちゃんはひいお祖母ちゃんと一緒に空襲を利用して焼き芋を作った、なんて話をしていた。当時日本にいた白人は肩身が狭かったらしいが、それでもそれなりに楽しみはあったらしいので——確かに、どんな場所にもリアルな楽しみというのはあるものだろう。
平和学習という名目ではあるが、修学旅行である以上、学校側もそうお堅いことは言わない。30分程度の戦後史の講話が行われた後、すぐに自由散策——先に行動班ごとの行き先は事前に決めてあるのだが、子どもたちだけでの未知の大冒険が始まったのだった。
第14話『食事』
第14話『食事』
修学旅行の自由行動が始まり、最初に昼食を取ることにしていた私たちは、学校指定の数カ所のうちから焼き鳥屋に来ていた。広島といえば、メグの言うとおりお好み焼き屋のイメージだったのだが——地元では焼き鳥も有名らしい。
「えっ、なんで? 焼き鳥屋なのに魚泳いでるよ!?」
「ははは、一石二鳥ってね。この辺りの焼き鳥屋は昔から生け簀があるんだよ。呉《くれ》の方の文化だけどね」
出迎えてくれた店員がボクのそんな驚愕に答えてくれた。
「わぁ、ウマヅラハギだ……」
「お嬢ちゃん、お目が高い! この辺では『ハゲ』って呼ばれてて、人気の魚だよ!」
水槽を眺めるリンは、不細工な顔と名前をした魚を眺めながら呟いていた。それにしても……ハゲだのボケだの、魚というのはどうしてこうもひどい名前をつけられるのだろうか。
「今日のご飯にも出るからね。楽しみにしてて!」
学校側から予約という形で食事の内容まで決められているため、残念ながらメニューを選ぶ楽しみはないが——海鮮と焼き鳥を同時に楽しませて貰うことは出来そうだ。
三組一班二班合同行動班、計十二人は座敷に案内され、各々《おのおの》好きな順番で座るのだった。
そして料理が届けられる。机に二つ置かれたエメラルドの大皿。大根のツマの山を大葉が深い緑に染め、きれいに捌かれた『ハゲ』の白っぽい刺し身が盛り合わせられている。
その隣には小鉢に入った『キモ』が置かれていて——まさか、これも食べられるのだろうか。
「この『キモ』を小皿に入れて、醤油と混ぜて刺し身を食べるんだ。肝醤油って言って、この辺りの酒飲みが好む食べ方だよ」
「あー、確かに日本酒が美味しいイメージあるな広島って……」
店員の説明にアルトラはそんなことを言う——未成年だろお前。
だが、たしかにこういうゲテ……不思議な食べ物は、日本酒を飲む人が好むイメージがあった。多分、二つ隣のテーブルで何かを叫んでいるメグは将来酒飲みになるだろう。
続いて届いた肉と米——ネギマにもも肉、あとこれは——セセリだろうか、確か首の肉だ。焼き鳥屋っぽくありつつ、子供でも楽しめるものをピックアップしてくれている。
食欲をそそる表面の焦げ目に、思わずよだれを飲み込んだ。ボクは焼き鳥が大好きなのだ。
「——セノ。俺、生魚無理なんだ。肝醤油なんて、気色悪い」
「そっか……じゃあ、私が魚多めに貰うから、その分焼き鳥貰っていいよ」
「ああ」
レンはそう言いながらさっそく——全員で「いただきます」をする前から、串に手を出した。
「あ……えっと、じゃあ、いただきます」
それを見ていたリンは、すぐに手を合わせて食事の開始を告げる。周りもそれに続いた。
「これ、空いた串入れる筒。そっちにもあるから、真ん中に寄せてやって」
「あ、これ? ちょっとレンくん、後ろごめん」
反対側の端に座るアルトラは慣れた様子で串入れを食材から少し離れたところに置く。それに習い、私もレンの後ろを通って串入れを取った。
「……あんま美味くないな」
「ちょっと、そういうこと言わないでよ……みんな食べてるんだから」
「塩辛い。酒飲むと思ってんのか、考えなしだな」
——どっちが考えなしだ。と文句を言いたくなったが、私はレンに対してそんなことを言える立場にはない。
実を言えば、私もそんなに魚が好きなわけではないが——仕方なく手を伸ばし、ひと切れ取って、醤油につける。そしてそのまま米でバウンドさせ、口に運んだ。
「……! なにこれ、美味しい!」
「……? 刺し身なんかがか?」
「うん、レンくんもひと切れだけ試してみてよ! うちの方とは全然違う」
私たちは海無し県に住んでおり、普段あまり刺し身を食べることはない。それでもたまに刺し身を食べることはあり、スーパーで買ってきた魚にはどうしても生臭いイメージがあったのに——これは、まったく生臭くないのだ。
ボクの勧めに乗ったレンも箸を刺し身に進め、醤油をベッタリとつけて、米に醤油を塗りながら食べる。
「……美味いな」
「でしょ!?」
「うるさい、静かに食わせろ」
レンに注意されてしまったが——ボクははじめて彼に共感してもらえたような気がして、嬉しかった。
「肝醤油チョーうまいよ!! マジで試してみ!!」
二つ隣のテーブルから店中に響くような大声で叫ぶメグ——あの子は静かにできないのか。だが、彼女のようなゲテモノ喰らい……もとい食通がそこまで言うのであれば、試してみようという気にもなる。
「……うっま。なんだこれ、魔法か? リンも一口試してみなよ」
先に肝醤油を試していた非ゲテモノ食いのアルトラからもお墨付きが出て、私も醤油に少しだけ『キモ』を入れてみた。
そして、恐る恐る、肝醤油を試してみる。
「……美味しいっ! ねえ、レンもっ! ボクのお醤油使っていいからっ!」
「なんだよもう……」
「ねえ、ひと切れだけでもっ!」
「……っとうしいなぁ」
そう言いつつもレンは刺し身を再び取り、ボクの手元の肝醤油をベッタリとつけて食べてくれた。
「……なるほど」
余程気に入ったのか、レンはもう一度刺し身を肝醤油につけ、食べる。食事を通して、ボクは彼と同じ景色を見ているのだ。
それがただひたすらに嬉しくて——ボクは食事も忘れて無邪気な彼の横顔を見ていたのだった。
修学旅行の自由行動が始まり、最初に昼食を取ることにしていた私たちは、学校指定の数カ所のうちから焼き鳥屋に来ていた。広島といえば、メグの言うとおりお好み焼き屋のイメージだったのだが——地元では焼き鳥も有名らしい。
「えっ、なんで? 焼き鳥屋なのに魚泳いでるよ!?」
「ははは、一石二鳥ってね。この辺りの焼き鳥屋は昔から生け簀があるんだよ。呉《くれ》の方の文化だけどね」
出迎えてくれた店員がボクのそんな驚愕に答えてくれた。
「わぁ、ウマヅラハギだ……」
「お嬢ちゃん、お目が高い! この辺では『ハゲ』って呼ばれてて、人気の魚だよ!」
水槽を眺めるリンは、不細工な顔と名前をした魚を眺めながら呟いていた。それにしても……ハゲだのボケだの、魚というのはどうしてこうもひどい名前をつけられるのだろうか。
「今日のご飯にも出るからね。楽しみにしてて!」
学校側から予約という形で食事の内容まで決められているため、残念ながらメニューを選ぶ楽しみはないが——海鮮と焼き鳥を同時に楽しませて貰うことは出来そうだ。
三組一班二班合同行動班、計十二人は座敷に案内され、各々《おのおの》好きな順番で座るのだった。
そして料理が届けられる。机に二つ置かれたエメラルドの大皿。大根のツマの山を大葉が深い緑に染め、きれいに捌かれた『ハゲ』の白っぽい刺し身が盛り合わせられている。
その隣には小鉢に入った『キモ』が置かれていて——まさか、これも食べられるのだろうか。
「この『キモ』を小皿に入れて、醤油と混ぜて刺し身を食べるんだ。肝醤油って言って、この辺りの酒飲みが好む食べ方だよ」
「あー、確かに日本酒が美味しいイメージあるな広島って……」
店員の説明にアルトラはそんなことを言う——未成年だろお前。
だが、たしかにこういうゲテ……不思議な食べ物は、日本酒を飲む人が好むイメージがあった。多分、二つ隣のテーブルで何かを叫んでいるメグは将来酒飲みになるだろう。
続いて届いた肉と米——ネギマにもも肉、あとこれは——セセリだろうか、確か首の肉だ。焼き鳥屋っぽくありつつ、子供でも楽しめるものをピックアップしてくれている。
食欲をそそる表面の焦げ目に、思わずよだれを飲み込んだ。ボクは焼き鳥が大好きなのだ。
「——セノ。俺、生魚無理なんだ。肝醤油なんて、気色悪い」
「そっか……じゃあ、私が魚多めに貰うから、その分焼き鳥貰っていいよ」
「ああ」
レンはそう言いながらさっそく——全員で「いただきます」をする前から、串に手を出した。
「あ……えっと、じゃあ、いただきます」
それを見ていたリンは、すぐに手を合わせて食事の開始を告げる。周りもそれに続いた。
「これ、空いた串入れる筒。そっちにもあるから、真ん中に寄せてやって」
「あ、これ? ちょっとレンくん、後ろごめん」
反対側の端に座るアルトラは慣れた様子で串入れを食材から少し離れたところに置く。それに習い、私もレンの後ろを通って串入れを取った。
「……あんま美味くないな」
「ちょっと、そういうこと言わないでよ……みんな食べてるんだから」
「塩辛い。酒飲むと思ってんのか、考えなしだな」
——どっちが考えなしだ。と文句を言いたくなったが、私はレンに対してそんなことを言える立場にはない。
実を言えば、私もそんなに魚が好きなわけではないが——仕方なく手を伸ばし、ひと切れ取って、醤油につける。そしてそのまま米でバウンドさせ、口に運んだ。
「……! なにこれ、美味しい!」
「……? 刺し身なんかがか?」
「うん、レンくんもひと切れだけ試してみてよ! うちの方とは全然違う」
私たちは海無し県に住んでおり、普段あまり刺し身を食べることはない。それでもたまに刺し身を食べることはあり、スーパーで買ってきた魚にはどうしても生臭いイメージがあったのに——これは、まったく生臭くないのだ。
ボクの勧めに乗ったレンも箸を刺し身に進め、醤油をベッタリとつけて、米に醤油を塗りながら食べる。
「……美味いな」
「でしょ!?」
「うるさい、静かに食わせろ」
レンに注意されてしまったが——ボクははじめて彼に共感してもらえたような気がして、嬉しかった。
「肝醤油チョーうまいよ!! マジで試してみ!!」
二つ隣のテーブルから店中に響くような大声で叫ぶメグ——あの子は静かにできないのか。だが、彼女のようなゲテモノ喰らい……もとい食通がそこまで言うのであれば、試してみようという気にもなる。
「……うっま。なんだこれ、魔法か? リンも一口試してみなよ」
先に肝醤油を試していた非ゲテモノ食いのアルトラからもお墨付きが出て、私も醤油に少しだけ『キモ』を入れてみた。
そして、恐る恐る、肝醤油を試してみる。
「……美味しいっ! ねえ、レンもっ! ボクのお醤油使っていいからっ!」
「なんだよもう……」
「ねえ、ひと切れだけでもっ!」
「……っとうしいなぁ」
そう言いつつもレンは刺し身を再び取り、ボクの手元の肝醤油をベッタリとつけて食べてくれた。
「……なるほど」
余程気に入ったのか、レンはもう一度刺し身を肝醤油につけ、食べる。食事を通して、ボクは彼と同じ景色を見ているのだ。
それがただひたすらに嬉しくて——ボクは食事も忘れて無邪気な彼の横顔を見ていたのだった。
第15話『零戦』
第15話『零戦』
学校から支給された一日乗車券を利用し、道中で観光をしつつ、目的地であった呉《くれ》市の大和《やまと》ミュージアムへと向かう。そこで私はリンのグループに着いていき、原爆資料館と同じように自由散策をしていた。
「リンリンリン! 見てこれ、零戦《ぜろせん》だよ!」
「わ、わぁ、すごいね……?」
「なんか、アルトラって意外とこういうカッコイイ系の好きよね……」
リンとスズは一人暴走した男子中学生のテンションの高さについて行きかねている様子だ。私とケイの社会科満点組は彼らの後ろから、貴重な歴史的資料を眺めていた。
——立派なプロペラが頭に一つ、それを支える左右の羽。羽の底面は白く塗られ、立派な日の丸が描かれている。これは遠くからでも目立ちそうだ。
「零戦はね、当時最強の機体で、航続距離も巡航速度も旋回力もピカイチで、油がなかったからうまく動かなかったけど、ちゃんとした油を入れたらアメリカの『グラマン』より性能高かったんだって!」
「へ、へぇ、そうなんだ……?」
それにしても、あのリンが振り回されているとは——私の知る彼女は、どちらかというと周りを巻き込んで振り回す娘だったので新鮮だった。
最も不思議なのは、表情や態度に感情のよく出る彼女が全く興味のない話題を遮ろうとしないことだった——ただ単に、アルトラの熱量に押されているだけかもしれないが。
そんな彼の話に乗っかったのは、意外にも普段物静かなケイだった。
「でも、これが完成したから日中戦争に踏み切ったって見方もあるぞ。そのあまりにも天才的な設計で、調子に乗ったんだとかなんとか」
「……歴史にまで詳しいんだ、ケイくん」
この手の天才は必要なものに知識が偏っているはずだという先入観があったが、彼はどうも違うらしい。「歴史なんて学んで何になるんだ」とでもいうかと思っていたのに。
——それはまあ、私もか。歴史の勉強は、勉強の息抜きに調度良いのだ。
「三菱・|零式戦闘機《零戦》。艦上戦闘機からフロート機、果ては自爆特攻にまで用いられた機体。私も小説で読んだから知ってるよ」
「おお、奏穂《かなほ》ちゃんも読んだの!?」
「ナトリ。ほら、せっかくの平和学習でしょ? 予習してきたの」
「さっすが! え、じゃあじゃあ戦艦|大和《ヤマト》についても語れたり……!?」
「うん。造船のための金属徴収から、イスカンダルへの旅路まで」
「マジで!?」
……しまった、語り過ぎたか。アルトラが想像以上の喰い付きを見せるせいで、リンがとんでもない顔をし始めた。
アルトラは昔から阿呆《アホ》なのだ。リンが彼の何に魅力を見出したのかは分からないが——私の目には彼が|りーちゃん《・・・・・》の隣に立つにふさわしい男には見えない。
「……うわっ」
「んー、どうしたのケイくん?」
「いや…………なんでもない」
「——リン、すごい顔してるわよあんた」
「あっ、ごめん……ちょっと考えごとしてた」
「——殺人計画か?」
どうやらリンは私を排除するための計画を立てていたらしい——それもそうか。世界で一番好きな人と、世界で一番嫌いな人が意気投合するなんて、あのりーちゃんが許すはずがないのだ。
「あはは、まさか」
「アルトラ、リンが構ってほしそうよ」
「あ、ごめんごめん。ちょっとテンション上がっちゃって……」
アルトラがリンの元に駆け寄ると、彼女は人目も気にせず彼に思い切り抱き着く。
クラスメイトたちにとってはその光景は最早《もはや》日常茶飯事であり、特に気にすることもないのだが——通りかかる他のクラスの生徒たちは何か見てはならないものを見てしまったかのような反応をしていた。
——誰がどう見たって、小さくて可愛いリンと、デカくて別にイケメンでもないアルトラとでは、不釣り合いなのだ。
そもそも、りーちゃんに男なんて——似合わないのだ。
「——ごめんね、|玩具《アルトラくん》を取っちゃって」
「ううん。絶対に取れないから大丈夫」
気に入ったものにとにかく執着する性格は、変わっていないらしい。そんな在りし日の彼女の影を見た私は——また少しだけ、胸の痛みを覚えた。
泣いたあの日からすべてが変わってもなお、残り続けていたこの気持ちに気付いてしまったから——
「——零戦《れいせん》っていうか、冷戦だなこりゃ」
私たちの会話を聞いたケイが、ボソッとそう言ったのが聞こえたのだった。
———————
男子たちが戦艦大和1/10モデルの主砲を見てしょうもない下ネタを大声で言い合っているなか、ボクはレンに着いて回っていた。
ボクが超大型戦艦のカッコイイ主砲を見上げていると、レンにも男の子らしい感性があるのか、彼も同じように眺めてくれた。
「——レンくん、意外とこういうの好きなの?」
「別に。くだらない無駄遣いの歴史に興味なんてない」
「あはは……でもほら、凄くない? この10倍の大きさで、弾なんか撃ったら——すごい音だろうね。フォルテシモっていうんでしょ、そういう大きい音」
「——別に、|FF《フォルテシモ》が一番強いわけじゃない。|FFF《フォルテシシモ》だとか、音を強くしろっていう記号は、その気になれば際限なく作れる。下品なだけだが」
……レンも下品なんて感性を持っているのか。彼の世界は興味があるものかないものだけで出来ていると思っていたので、少し意外だった。
——それならば。彼は私たちのこの関係をどう思っているのだろう。リンやメグ、かつての私が間違っていると思った、身体だけの関係を。
「……レンくんは『C線上のフォルテシモ』って言葉、どう思う?」
「なんだそれ」
「いや、どんなイメージが湧くのかなって思って」
興味本位だった。私が定義した、ボクとレンの関係——音楽用語から借用したその言葉の響きから、彼が何を思うのか、気になったのだ。
レンは数秒だけ考えたあとでボクの目を見て、すぐに口を開いた。
「——お前か?」
「……!? わ、わかるの!?」
まさか一発で言い当てられるとは思っていなかった。レンが、ボクのことをそこまで理解しているとは——
「まっさらな楽譜に、そのまま『ト音記号』を入れただけの『C線上』で、強く弾かれることだけを望む楽譜。まさにお前じゃないか」
「——うん。まあ意味はよく分かってないんだけど……自分を表す言葉——あるいは楽器の名前として、どうかなって」
「……ピアノフォルテに対してのフォルテシモか。いいセンスだ」
——レンに、褒められた?
言いようのない高揚感。かけがえのない肯定感。憧れの人に認められたという、最大の幸福。旅先の空気感が、尚更ボクを非日常へと駆り立てる。
ご飯のときもそうだった、レンは少しずつ、少しずつではあるが、ボクを認め始めているのだ。
嬉しい——ただ少し褒められただけなのに、ボクはあまりの嬉しさに、自分を見失ってしまったのだろう。
それでボクは——今まで聞けずにいたことに対して、答えを欲してしまったのだ。
「ね、ねぇ、レンくん——」
「なんだ」
「レンくんはさ、私のこと——」
途端に脳に走る危険信号。聞いてはならない。聞けば必ず後悔する。聞かずにいれば、私はまだこの関係を続けられる。彼に肯定された『C線上のフォルテシモ』を——続けられる。
止まれ。止まれ。やめろ。聞くな。まだ私は、彼に恋していたい。対等な、人間として、彼のそばに居たいのだ——
それなのにボクは、答えを欲してしまった。
「ボクのこと——好き?」
瀬戸内から吹き込む潮風になでられる砲塔は、塗装が剥がれ錆びつくことを恐れ、触れられることを拒む。
だからこの髪を揺らした風は、ただ私を痛めつけるだけだった。
「何を言ってるんだ、お前は?」
まるで——いや、明白に。
彼は私の質問が理解不能で的外れであると、切り捨てた。
「お前は、楽器だろう。僕に奏でられるべき『C線上のフォルテシモ』でしかない。そして——」
心地よいほどに剥がれ落ちた塗装。気持ちよいほどに剥き出しになった錆。
ゾクゾクと身体中を駆ける異常な悦びが、ボクの猜疑《さいぎ》心をくすぐり、胸を靄《もや》で満たしていく。
「俺は、楽器を好きになったりしない」
ああ。
ボクは、その言葉が聞きたかったのだ。
学校から支給された一日乗車券を利用し、道中で観光をしつつ、目的地であった呉《くれ》市の大和《やまと》ミュージアムへと向かう。そこで私はリンのグループに着いていき、原爆資料館と同じように自由散策をしていた。
「リンリンリン! 見てこれ、零戦《ぜろせん》だよ!」
「わ、わぁ、すごいね……?」
「なんか、アルトラって意外とこういうカッコイイ系の好きよね……」
リンとスズは一人暴走した男子中学生のテンションの高さについて行きかねている様子だ。私とケイの社会科満点組は彼らの後ろから、貴重な歴史的資料を眺めていた。
——立派なプロペラが頭に一つ、それを支える左右の羽。羽の底面は白く塗られ、立派な日の丸が描かれている。これは遠くからでも目立ちそうだ。
「零戦はね、当時最強の機体で、航続距離も巡航速度も旋回力もピカイチで、油がなかったからうまく動かなかったけど、ちゃんとした油を入れたらアメリカの『グラマン』より性能高かったんだって!」
「へ、へぇ、そうなんだ……?」
それにしても、あのリンが振り回されているとは——私の知る彼女は、どちらかというと周りを巻き込んで振り回す娘だったので新鮮だった。
最も不思議なのは、表情や態度に感情のよく出る彼女が全く興味のない話題を遮ろうとしないことだった——ただ単に、アルトラの熱量に押されているだけかもしれないが。
そんな彼の話に乗っかったのは、意外にも普段物静かなケイだった。
「でも、これが完成したから日中戦争に踏み切ったって見方もあるぞ。そのあまりにも天才的な設計で、調子に乗ったんだとかなんとか」
「……歴史にまで詳しいんだ、ケイくん」
この手の天才は必要なものに知識が偏っているはずだという先入観があったが、彼はどうも違うらしい。「歴史なんて学んで何になるんだ」とでもいうかと思っていたのに。
——それはまあ、私もか。歴史の勉強は、勉強の息抜きに調度良いのだ。
「三菱・|零式戦闘機《零戦》。艦上戦闘機からフロート機、果ては自爆特攻にまで用いられた機体。私も小説で読んだから知ってるよ」
「おお、奏穂《かなほ》ちゃんも読んだの!?」
「ナトリ。ほら、せっかくの平和学習でしょ? 予習してきたの」
「さっすが! え、じゃあじゃあ戦艦|大和《ヤマト》についても語れたり……!?」
「うん。造船のための金属徴収から、イスカンダルへの旅路まで」
「マジで!?」
……しまった、語り過ぎたか。アルトラが想像以上の喰い付きを見せるせいで、リンがとんでもない顔をし始めた。
アルトラは昔から阿呆《アホ》なのだ。リンが彼の何に魅力を見出したのかは分からないが——私の目には彼が|りーちゃん《・・・・・》の隣に立つにふさわしい男には見えない。
「……うわっ」
「んー、どうしたのケイくん?」
「いや…………なんでもない」
「——リン、すごい顔してるわよあんた」
「あっ、ごめん……ちょっと考えごとしてた」
「——殺人計画か?」
どうやらリンは私を排除するための計画を立てていたらしい——それもそうか。世界で一番好きな人と、世界で一番嫌いな人が意気投合するなんて、あのりーちゃんが許すはずがないのだ。
「あはは、まさか」
「アルトラ、リンが構ってほしそうよ」
「あ、ごめんごめん。ちょっとテンション上がっちゃって……」
アルトラがリンの元に駆け寄ると、彼女は人目も気にせず彼に思い切り抱き着く。
クラスメイトたちにとってはその光景は最早《もはや》日常茶飯事であり、特に気にすることもないのだが——通りかかる他のクラスの生徒たちは何か見てはならないものを見てしまったかのような反応をしていた。
——誰がどう見たって、小さくて可愛いリンと、デカくて別にイケメンでもないアルトラとでは、不釣り合いなのだ。
そもそも、りーちゃんに男なんて——似合わないのだ。
「——ごめんね、|玩具《アルトラくん》を取っちゃって」
「ううん。絶対に取れないから大丈夫」
気に入ったものにとにかく執着する性格は、変わっていないらしい。そんな在りし日の彼女の影を見た私は——また少しだけ、胸の痛みを覚えた。
泣いたあの日からすべてが変わってもなお、残り続けていたこの気持ちに気付いてしまったから——
「——零戦《れいせん》っていうか、冷戦だなこりゃ」
私たちの会話を聞いたケイが、ボソッとそう言ったのが聞こえたのだった。
———————
男子たちが戦艦大和1/10モデルの主砲を見てしょうもない下ネタを大声で言い合っているなか、ボクはレンに着いて回っていた。
ボクが超大型戦艦のカッコイイ主砲を見上げていると、レンにも男の子らしい感性があるのか、彼も同じように眺めてくれた。
「——レンくん、意外とこういうの好きなの?」
「別に。くだらない無駄遣いの歴史に興味なんてない」
「あはは……でもほら、凄くない? この10倍の大きさで、弾なんか撃ったら——すごい音だろうね。フォルテシモっていうんでしょ、そういう大きい音」
「——別に、|FF《フォルテシモ》が一番強いわけじゃない。|FFF《フォルテシシモ》だとか、音を強くしろっていう記号は、その気になれば際限なく作れる。下品なだけだが」
……レンも下品なんて感性を持っているのか。彼の世界は興味があるものかないものだけで出来ていると思っていたので、少し意外だった。
——それならば。彼は私たちのこの関係をどう思っているのだろう。リンやメグ、かつての私が間違っていると思った、身体だけの関係を。
「……レンくんは『C線上のフォルテシモ』って言葉、どう思う?」
「なんだそれ」
「いや、どんなイメージが湧くのかなって思って」
興味本位だった。私が定義した、ボクとレンの関係——音楽用語から借用したその言葉の響きから、彼が何を思うのか、気になったのだ。
レンは数秒だけ考えたあとでボクの目を見て、すぐに口を開いた。
「——お前か?」
「……!? わ、わかるの!?」
まさか一発で言い当てられるとは思っていなかった。レンが、ボクのことをそこまで理解しているとは——
「まっさらな楽譜に、そのまま『ト音記号』を入れただけの『C線上』で、強く弾かれることだけを望む楽譜。まさにお前じゃないか」
「——うん。まあ意味はよく分かってないんだけど……自分を表す言葉——あるいは楽器の名前として、どうかなって」
「……ピアノフォルテに対してのフォルテシモか。いいセンスだ」
——レンに、褒められた?
言いようのない高揚感。かけがえのない肯定感。憧れの人に認められたという、最大の幸福。旅先の空気感が、尚更ボクを非日常へと駆り立てる。
ご飯のときもそうだった、レンは少しずつ、少しずつではあるが、ボクを認め始めているのだ。
嬉しい——ただ少し褒められただけなのに、ボクはあまりの嬉しさに、自分を見失ってしまったのだろう。
それでボクは——今まで聞けずにいたことに対して、答えを欲してしまったのだ。
「ね、ねぇ、レンくん——」
「なんだ」
「レンくんはさ、私のこと——」
途端に脳に走る危険信号。聞いてはならない。聞けば必ず後悔する。聞かずにいれば、私はまだこの関係を続けられる。彼に肯定された『C線上のフォルテシモ』を——続けられる。
止まれ。止まれ。やめろ。聞くな。まだ私は、彼に恋していたい。対等な、人間として、彼のそばに居たいのだ——
それなのにボクは、答えを欲してしまった。
「ボクのこと——好き?」
瀬戸内から吹き込む潮風になでられる砲塔は、塗装が剥がれ錆びつくことを恐れ、触れられることを拒む。
だからこの髪を揺らした風は、ただ私を痛めつけるだけだった。
「何を言ってるんだ、お前は?」
まるで——いや、明白に。
彼は私の質問が理解不能で的外れであると、切り捨てた。
「お前は、楽器だろう。僕に奏でられるべき『C線上のフォルテシモ』でしかない。そして——」
心地よいほどに剥がれ落ちた塗装。気持ちよいほどに剥き出しになった錆。
ゾクゾクと身体中を駆ける異常な悦びが、ボクの猜疑《さいぎ》心をくすぐり、胸を靄《もや》で満たしていく。
「俺は、楽器を好きになったりしない」
ああ。
ボクは、その言葉が聞きたかったのだ。
第15.5話『幕間』『シャボン玉』
第15.5話『幕間』
『シャボン玉』
修学旅行の非日常をひとしきり楽しんだ後。一日の終わりには、もう一つの特大イベントが待っている。それは同性クラスメイトの皆《みな》と一糸まとわぬ姿で語らうイベント。そう——入浴だ。
ここには女の子しかいないというのに、やはり人前で服を脱ぐのは恥ずかしい。互いの裸の姿くらいは水泳の着替えで見る機会はあったが、どうしても長時間裸体を晒すことになるのには抵抗があり、私は下着を脱げずにいた。
気付けば周りは流れるように風呂場に入って行っており、私たちだけが取り残された形になっていたのだ。
「あはは……リンちゃんって、意外と恥ずかしがりなんだね」
先に覚悟を決めた友人のセノは、私より僅かに恵まれた身体をほんの少しだけひねり、一番恥ずかしい部分だけは見えないような工夫をしていた。
「あうぅ……なんか、やっぱり慣れないんだよね……」
「気にし過ぎだと思うよ——ほら、お湯の中に入っちゃえばよく見えないし!」
「そっ……か。うん、脱ぐね……」
セノのひと押しもあり、私は遂に下着を脱ぎ、最低限畳んで巾着の中に放り込んだ。彼女も私をジロジロと見ないように気を付けてくれていた。
「じゃあ、シャワー浴びよっか。サッと入っちゃお」
「うん、お待たせしてごめんね」
「あはは、人を脱がすのは早いくせにね」
「……ちょっと!」
唐突なセクハラに思わず抗議しながら、入浴セットの入った小さなカゴを手に掴む。そしてセノの小さくて綺麗な背を追って足元の吸水タオルを踏み、浴場へと入ったのだった。
私たちはすぐに空いているシャワーへと向かい、プラスチック製の小さな椅子に並んで腰かける。そして水の温度を調節し、石鹸を泡立てたところで、セノは不思議そうに話しかけてきた。
「へぇ。リンちゃんって、身体から洗う派なんだ?」
「……? セノちゃんは違うの?」
「私はいつも頭から洗うよ。だって、トリートメントで身体ベトベトになっちゃうし」
——ああ、そうか。そういえば母もそんなものを使っていた。普段、頭なんて父と同じシャンプーで適当に洗って終わりなので、気にしたことがなかった。
「私、トリートメントなんて使ったことない……」
「——!? えっ、そんなにサラサラなのに!?」
「えっと……私は髪質がいいってお母さんは言ってたけど……」
「なにそれ羨ましい……!」
実際、幼い頃はよく母にも羨ましがられた。なんでも私の髪はダメージが蓄積しにくい毛質《もうしつ》らしく、たまにアルトラに思い切りワシャワシャとされたときを除いて癖がつくことすら滅多にない、素直な髪だった。
だが正直、そんなものは美容に興味のない私にとってはなんの価値もない。髪なんて、アルトラが嫌いさえしなければ何でもいいのだ。
「お母さんとは髪質違うってことは、お父さん由来なのかな?」
「あー……うん、多分」
「……あっ、ごめん」
セノは私の地雷を踏み抜いたことに気付き、少し申し訳なさそうに沈黙した。
私は父が嫌いなのだ。傲慢で無関心で、私がいじめられていたことすら知らないまま、常に普通であり続けることを求めた父が。
アルトラの恋人になって二年と少し経った今でも、父は私と彼の付き合いに反対している。
それでも強く言えば私がまた手首を切り裂くということを理解しているのか、最近ではそもそも会話することすら少なくなっていた。
「でも、いいなぁ。私もリンちゃんみたいに可愛くなりたい……」
「えっ、セノちゃん可愛いよ? なんっていうか……ちっちゃくて?」
「!? 私、リンちゃんよりは大きいんですけど……!」
どうやら地雷を踏み返したようだ。セノは口を結んでプクーっと膨らませている。
私は学年で一番か二番目に背が低いので、そんなことを私から言われるとは思っていなかったのだろう。『おちびちゃんズ』時代にはあまり気にしていなかったと思うが、どうやら今のセノは低身長がコンプレックスらしい。
「あっ、えっと、違うの、ほら……その、美容とかしっかりしてて」
「もー! ナチュラル美少女のリンちゃんに言われても説得力ないよ!」
「私は別に——アルトラ以外にどう見られても、どうでもいいかな……」
むしろ、この産まれ持った性質が原因で私は傷付けられたのだ。背が低く、恵まれた遺伝子によって整った顔立ちは——不良たちの格好の餌食だった。
多少美形に産まれただけで他人の嫉妬を買い、欲望の対象になり、人生をめちゃくちゃにされたのだ。仮にそれで悩んでいるのだと誰かに話せば、相手はそれを「贅沢な悩み」として私を嫌う。
その上、アルトラは見た目で私を選んでくれたわけではないのだから——こんなものは、私にとって呪い以外の何でもないのだ。
私が見た目に関する話題に乗り気でないことを理解したセノは、泡でいっぱいの髪の毛を静かに洗い流した。それから不思議な形をしたタオルを取り出して、石鹸を泡立て始める。
「ねえリンちゃん、身体洗いっ合《あ》っこしない?」
「うん、いいよ——背中だけなら」
「あはは、そのつもりだよ」
セノは椅子を持ち運んで私の背後に座り、しっとりとした重たい泡を私の背に乗せた。どうやらタオルの正体は、泡立て特化の美容アイテムらしい。
「これ、いいでしょ。この前見かけて衝動買いしちゃった」
「すごいね、こんなに違うんだ」
「泡がキメ細かいから、中々割れないんだよ?」
……どうしよう。
私はいつも素手で泡立ててそのまま身体を洗うので、タオルなんて使うことがない。当然今日も持って来ていないのだが、どうやってセノの身体を洗おうか。
「リンちゃんはどんなの使ってるの?」
「えっ……と。素手」
「……? タオルは?」
「使わない……その、たまにお母さんのを借りることはあるんだけど……」
セノに汚いと思われただろうか。
正直、最後にタオルを使ったのなんてもう二年以上前だ。いじめを受けていた頃に、固いタオルを身体の穢れを落とすために使った程度で——普段は面倒くさくて、タオルなんて使わないのだ。
「まあ、素手で洗った方が美容にいいって話もあるし」
「えっ、そうだったの?」
「……あの、もしかしてリンちゃんって——結構ズボラ?」
はい。私は結構ズボラです。
というより本気で興味がない。幼い頃は母に言われた通りに身体を洗っていたが、いじめが終わった頃からはずっと適当に洗っていた。アルトラに身体を嗅がれても、一度も臭いと言われていないので、それで良いと思っている。
「——よーし、今日は丸洗いコースだね」
「えっ……ふえっ!?」
「いいじゃん、今更こんなことで恥ずかしがる関係じゃないでしょ!」
「やっ……ねえ、今度でいい! 今度アルトラの家で洗ってよ!」
「……!? やだよ!」
私の僅かな抵抗も、滑る泡の前では無意味で——彼女の手は、成すすべのない私の身体を泡だらけにし始めるのだった。
セノに徹底的に全身を洗い尽くされた後で、結局タオルを借りて私も彼女の背中を洗い返した。その後セノはトリートメントを髪の毛に塗り、梳《くし》で細かに行き渡らせていた。
その間、暇な私は無意味に石鹸水《シャボン》を手のひらに乗せ、シャボン玉を作って遊んでいた。
「あっ。割れちゃった……」
「ごめん、水飛んじゃってる?」
「ううん、大丈夫」
セノはシャワーヘッドを片手に頭に水を被り、トリートメントを落としながら私の様子を伺っていた。
子供っぽい遊びをしているが——全身をあわあわにされて、未だに少しボーッとしている私には丁度いい。
「シャボン玉って、不思議だよね」
セノは肩くらいまである髪の毛を手で梳《と》きながら、私の遊びに言及する。
「なんっていうか——ただ膜を張るだけでは何処にも行けないまま、手を離せばすぐに割れちゃうのに。丸くなって手を離れたら、一人で自由に飛んでいくんだから」
指で作った輪っかにふーっと息を吹き込んで閉じ、作られたシャボン玉は手のひらで踊る。そしてそれを飛ばせば、しばらく割れずに飛んでいく。考えてみれば普通のことだが、確かに不思議だった。
シャボン玉は、一人で存在出来るのだ。
「……でも、すぐ割れちゃうね」
少しだけ空を飛び洗面台の鏡にくっつこうとしたシャボン玉は、その形の変化に耐えられなかったのか、破裂してしまった。
シャボン玉の影響で集まった鏡の水滴はそのまま垂れて、その下の泡に向かって落ちる。しかしその泡は、少し形を変えただけで割れたりはしなかった。
「私はね、一人で飛んだら割れちゃうの。だからアルトラといっしょにいたい。そうしないと——自分一人でなんて存在出来ないから」
「……ほんとリンちゃんって、アルトラくんのこと好きだよね」
「セノちゃんにも分かるでしょ。一人で飛ぶのがどれだけ怖くて、どれだけ簡単に消えちゃいそうになるかって」
トリートメントを落とし終えた彼女は、洗顔キットを網の袋にしまいながら、私の言葉の意味を捉える。
誰にも必要とされず、誰かに寄り添うことも出来ず、ただ存在することの恐ろしさ。自らの存在を確かめるために愛する誰かを必要としている彼女にも、その根源的な恐怖は理解出来るだろう。
「私も昔、考えたことがあるんだよね——私たちって、なんのために存在してるんだろうって。ううん、答えは出なかった。だけど、みんな本当はなんのために存在してるのか分かってないのに、存在がなくなるのが怖くて仕方ないんだろうなって、思ったの」
セノは耳に垂れていた髪の毛を耳にひっかけながら、呟くように語った。
存在の理由。少し懐かしい話だった。
「……私たちは、存在の理由を求めてるんだと思う。私はアルトラにそれを求めたし、セノちゃんも彼氏さんに求めてるんじゃないかな。そうしたら、理由が分からないままの絶望が、理由を失う恐怖に変わってくれるから」
それはかつて、スズやケイが『にせもの』と呼んだ世界で見つけた答え。『その為に死ねる何か』を見つけることで、私たちは無意味の絶望から目をそらすことが出来るのだ。
「——きっとみんな、孤独なシャボン玉にはなりたくないんだろうね」
呟いたセノはシャワーで足元の泡を洗い流す。壁に寄ってなんとか生き残ろうとしていた泡たちを、容赦なく排水口に流し込んでいった。
そしてセノは立ち上がりシャワーヘッドを元に戻して、荷物をおいたまま歩き出した。
「おまたせ、行こっか」
「うん——うぅ、やっぱりなんか恥ずかしい……」
私もそれとなく胸を隠しながら、彼女の背を追うのだった。
露天風呂付きの浴場ということもあり、クラスメイトの大半は外での開放感を楽しんでいるらしい。おかげで屋内の風呂場は空いており——その分彼女の孤独は目立っていた。
「あれ、ナトリ。今一人なんだ」
セノは恥じらいもせず胸を曝け出し、ナトリに手を振り近付いた。
「——セノ。それにリンちゃんまで」
「……」
私は彼女にどう接していいか分からず、ただ名前を呼ばれたのに応える。左手の切り傷を、誰にも見られないように隠したまま——傷一つない彼女の身体を睨んでいた。
「お隣、お邪魔するよ」
「どうぞ。リンちゃんもおいでよ」
「…………お邪魔します」
こういう関係を『フレネミー』と言うらしい。表面上は友人として振る舞いつつ、腹の底では嫌い合う——静かに睨み合う私とナトリは、最早《もはや》敵どうしだった。
「にしても、相変わらず良く似てるねぇ二人とも。色白でちっちゃくて、可愛らしい」
「セノだってちっちゃい方じゃん。『おちびちゃんズ』の一人でしょ」
「わ、私はまだ背伸びた方でしょ!」
セノは私たちの確執を知らない。彼女だけはいじめが起きる前の幸せの中にいて、最も幸せなのは彼女のはずなのに。何故か——いや、自分と一番良く似たナトリだけは、どうしても許せなかった。
……その目は、なんだ。私の傷を覗き込もうとするな。お前だけは、この傷跡を憐れむ資格なんてない。私を見捨て、一人地獄の底に取り残したお前には——
「セノー!!」
誰かがセノを大声で呼ぶ。クラスメイトのものではないようだ。入浴の持ち時間は60分で、20分おきに風呂場のメンバーが入れ替わるので、一組が抜けて四組の人たちが入り始めたのだろう。
「メグ! お風呂場で走らない!」
「ごめんごめん……あ、はじめまして。セノの親友のメグです!」
やたらと元気がいいのが来た。
よく見れば昼に肝醤油で興奮してた変人————変人だ。
「あ、お昼の……はじめまして、リンです」
「セノがお世話になってまーす!」
——テンションが合わない人だ、登場する作品を間違えているんじゃないだろうか。そんなメグはセノの腕を引っ張って、浴槽から引っこ抜く。
「セノー! 背中洗ってー!」
「あー、はいはい、洗うから……ごめん、ナトリ、リンちゃん。またあとで」
——まずい、ナトリと二人きりにされる。
「わ、私も、てつだ——」
そう言って立ち上がろうとしたところで、ナトリは私の左手を引っ張り、湯船に引きずり込む。
「——またあとでね、セノ」
「うん。ゆっくりしてて」
二人が去っていくまでの間、リストカットの縫合《ほうごう》痕をなぞられながら——私はわけが分からず、ただ寒気を耐えて立ち尽くす。いったいどういうつもりだ——
「……やっと、二人きりになれた」
気色悪いくらいに愛おしそうな目をこちらに向けるナトリは、私が逃げないようにしっかりと腕を掴み、黙って浴槽に座らせたのだった。
『シャボン玉』
修学旅行の非日常をひとしきり楽しんだ後。一日の終わりには、もう一つの特大イベントが待っている。それは同性クラスメイトの皆《みな》と一糸まとわぬ姿で語らうイベント。そう——入浴だ。
ここには女の子しかいないというのに、やはり人前で服を脱ぐのは恥ずかしい。互いの裸の姿くらいは水泳の着替えで見る機会はあったが、どうしても長時間裸体を晒すことになるのには抵抗があり、私は下着を脱げずにいた。
気付けば周りは流れるように風呂場に入って行っており、私たちだけが取り残された形になっていたのだ。
「あはは……リンちゃんって、意外と恥ずかしがりなんだね」
先に覚悟を決めた友人のセノは、私より僅かに恵まれた身体をほんの少しだけひねり、一番恥ずかしい部分だけは見えないような工夫をしていた。
「あうぅ……なんか、やっぱり慣れないんだよね……」
「気にし過ぎだと思うよ——ほら、お湯の中に入っちゃえばよく見えないし!」
「そっ……か。うん、脱ぐね……」
セノのひと押しもあり、私は遂に下着を脱ぎ、最低限畳んで巾着の中に放り込んだ。彼女も私をジロジロと見ないように気を付けてくれていた。
「じゃあ、シャワー浴びよっか。サッと入っちゃお」
「うん、お待たせしてごめんね」
「あはは、人を脱がすのは早いくせにね」
「……ちょっと!」
唐突なセクハラに思わず抗議しながら、入浴セットの入った小さなカゴを手に掴む。そしてセノの小さくて綺麗な背を追って足元の吸水タオルを踏み、浴場へと入ったのだった。
私たちはすぐに空いているシャワーへと向かい、プラスチック製の小さな椅子に並んで腰かける。そして水の温度を調節し、石鹸を泡立てたところで、セノは不思議そうに話しかけてきた。
「へぇ。リンちゃんって、身体から洗う派なんだ?」
「……? セノちゃんは違うの?」
「私はいつも頭から洗うよ。だって、トリートメントで身体ベトベトになっちゃうし」
——ああ、そうか。そういえば母もそんなものを使っていた。普段、頭なんて父と同じシャンプーで適当に洗って終わりなので、気にしたことがなかった。
「私、トリートメントなんて使ったことない……」
「——!? えっ、そんなにサラサラなのに!?」
「えっと……私は髪質がいいってお母さんは言ってたけど……」
「なにそれ羨ましい……!」
実際、幼い頃はよく母にも羨ましがられた。なんでも私の髪はダメージが蓄積しにくい毛質《もうしつ》らしく、たまにアルトラに思い切りワシャワシャとされたときを除いて癖がつくことすら滅多にない、素直な髪だった。
だが正直、そんなものは美容に興味のない私にとってはなんの価値もない。髪なんて、アルトラが嫌いさえしなければ何でもいいのだ。
「お母さんとは髪質違うってことは、お父さん由来なのかな?」
「あー……うん、多分」
「……あっ、ごめん」
セノは私の地雷を踏み抜いたことに気付き、少し申し訳なさそうに沈黙した。
私は父が嫌いなのだ。傲慢で無関心で、私がいじめられていたことすら知らないまま、常に普通であり続けることを求めた父が。
アルトラの恋人になって二年と少し経った今でも、父は私と彼の付き合いに反対している。
それでも強く言えば私がまた手首を切り裂くということを理解しているのか、最近ではそもそも会話することすら少なくなっていた。
「でも、いいなぁ。私もリンちゃんみたいに可愛くなりたい……」
「えっ、セノちゃん可愛いよ? なんっていうか……ちっちゃくて?」
「!? 私、リンちゃんよりは大きいんですけど……!」
どうやら地雷を踏み返したようだ。セノは口を結んでプクーっと膨らませている。
私は学年で一番か二番目に背が低いので、そんなことを私から言われるとは思っていなかったのだろう。『おちびちゃんズ』時代にはあまり気にしていなかったと思うが、どうやら今のセノは低身長がコンプレックスらしい。
「あっ、えっと、違うの、ほら……その、美容とかしっかりしてて」
「もー! ナチュラル美少女のリンちゃんに言われても説得力ないよ!」
「私は別に——アルトラ以外にどう見られても、どうでもいいかな……」
むしろ、この産まれ持った性質が原因で私は傷付けられたのだ。背が低く、恵まれた遺伝子によって整った顔立ちは——不良たちの格好の餌食だった。
多少美形に産まれただけで他人の嫉妬を買い、欲望の対象になり、人生をめちゃくちゃにされたのだ。仮にそれで悩んでいるのだと誰かに話せば、相手はそれを「贅沢な悩み」として私を嫌う。
その上、アルトラは見た目で私を選んでくれたわけではないのだから——こんなものは、私にとって呪い以外の何でもないのだ。
私が見た目に関する話題に乗り気でないことを理解したセノは、泡でいっぱいの髪の毛を静かに洗い流した。それから不思議な形をしたタオルを取り出して、石鹸を泡立て始める。
「ねえリンちゃん、身体洗いっ合《あ》っこしない?」
「うん、いいよ——背中だけなら」
「あはは、そのつもりだよ」
セノは椅子を持ち運んで私の背後に座り、しっとりとした重たい泡を私の背に乗せた。どうやらタオルの正体は、泡立て特化の美容アイテムらしい。
「これ、いいでしょ。この前見かけて衝動買いしちゃった」
「すごいね、こんなに違うんだ」
「泡がキメ細かいから、中々割れないんだよ?」
……どうしよう。
私はいつも素手で泡立ててそのまま身体を洗うので、タオルなんて使うことがない。当然今日も持って来ていないのだが、どうやってセノの身体を洗おうか。
「リンちゃんはどんなの使ってるの?」
「えっ……と。素手」
「……? タオルは?」
「使わない……その、たまにお母さんのを借りることはあるんだけど……」
セノに汚いと思われただろうか。
正直、最後にタオルを使ったのなんてもう二年以上前だ。いじめを受けていた頃に、固いタオルを身体の穢れを落とすために使った程度で——普段は面倒くさくて、タオルなんて使わないのだ。
「まあ、素手で洗った方が美容にいいって話もあるし」
「えっ、そうだったの?」
「……あの、もしかしてリンちゃんって——結構ズボラ?」
はい。私は結構ズボラです。
というより本気で興味がない。幼い頃は母に言われた通りに身体を洗っていたが、いじめが終わった頃からはずっと適当に洗っていた。アルトラに身体を嗅がれても、一度も臭いと言われていないので、それで良いと思っている。
「——よーし、今日は丸洗いコースだね」
「えっ……ふえっ!?」
「いいじゃん、今更こんなことで恥ずかしがる関係じゃないでしょ!」
「やっ……ねえ、今度でいい! 今度アルトラの家で洗ってよ!」
「……!? やだよ!」
私の僅かな抵抗も、滑る泡の前では無意味で——彼女の手は、成すすべのない私の身体を泡だらけにし始めるのだった。
セノに徹底的に全身を洗い尽くされた後で、結局タオルを借りて私も彼女の背中を洗い返した。その後セノはトリートメントを髪の毛に塗り、梳《くし》で細かに行き渡らせていた。
その間、暇な私は無意味に石鹸水《シャボン》を手のひらに乗せ、シャボン玉を作って遊んでいた。
「あっ。割れちゃった……」
「ごめん、水飛んじゃってる?」
「ううん、大丈夫」
セノはシャワーヘッドを片手に頭に水を被り、トリートメントを落としながら私の様子を伺っていた。
子供っぽい遊びをしているが——全身をあわあわにされて、未だに少しボーッとしている私には丁度いい。
「シャボン玉って、不思議だよね」
セノは肩くらいまである髪の毛を手で梳《と》きながら、私の遊びに言及する。
「なんっていうか——ただ膜を張るだけでは何処にも行けないまま、手を離せばすぐに割れちゃうのに。丸くなって手を離れたら、一人で自由に飛んでいくんだから」
指で作った輪っかにふーっと息を吹き込んで閉じ、作られたシャボン玉は手のひらで踊る。そしてそれを飛ばせば、しばらく割れずに飛んでいく。考えてみれば普通のことだが、確かに不思議だった。
シャボン玉は、一人で存在出来るのだ。
「……でも、すぐ割れちゃうね」
少しだけ空を飛び洗面台の鏡にくっつこうとしたシャボン玉は、その形の変化に耐えられなかったのか、破裂してしまった。
シャボン玉の影響で集まった鏡の水滴はそのまま垂れて、その下の泡に向かって落ちる。しかしその泡は、少し形を変えただけで割れたりはしなかった。
「私はね、一人で飛んだら割れちゃうの。だからアルトラといっしょにいたい。そうしないと——自分一人でなんて存在出来ないから」
「……ほんとリンちゃんって、アルトラくんのこと好きだよね」
「セノちゃんにも分かるでしょ。一人で飛ぶのがどれだけ怖くて、どれだけ簡単に消えちゃいそうになるかって」
トリートメントを落とし終えた彼女は、洗顔キットを網の袋にしまいながら、私の言葉の意味を捉える。
誰にも必要とされず、誰かに寄り添うことも出来ず、ただ存在することの恐ろしさ。自らの存在を確かめるために愛する誰かを必要としている彼女にも、その根源的な恐怖は理解出来るだろう。
「私も昔、考えたことがあるんだよね——私たちって、なんのために存在してるんだろうって。ううん、答えは出なかった。だけど、みんな本当はなんのために存在してるのか分かってないのに、存在がなくなるのが怖くて仕方ないんだろうなって、思ったの」
セノは耳に垂れていた髪の毛を耳にひっかけながら、呟くように語った。
存在の理由。少し懐かしい話だった。
「……私たちは、存在の理由を求めてるんだと思う。私はアルトラにそれを求めたし、セノちゃんも彼氏さんに求めてるんじゃないかな。そうしたら、理由が分からないままの絶望が、理由を失う恐怖に変わってくれるから」
それはかつて、スズやケイが『にせもの』と呼んだ世界で見つけた答え。『その為に死ねる何か』を見つけることで、私たちは無意味の絶望から目をそらすことが出来るのだ。
「——きっとみんな、孤独なシャボン玉にはなりたくないんだろうね」
呟いたセノはシャワーで足元の泡を洗い流す。壁に寄ってなんとか生き残ろうとしていた泡たちを、容赦なく排水口に流し込んでいった。
そしてセノは立ち上がりシャワーヘッドを元に戻して、荷物をおいたまま歩き出した。
「おまたせ、行こっか」
「うん——うぅ、やっぱりなんか恥ずかしい……」
私もそれとなく胸を隠しながら、彼女の背を追うのだった。
露天風呂付きの浴場ということもあり、クラスメイトの大半は外での開放感を楽しんでいるらしい。おかげで屋内の風呂場は空いており——その分彼女の孤独は目立っていた。
「あれ、ナトリ。今一人なんだ」
セノは恥じらいもせず胸を曝け出し、ナトリに手を振り近付いた。
「——セノ。それにリンちゃんまで」
「……」
私は彼女にどう接していいか分からず、ただ名前を呼ばれたのに応える。左手の切り傷を、誰にも見られないように隠したまま——傷一つない彼女の身体を睨んでいた。
「お隣、お邪魔するよ」
「どうぞ。リンちゃんもおいでよ」
「…………お邪魔します」
こういう関係を『フレネミー』と言うらしい。表面上は友人として振る舞いつつ、腹の底では嫌い合う——静かに睨み合う私とナトリは、最早《もはや》敵どうしだった。
「にしても、相変わらず良く似てるねぇ二人とも。色白でちっちゃくて、可愛らしい」
「セノだってちっちゃい方じゃん。『おちびちゃんズ』の一人でしょ」
「わ、私はまだ背伸びた方でしょ!」
セノは私たちの確執を知らない。彼女だけはいじめが起きる前の幸せの中にいて、最も幸せなのは彼女のはずなのに。何故か——いや、自分と一番良く似たナトリだけは、どうしても許せなかった。
……その目は、なんだ。私の傷を覗き込もうとするな。お前だけは、この傷跡を憐れむ資格なんてない。私を見捨て、一人地獄の底に取り残したお前には——
「セノー!!」
誰かがセノを大声で呼ぶ。クラスメイトのものではないようだ。入浴の持ち時間は60分で、20分おきに風呂場のメンバーが入れ替わるので、一組が抜けて四組の人たちが入り始めたのだろう。
「メグ! お風呂場で走らない!」
「ごめんごめん……あ、はじめまして。セノの親友のメグです!」
やたらと元気がいいのが来た。
よく見れば昼に肝醤油で興奮してた変人————変人だ。
「あ、お昼の……はじめまして、リンです」
「セノがお世話になってまーす!」
——テンションが合わない人だ、登場する作品を間違えているんじゃないだろうか。そんなメグはセノの腕を引っ張って、浴槽から引っこ抜く。
「セノー! 背中洗ってー!」
「あー、はいはい、洗うから……ごめん、ナトリ、リンちゃん。またあとで」
——まずい、ナトリと二人きりにされる。
「わ、私も、てつだ——」
そう言って立ち上がろうとしたところで、ナトリは私の左手を引っ張り、湯船に引きずり込む。
「——またあとでね、セノ」
「うん。ゆっくりしてて」
二人が去っていくまでの間、リストカットの縫合《ほうごう》痕をなぞられながら——私はわけが分からず、ただ寒気を耐えて立ち尽くす。いったいどういうつもりだ——
「……やっと、二人きりになれた」
気色悪いくらいに愛おしそうな目をこちらに向けるナトリは、私が逃げないようにしっかりと腕を掴み、黙って浴槽に座らせたのだった。
第16話『名取』
第16話『名取《ナトリ》』
私と鈴《りー》ちゃんは姉妹だった。
幼稚園児の頃からずっとリンは私の隣にいた。同じ血を引き、同じ色白の肌で、同じような身長の私たちは、いつだって手をつなぎ、いつだっていっしょだったのだ。
……あの日までは。
母はことあるごとにリンと私を比べた。テストは常に満点、体育以外の成績はオール5が当たり前の彼女を超えなければ、母は私を許さなかった。
そんな母親に嫌気が差し、家を飛び出した小学五年生の春。私はどうしてもリンに会いたくて、夕方過ぎの街を走り抜け、彼女の家に向かった。しかしその日は折悪く、リンの一家は外食にでも出かけているようだった。
彼女が帰ってくるまで時間を潰そうと、彼女の家の近く、山の麓の公園のブランコに腰かけていた。そこで私は——中学生たちに出会ってしまった。
見るからに素行不良、明らかにこちらを見ている彼らを警戒して、私はすぐに——今思えば愚かにも、公衆トイレへと逃げ込んだ。ここなら鍵をかけられるから、走って逃げるよりはマシだと——当時携帯電話すら持っていなかった私は、そう考えたのだ。
リン程ではないが、私にも容姿が優れている自覚はあった。ロシア人の血を引いた母は美しく、私にもその血が流れていたのだから。それ故に、幼い頃から向けられてきた欲望の目線には嫌でも気付いていた。
しかし心のどこかで信じていた。人間は、理性的な生き物なのだと——
そこからは、語るまでもない。カモがネギを背負って、鍋に足を踏み入れたのだから。
結局、私は汚れた。そのことを誰に相談することも出来ないまま——いや、するつもりもなかった。どうせ誰にもバレないのだから。母のおかげで、私はそれなりに忍耐力のある方だった。
状況が変わったのは、それから一ヶ月もしないうちだった。例の中学生たちの傀儡《かいらい》たる不良が、私の同級生に三人もいたのだ。彼らは沈黙し続けた私を見つけ出し、再び地獄へと連れ込んだ。
それから被害は常習化し、彼らは手に入れた携帯電話で私を撮影し、それで金稼ぎをしていたようだ。
汚い床を這い。虫けら呼ばわりされ。人の持ちうる尊厳のすべてと、女としての機能を破壊され——ついに耐えられなくなった私は、それを両親に打ち明けたのだった。
父はその件を内密に終わらせることを望んだ——そうしなければ、私の身体はいたずらに調べ尽くされ、私の動画は大勢の大人たちの目に触れ、より苦しむことになってしまうから、と。はじめ私は、事なかれ主義の父がおかしいんじゃないかと思っていたが——結果を見れば、父が正しかった。
母は話がまとまらないうちから警察にこの件を通報し、私は身体じゅうを徹底的に調べられ、父の言ったとおり、動画を確認された上で、自らが何をされたのかを述べさせられ——辱められた。
事態はそれだけでは終わらず、両親は結局この件で大喧嘩になり、母は父の事なかれ主義を徹底的に侮辱した後に、私を病院に置いたまま一言だけ言い残して去っていった。
「——お前なんか、産まなければよかった」
それは耐えられなかったことへの罰だったのだ。私のせいで——私の家族は、崩壊した。
その後も続いた捜査の結果、結局不良たちは大した罰を受けることもなかった。それでも、私を産んでしまった母のおかげで、私を標的としたいじめは即座に終わり——即座に次の標的が定まった。
リンは元々空気の読める子ではなかった。ときに恩着せがましく、ときに身勝手な彼女を嫌っている同級生は少なくなかったのだ。
それでも彼女は優秀で、美人で、そう振る舞うことを当然だと思っているようで——いや、本人は今でも気付いていない。あの子は「今私はこう望んでいるぞ」と顔に出すのだ。
それを理解されなければ不機嫌になる彼女を心から好いていた人など、当時は多分私の他にいなかった。
だから——不良たちが彼女を中傷し始めたとき、止める人などどこにもいなかった。先生たちですら成績表に文句をつける彼女を好いてはおらず、リンがいじめられているのは当たり前なのだと——正直、私ですらそう思った。
それで向けられる「なんで私を助けないの」という、恨みがましいその目は——見るに耐えなくて、私は目を逸らすしかなかった。
——そして、その罰はすぐに受けることになった。
見せられたのは、とある動画。私もよく連れ込まれた西小の倉庫の中で、リンが——私と同じことをされながら、泣き叫ぶ動画だった。
私は何も見ていない。私は何もされていない。私は関係ない。私は関係ない。リンは、いじめられるべくしていじめられ、その延長線上で私と同じ目にあっただけだ。悪いのは私じゃない。悪いのは私じゃない。私じゃない。
それなのにリンは、私を睨む。私を恨む。最も許しがたい存在として、私を憎む。
だから私は、あの日に死んだ。『りーちゃん』のことが大好きだった『カナちゃん』は死んだのだ。
それからの私は、リンとは関わらないように生きてきた。彼女もそれを望んでいただろうし、私も彼女に合わせる顔なんてなかった。
——ほんのささやかな償いをしながら。私は一人、すべてを終わらせるつもりで、意味を失った世界を生きてきた。
それなのに私は、数年ぶりに見た自分の生き別れの運命、かつて大好きだった親友とクラスメイトになってしまった。更にはリンが他の誰かと幸せそうに愛し合う背中を毎日のように見せられているのだ。
それでいつの間にか——許されないと分かっているのに、私はもう一度、リンに愛されたいと願い始めていた。あんな地獄を耐え抜いて、幸せを手に入れた彼女に——許されたいと願ってしまったのだ。
修学旅行初日の夜、大浴場の片隅で。お互いに一糸まとわぬ姿で、大好きな人の古傷をなでる。
その傷が、孤独の歴史のものではないと分かるから。私は——その意味を奪いたくって仕方がない。
「……離してよ」
リンは私の手を振り払う。いつもの通り「私はそれを望んでいない」という顔で。孤独に耐えられなかった私を、彼女は拒絶した。
「ごめんね——りーちゃん」
——次の罰は、なんだろう。
また選択の放棄に耐えられなかった私は、いったいどんな罰を受けるのだろうか。
私と鈴《りー》ちゃんは姉妹だった。
幼稚園児の頃からずっとリンは私の隣にいた。同じ血を引き、同じ色白の肌で、同じような身長の私たちは、いつだって手をつなぎ、いつだっていっしょだったのだ。
……あの日までは。
母はことあるごとにリンと私を比べた。テストは常に満点、体育以外の成績はオール5が当たり前の彼女を超えなければ、母は私を許さなかった。
そんな母親に嫌気が差し、家を飛び出した小学五年生の春。私はどうしてもリンに会いたくて、夕方過ぎの街を走り抜け、彼女の家に向かった。しかしその日は折悪く、リンの一家は外食にでも出かけているようだった。
彼女が帰ってくるまで時間を潰そうと、彼女の家の近く、山の麓の公園のブランコに腰かけていた。そこで私は——中学生たちに出会ってしまった。
見るからに素行不良、明らかにこちらを見ている彼らを警戒して、私はすぐに——今思えば愚かにも、公衆トイレへと逃げ込んだ。ここなら鍵をかけられるから、走って逃げるよりはマシだと——当時携帯電話すら持っていなかった私は、そう考えたのだ。
リン程ではないが、私にも容姿が優れている自覚はあった。ロシア人の血を引いた母は美しく、私にもその血が流れていたのだから。それ故に、幼い頃から向けられてきた欲望の目線には嫌でも気付いていた。
しかし心のどこかで信じていた。人間は、理性的な生き物なのだと——
そこからは、語るまでもない。カモがネギを背負って、鍋に足を踏み入れたのだから。
結局、私は汚れた。そのことを誰に相談することも出来ないまま——いや、するつもりもなかった。どうせ誰にもバレないのだから。母のおかげで、私はそれなりに忍耐力のある方だった。
状況が変わったのは、それから一ヶ月もしないうちだった。例の中学生たちの傀儡《かいらい》たる不良が、私の同級生に三人もいたのだ。彼らは沈黙し続けた私を見つけ出し、再び地獄へと連れ込んだ。
それから被害は常習化し、彼らは手に入れた携帯電話で私を撮影し、それで金稼ぎをしていたようだ。
汚い床を這い。虫けら呼ばわりされ。人の持ちうる尊厳のすべてと、女としての機能を破壊され——ついに耐えられなくなった私は、それを両親に打ち明けたのだった。
父はその件を内密に終わらせることを望んだ——そうしなければ、私の身体はいたずらに調べ尽くされ、私の動画は大勢の大人たちの目に触れ、より苦しむことになってしまうから、と。はじめ私は、事なかれ主義の父がおかしいんじゃないかと思っていたが——結果を見れば、父が正しかった。
母は話がまとまらないうちから警察にこの件を通報し、私は身体じゅうを徹底的に調べられ、父の言ったとおり、動画を確認された上で、自らが何をされたのかを述べさせられ——辱められた。
事態はそれだけでは終わらず、両親は結局この件で大喧嘩になり、母は父の事なかれ主義を徹底的に侮辱した後に、私を病院に置いたまま一言だけ言い残して去っていった。
「——お前なんか、産まなければよかった」
それは耐えられなかったことへの罰だったのだ。私のせいで——私の家族は、崩壊した。
その後も続いた捜査の結果、結局不良たちは大した罰を受けることもなかった。それでも、私を産んでしまった母のおかげで、私を標的としたいじめは即座に終わり——即座に次の標的が定まった。
リンは元々空気の読める子ではなかった。ときに恩着せがましく、ときに身勝手な彼女を嫌っている同級生は少なくなかったのだ。
それでも彼女は優秀で、美人で、そう振る舞うことを当然だと思っているようで——いや、本人は今でも気付いていない。あの子は「今私はこう望んでいるぞ」と顔に出すのだ。
それを理解されなければ不機嫌になる彼女を心から好いていた人など、当時は多分私の他にいなかった。
だから——不良たちが彼女を中傷し始めたとき、止める人などどこにもいなかった。先生たちですら成績表に文句をつける彼女を好いてはおらず、リンがいじめられているのは当たり前なのだと——正直、私ですらそう思った。
それで向けられる「なんで私を助けないの」という、恨みがましいその目は——見るに耐えなくて、私は目を逸らすしかなかった。
——そして、その罰はすぐに受けることになった。
見せられたのは、とある動画。私もよく連れ込まれた西小の倉庫の中で、リンが——私と同じことをされながら、泣き叫ぶ動画だった。
私は何も見ていない。私は何もされていない。私は関係ない。私は関係ない。リンは、いじめられるべくしていじめられ、その延長線上で私と同じ目にあっただけだ。悪いのは私じゃない。悪いのは私じゃない。私じゃない。
それなのにリンは、私を睨む。私を恨む。最も許しがたい存在として、私を憎む。
だから私は、あの日に死んだ。『りーちゃん』のことが大好きだった『カナちゃん』は死んだのだ。
それからの私は、リンとは関わらないように生きてきた。彼女もそれを望んでいただろうし、私も彼女に合わせる顔なんてなかった。
——ほんのささやかな償いをしながら。私は一人、すべてを終わらせるつもりで、意味を失った世界を生きてきた。
それなのに私は、数年ぶりに見た自分の生き別れの運命、かつて大好きだった親友とクラスメイトになってしまった。更にはリンが他の誰かと幸せそうに愛し合う背中を毎日のように見せられているのだ。
それでいつの間にか——許されないと分かっているのに、私はもう一度、リンに愛されたいと願い始めていた。あんな地獄を耐え抜いて、幸せを手に入れた彼女に——許されたいと願ってしまったのだ。
修学旅行初日の夜、大浴場の片隅で。お互いに一糸まとわぬ姿で、大好きな人の古傷をなでる。
その傷が、孤独の歴史のものではないと分かるから。私は——その意味を奪いたくって仕方がない。
「……離してよ」
リンは私の手を振り払う。いつもの通り「私はそれを望んでいない」という顔で。孤独に耐えられなかった私を、彼女は拒絶した。
「ごめんね——りーちゃん」
——次の罰は、なんだろう。
また選択の放棄に耐えられなかった私は、いったいどんな罰を受けるのだろうか。
第17話『傷跡』
第17話『傷跡』
修学旅行のお風呂場。セノとメグに取り残された私とリン。私は彼女の左腕を捕まえ、リストカットの縫合《ほうごう》痕を指でなぞる。愛撫《あいぶ》するように、愛おしく、確かめるように、人差し指を這わせる。
切り傷だらけの美しい手首。絹のように柔らかで、滑らかな指先。私と同じ色の肌。私と同じ。もう一人の私。
リンはそんな私の手をゆっくりと振り払った。「——お前にだけは、この傷に触れる資格なんてない」と言いたそうな顔をして。
それでも私はもう一度手を触れる。今度はもう、離したくない——
「——この傷は、いつできたの?」
「あなたには、関係ない」
「教えて……りーちゃん」
「——やめて! さわるな!」
拒絶。触れられた手を乱暴に振り払い、立ち上がる。
「——お前と、私は、違う。私はもう、お前を必要とはしていない」と。その態度と表情から、私はリンが何を考えているのかが、痛いほどよく分かってしまう。
「——ごめんなさい、リンちゃん」
「……ナトリ。お前は、もう私の友達じゃない。嵐が去って、今更傷だらけの私を哀れんで、いい人ぶるのはやめて」
「ちがう、そんなんじゃ」
「違わない。私は汚れて、お前は綺麗なまま。そんな綺麗な腕で、今更私を憐れむな!」
「——私だって、汚れてるよ!」
リンは私も彼女と同じ被害者であることを知らない。それを伝える機会などなかったし、それで許されるとも思っていない。
私はかつてリンを見捨てた。その事実は何があっても変わることはない。だがそれが、彼女の思うような——単純な自己保身のための選択ではないと、彼女に知ってほしかった。
「リンちゃん、聞いて——私も、あいつらに無理やりされたんだよ」
「……は?」
「リンちゃんよりも先に、私は汚されてた。掲示板の噂——あれ、私なの」
「——待って、どういう……」
「いじめられてたのは、りーちゃんだけじゃない。あれは——私への報復。りーちゃんが被害を受けたのは、私が被害を相談して、お母さんがそれを公にしたせい——」
私の選択が招いた、結果。
それが、私の愛する人が受けた被害だった。
「——私は、りーちゃんが何をされたのか、あいつらにずっと見せられてた。ずっと、ずっとずっとずっと、あなたの動画を——見せられ続けてたの」
リンは、何も悪くない。
自らの意思で何かを選択することをやめてしまった私が、リンを地獄に落としたのだ。
その手の傷跡は、私が作ったのだ——
「つまり——私が汚された原因は——」
リンは湯船から立ったまま、身体や傷跡を隠すことをやめ、私の方を真っ直ぐに向いた。
怒り。つもりにつもったそれは、最早《もはや》呪いだ——彼女の世界のすべてに対する憎しみが、今この瞬間、私一人に向けられていた。
そしてリンは、浴槽に膝をついたままの私の身体に蹴りを入れた。
「——きゃっ」
幸いというか、水の抵抗のおかげで全く痛みはなかった。彼女の怒りの波だけが私の顔にかかり、バランスを崩しかけたリンが私の髪の毛を掴んできて、私は無理やり立ち上がらされた。
「——お前のせいで、私は汚されたんだ」
その通りだ。リンは私のせいで汚された。
だから、振り上げられたその拳が私を打《ぶ》つのは真っ当なことで、私がそれを躱すことは許されない。
この禊《みそぎ》で、私の犯した罪が少しでも軽くなるのなら——私はむしろ、それを喜んで受け入れるべきだったのに。
「……ごめん、なさい」
許されるはずもないのに。受け入れられるはずもないのに。私は髪の毛を引っ張られたままリンに謝罪をする。
そんな私の迷いのせいで、リンは苦しそうに歯を食いしばりながら、拳を私の頭に振り下ろした——が、その手は私に届くことはなく、ただ空中で停止していたのだ。
そして私の髪の毛を離した彼女の顔を見るべく、溢《あふ》れた涙を腕で拭くと——そこには悔しそうに涙を流す、一人の被害者がいた。
……リンはもう、加害者にすらなれない。自らの憎しみを誰かにぶつけ、その傷跡に報いることが出来なくなるほどに——誰かのものになってしまっていたのだ。
「……ごめん、怖がらせて」
彼女は自らの頬に流れる涙を両手で拭いながら、彼女自身を——そして、私を許す選択をした。
「……かな。私は、もう忘れたいの」
「……ごめんなさい、リンちゃん」
リンは愛おしそうに私の左手首をなぞり、確かめる。そして震える彼女の手は、ゆっくりと指の間を絡ませ合い、繋がれる。幼い頃、いつもそうしていたように。
そして大粒の涙を流したリンは、私に強く抱きついた。
「ごめんね、ナトリちゃん……あなたのせいじゃ、ないのにっ……!」
「りーちゃん……」
何一つ身に付けないまま——初めて愛する人とそうやって抱きしめ合ったのに、不思議とおかしな気持ちは沸かなかった。それよりも、欠けてしまっていたものが再び満ちていく喜びがあったのだ。
……あの日の私たちは、死んでしまった。
死んだあとの世界で、私たちは未練を抱えたまま、ずっと彷徨っていた。
「ナトリちゃん。気付かなくって、ごめんね」
それでも私たちは、生まれ変わらなくてはならない。
「リンちゃん——私も、目を逸らして、ごめんなさい……」
いつまでもあの日の後悔に涙を流し続けるわけには、いかない。傷だらけで、裸のままの私たちは、強く、強く抱きしめ合い、理不尽なこの世界で、互いが存在することを確かめあった。
修学旅行のお風呂場。セノとメグに取り残された私とリン。私は彼女の左腕を捕まえ、リストカットの縫合《ほうごう》痕を指でなぞる。愛撫《あいぶ》するように、愛おしく、確かめるように、人差し指を這わせる。
切り傷だらけの美しい手首。絹のように柔らかで、滑らかな指先。私と同じ色の肌。私と同じ。もう一人の私。
リンはそんな私の手をゆっくりと振り払った。「——お前にだけは、この傷に触れる資格なんてない」と言いたそうな顔をして。
それでも私はもう一度手を触れる。今度はもう、離したくない——
「——この傷は、いつできたの?」
「あなたには、関係ない」
「教えて……りーちゃん」
「——やめて! さわるな!」
拒絶。触れられた手を乱暴に振り払い、立ち上がる。
「——お前と、私は、違う。私はもう、お前を必要とはしていない」と。その態度と表情から、私はリンが何を考えているのかが、痛いほどよく分かってしまう。
「——ごめんなさい、リンちゃん」
「……ナトリ。お前は、もう私の友達じゃない。嵐が去って、今更傷だらけの私を哀れんで、いい人ぶるのはやめて」
「ちがう、そんなんじゃ」
「違わない。私は汚れて、お前は綺麗なまま。そんな綺麗な腕で、今更私を憐れむな!」
「——私だって、汚れてるよ!」
リンは私も彼女と同じ被害者であることを知らない。それを伝える機会などなかったし、それで許されるとも思っていない。
私はかつてリンを見捨てた。その事実は何があっても変わることはない。だがそれが、彼女の思うような——単純な自己保身のための選択ではないと、彼女に知ってほしかった。
「リンちゃん、聞いて——私も、あいつらに無理やりされたんだよ」
「……は?」
「リンちゃんよりも先に、私は汚されてた。掲示板の噂——あれ、私なの」
「——待って、どういう……」
「いじめられてたのは、りーちゃんだけじゃない。あれは——私への報復。りーちゃんが被害を受けたのは、私が被害を相談して、お母さんがそれを公にしたせい——」
私の選択が招いた、結果。
それが、私の愛する人が受けた被害だった。
「——私は、りーちゃんが何をされたのか、あいつらにずっと見せられてた。ずっと、ずっとずっとずっと、あなたの動画を——見せられ続けてたの」
リンは、何も悪くない。
自らの意思で何かを選択することをやめてしまった私が、リンを地獄に落としたのだ。
その手の傷跡は、私が作ったのだ——
「つまり——私が汚された原因は——」
リンは湯船から立ったまま、身体や傷跡を隠すことをやめ、私の方を真っ直ぐに向いた。
怒り。つもりにつもったそれは、最早《もはや》呪いだ——彼女の世界のすべてに対する憎しみが、今この瞬間、私一人に向けられていた。
そしてリンは、浴槽に膝をついたままの私の身体に蹴りを入れた。
「——きゃっ」
幸いというか、水の抵抗のおかげで全く痛みはなかった。彼女の怒りの波だけが私の顔にかかり、バランスを崩しかけたリンが私の髪の毛を掴んできて、私は無理やり立ち上がらされた。
「——お前のせいで、私は汚されたんだ」
その通りだ。リンは私のせいで汚された。
だから、振り上げられたその拳が私を打《ぶ》つのは真っ当なことで、私がそれを躱すことは許されない。
この禊《みそぎ》で、私の犯した罪が少しでも軽くなるのなら——私はむしろ、それを喜んで受け入れるべきだったのに。
「……ごめん、なさい」
許されるはずもないのに。受け入れられるはずもないのに。私は髪の毛を引っ張られたままリンに謝罪をする。
そんな私の迷いのせいで、リンは苦しそうに歯を食いしばりながら、拳を私の頭に振り下ろした——が、その手は私に届くことはなく、ただ空中で停止していたのだ。
そして私の髪の毛を離した彼女の顔を見るべく、溢《あふ》れた涙を腕で拭くと——そこには悔しそうに涙を流す、一人の被害者がいた。
……リンはもう、加害者にすらなれない。自らの憎しみを誰かにぶつけ、その傷跡に報いることが出来なくなるほどに——誰かのものになってしまっていたのだ。
「……ごめん、怖がらせて」
彼女は自らの頬に流れる涙を両手で拭いながら、彼女自身を——そして、私を許す選択をした。
「……かな。私は、もう忘れたいの」
「……ごめんなさい、リンちゃん」
リンは愛おしそうに私の左手首をなぞり、確かめる。そして震える彼女の手は、ゆっくりと指の間を絡ませ合い、繋がれる。幼い頃、いつもそうしていたように。
そして大粒の涙を流したリンは、私に強く抱きついた。
「ごめんね、ナトリちゃん……あなたのせいじゃ、ないのにっ……!」
「りーちゃん……」
何一つ身に付けないまま——初めて愛する人とそうやって抱きしめ合ったのに、不思議とおかしな気持ちは沸かなかった。それよりも、欠けてしまっていたものが再び満ちていく喜びがあったのだ。
……あの日の私たちは、死んでしまった。
死んだあとの世界で、私たちは未練を抱えたまま、ずっと彷徨っていた。
「ナトリちゃん。気付かなくって、ごめんね」
それでも私たちは、生まれ変わらなくてはならない。
「リンちゃん——私も、目を逸らして、ごめんなさい……」
いつまでもあの日の後悔に涙を流し続けるわけには、いかない。傷だらけで、裸のままの私たちは、強く、強く抱きしめ合い、理不尽なこの世界で、互いが存在することを確かめあった。
第17.5話『幕間』『一番』
第17.5話『幕間』
『一番』
修学旅行の二日目の早朝。まだみんなが寝ている中で、僕は一人、いつになく緊張していた。目を閉じ、指先の感覚を研ぎ澄ませながら机の上に五指《ごし》を立て、何度となく練習したその動きを、頭の中の音と同時に再生する。
本番では、リズムが変わるかもしれない。本番では、ピアノがいつもより硬いかもしれない。本番では、たくさんの人に注目される。本番では——
「やあ、有賀《ありが》」
「ほんばぁ! ——なんだ須藤《すどう》か、ビックリさせんな!」
朝っぱらからクラスメイトの不審者《ストレンジャー》——リンに手を出したクズ野郎のストレンが、いきなり僕の肩に手を置いてきたのに驚き、情けない声を出してしまった。
時計を見れば午前五時過ぎ。幸い周りはまだ寝静まっているようで、醜態を晒したのはこのサイコパス相手だけのようだ。
「——何のつもりだ」
「肩。力入りすぎだ、雑音が交じる」
「はぁっ? イメトレに文句つけんなよ——」
「落ち着け。ミスタッチが多すぎる」
——まさか。こいつにも、見えているのか。
目の前にある長机《グランドピアノ》の鍵盤が、跳ね上がるハンマーの振動が、鳴り響く鐘の音が。
「——練習、ちゃんとしてるんだけどな……どうしても、緊張して肩に力が入るというか」
「聴衆なんて蟻に過ぎない。お前は奏でるだけ。お前は自由に弾くだけだ」
「……アレか、観客を手足の生えた大根かなんかだと思えってやつ」
「知らん。真面目にやれ」
——何だこいつ。アドバイスしに来たのか邪魔しに来たのか判断しかねる。
そこからストレンは何も言わないので、僕は構わず目を閉じて、もう一度初めから演奏をする。
……奏でるだけ、自由に弾くだけ。誰かに聴かせるためではなく、想いを届けるために指を動かす——
それは愛する世界を守るため。傷付いた過去を愛すため。未来に祈りを繋ぐための、願い。
傷だらけになろうとも。未来に向かうという、誓い。
自分の想いを音に乗せ、それを表現し、みんなと共鳴させるのだと思って弾いてみると、自然と肩の力は抜けており、ミスタッチはなくなっていた——
そうか、これが音楽の本質か。始めから完璧ではない自分を奏でるのに、完璧である必要なんてどこにもない。例えそれで本当の想いが伝わらなくとも、自分はこの想いを表現するだけで良いのだ。
「よく仕上がってるじゃないか。上出来だ」
「……ありがとよ」
演奏が終わるとストレンは面倒臭そうに拍手をしながら、一応僕を褒めた。
——頭のおかしい変態だと思っていたが、意外とまともな奴なのか……?
「粗暴な野郎だと思ってたよ。意外と繊細なんだな、お前」
「——ああ、僕もお前をイカれた野郎だと思ってた」
「なんだと?」
——どこに地雷があるか分からん奴だ。
しかしこちらから笑いながら握手を求めると、ストレンは眉をひそめながらも応じてくれたのだった。
———————
朝食の時間が終わりしばらくして、400人弱いる10組の同級生が旅館の大ホールに集合する。これから行われるのは、クラス対抗の合唱。わざわざ旅先で行われる、コンクール出場をかけた審査会だ。
三組のピアノ奏者である僕は、クラスを代表して順番決めのくじを引く——それだけで僕は緊張するのに、他のピアニストたちはプレッシャー慣れしているというか、相当肝が据わっているらしい。皆《みな》肩の一つも震わせず、堂々とした佇まいで、箱の中から紙切れを取り出す。
「それでは、くじを開いてください」
マイクを使って話す担任の音楽教師の言葉に従い、ゆっくりと開籤《かいせん》する——そして、そこに書かれた数字を恐る恐る確認した。
【一番】
——ああ。だから|くじ引き《運ゲー》は嫌いなんだ。
トップバッターなんて、一番緊張するのに——よりにもよって、一番演奏慣れしていない僕が一番なのか。
不安そうな眼差しでこちらを見つめるリンやクラスメイトたち。彼らも少なくない時間を練習に費やし、ときに喧嘩になりながら今日に備えてきたのだ。
——だから、僕は彼らの頑張りを無駄にしたりはしない。
「それでは、一番から順に発表してください」
足を。震える身体を。奮い立たせる。
見てろ大根ども——!
「よっしゃ! 三組、一番!!」
くじを高く突き上げながら、ガッツポーズを取る。ものは言いようだ、捉えようによっては、一番緊張する時間が短いのが僕らなのだ。
僕の不安で、みんなまで不安にさせて、なるものか!
「おーっ!」
「頑張ってアルトラーっ!」
ニセの気合に釣られたスズ大根や名前も知らない大根たちが、拍手をし始める。それに少し勇気をもらい、身体の震えも少しずつ落ち着き始める。
「よ、四組が二番手!」
「メグーっ! 頑張れーっ!」
なんだ、案外他の奏者も緊張してるんじゃないか。
そこからも次々に、僕が作った名乗りの流れに乗っかって、すべてのクラスが順番を発表した。
他の奏者たちが自分のクラスに戻っていくなかで。僕はひな壇の奥に置かれたグランドピアノに腰をかける。読めもしない楽譜を飾り。大好きなリンと目を合わせ。呼吸を整える。
何度も繰り返し練習した。大丈夫、奏でるだけ——想いを乗せて、響かせるだけ。
クラスメイトたちが歌唱パート毎に別れてゾロゾロとひな壇上り、先頭列に立つリンの姿は見えなくなった。それでも、何も怖くない。指揮者を努める先生と目を合わせ、心の準備が整ったことを伝える。
そして指揮に合わせて——最初から『|ff《フォルテシモ》』で平和の鐘を打ち鳴らす。
歌唱が始まったところで『|mp《メゾピアノ》』に落とし、過去を想い返す。
そして『|p《ピアノ》』にまで音を落ち着かせ、戦争の歴史、僕らの傷跡、そういうものをなぞるように『|⌒《スラー》』で鍵盤に優しく触れる。
サビに向かうところまで『|<《クレッシェンド》』を使い、再び『フォルテシモ』へと駆け上がる!
足元のペダルを優しく踏んだり、弾《はじ》いたり、全身を使って音楽を、歴史を、祈りを表現する——そしてその想いを歌う友人たちにピアノの音を届け、広いホール、いや世界じゅうへと響かせる!
完璧な演奏ではない。だが、仲間たちに愛され、共に創り上げるこれは——素晴らしい音楽なのだ。
合唱が終わると、一番手とは思えないほどの大歓声と拍手が巻き起こる。振り向いたストレンが、似合わない笑顔をこちらに向けて「よくやった」とでも言いたげに鼻で笑った。
「アルトラ、すごい、すごかったよ!」
「ほんと……頑張って、練習したんだね……っ……お疲れ様!」
「いや、これはコンクールまで行けるよ。私だって、アルトラくんがいない間合唱係として頑張ったし」
クラスメイトのちっちゃい女子三人組——いつの間にあんなに仲良くなったのかは知らないが、リンとセノ、ナトリがクラスの席に戻る途中で声をかけてくれた。
「うぁ……き、緊張したぁ……っ……」
「あ、アルトラ!? 大丈夫!?」
「吐きそう……ちょっと、お手洗い……」
「つ、連れてくよ……! ごめん二人とも、先生に言っておいて!」
胃が、痛い——こんなに緊張したのは、多分生まれてはじめてだった。それでも、やり遂げた——
背中をさすりながら肩を貸してくれるリンと共に、そのままホールの階段を登ってお手洗いへと向かったのだった。
『一番』
修学旅行の二日目の早朝。まだみんなが寝ている中で、僕は一人、いつになく緊張していた。目を閉じ、指先の感覚を研ぎ澄ませながら机の上に五指《ごし》を立て、何度となく練習したその動きを、頭の中の音と同時に再生する。
本番では、リズムが変わるかもしれない。本番では、ピアノがいつもより硬いかもしれない。本番では、たくさんの人に注目される。本番では——
「やあ、有賀《ありが》」
「ほんばぁ! ——なんだ須藤《すどう》か、ビックリさせんな!」
朝っぱらからクラスメイトの不審者《ストレンジャー》——リンに手を出したクズ野郎のストレンが、いきなり僕の肩に手を置いてきたのに驚き、情けない声を出してしまった。
時計を見れば午前五時過ぎ。幸い周りはまだ寝静まっているようで、醜態を晒したのはこのサイコパス相手だけのようだ。
「——何のつもりだ」
「肩。力入りすぎだ、雑音が交じる」
「はぁっ? イメトレに文句つけんなよ——」
「落ち着け。ミスタッチが多すぎる」
——まさか。こいつにも、見えているのか。
目の前にある長机《グランドピアノ》の鍵盤が、跳ね上がるハンマーの振動が、鳴り響く鐘の音が。
「——練習、ちゃんとしてるんだけどな……どうしても、緊張して肩に力が入るというか」
「聴衆なんて蟻に過ぎない。お前は奏でるだけ。お前は自由に弾くだけだ」
「……アレか、観客を手足の生えた大根かなんかだと思えってやつ」
「知らん。真面目にやれ」
——何だこいつ。アドバイスしに来たのか邪魔しに来たのか判断しかねる。
そこからストレンは何も言わないので、僕は構わず目を閉じて、もう一度初めから演奏をする。
……奏でるだけ、自由に弾くだけ。誰かに聴かせるためではなく、想いを届けるために指を動かす——
それは愛する世界を守るため。傷付いた過去を愛すため。未来に祈りを繋ぐための、願い。
傷だらけになろうとも。未来に向かうという、誓い。
自分の想いを音に乗せ、それを表現し、みんなと共鳴させるのだと思って弾いてみると、自然と肩の力は抜けており、ミスタッチはなくなっていた——
そうか、これが音楽の本質か。始めから完璧ではない自分を奏でるのに、完璧である必要なんてどこにもない。例えそれで本当の想いが伝わらなくとも、自分はこの想いを表現するだけで良いのだ。
「よく仕上がってるじゃないか。上出来だ」
「……ありがとよ」
演奏が終わるとストレンは面倒臭そうに拍手をしながら、一応僕を褒めた。
——頭のおかしい変態だと思っていたが、意外とまともな奴なのか……?
「粗暴な野郎だと思ってたよ。意外と繊細なんだな、お前」
「——ああ、僕もお前をイカれた野郎だと思ってた」
「なんだと?」
——どこに地雷があるか分からん奴だ。
しかしこちらから笑いながら握手を求めると、ストレンは眉をひそめながらも応じてくれたのだった。
———————
朝食の時間が終わりしばらくして、400人弱いる10組の同級生が旅館の大ホールに集合する。これから行われるのは、クラス対抗の合唱。わざわざ旅先で行われる、コンクール出場をかけた審査会だ。
三組のピアノ奏者である僕は、クラスを代表して順番決めのくじを引く——それだけで僕は緊張するのに、他のピアニストたちはプレッシャー慣れしているというか、相当肝が据わっているらしい。皆《みな》肩の一つも震わせず、堂々とした佇まいで、箱の中から紙切れを取り出す。
「それでは、くじを開いてください」
マイクを使って話す担任の音楽教師の言葉に従い、ゆっくりと開籤《かいせん》する——そして、そこに書かれた数字を恐る恐る確認した。
【一番】
——ああ。だから|くじ引き《運ゲー》は嫌いなんだ。
トップバッターなんて、一番緊張するのに——よりにもよって、一番演奏慣れしていない僕が一番なのか。
不安そうな眼差しでこちらを見つめるリンやクラスメイトたち。彼らも少なくない時間を練習に費やし、ときに喧嘩になりながら今日に備えてきたのだ。
——だから、僕は彼らの頑張りを無駄にしたりはしない。
「それでは、一番から順に発表してください」
足を。震える身体を。奮い立たせる。
見てろ大根ども——!
「よっしゃ! 三組、一番!!」
くじを高く突き上げながら、ガッツポーズを取る。ものは言いようだ、捉えようによっては、一番緊張する時間が短いのが僕らなのだ。
僕の不安で、みんなまで不安にさせて、なるものか!
「おーっ!」
「頑張ってアルトラーっ!」
ニセの気合に釣られたスズ大根や名前も知らない大根たちが、拍手をし始める。それに少し勇気をもらい、身体の震えも少しずつ落ち着き始める。
「よ、四組が二番手!」
「メグーっ! 頑張れーっ!」
なんだ、案外他の奏者も緊張してるんじゃないか。
そこからも次々に、僕が作った名乗りの流れに乗っかって、すべてのクラスが順番を発表した。
他の奏者たちが自分のクラスに戻っていくなかで。僕はひな壇の奥に置かれたグランドピアノに腰をかける。読めもしない楽譜を飾り。大好きなリンと目を合わせ。呼吸を整える。
何度も繰り返し練習した。大丈夫、奏でるだけ——想いを乗せて、響かせるだけ。
クラスメイトたちが歌唱パート毎に別れてゾロゾロとひな壇上り、先頭列に立つリンの姿は見えなくなった。それでも、何も怖くない。指揮者を努める先生と目を合わせ、心の準備が整ったことを伝える。
そして指揮に合わせて——最初から『|ff《フォルテシモ》』で平和の鐘を打ち鳴らす。
歌唱が始まったところで『|mp《メゾピアノ》』に落とし、過去を想い返す。
そして『|p《ピアノ》』にまで音を落ち着かせ、戦争の歴史、僕らの傷跡、そういうものをなぞるように『|⌒《スラー》』で鍵盤に優しく触れる。
サビに向かうところまで『|<《クレッシェンド》』を使い、再び『フォルテシモ』へと駆け上がる!
足元のペダルを優しく踏んだり、弾《はじ》いたり、全身を使って音楽を、歴史を、祈りを表現する——そしてその想いを歌う友人たちにピアノの音を届け、広いホール、いや世界じゅうへと響かせる!
完璧な演奏ではない。だが、仲間たちに愛され、共に創り上げるこれは——素晴らしい音楽なのだ。
合唱が終わると、一番手とは思えないほどの大歓声と拍手が巻き起こる。振り向いたストレンが、似合わない笑顔をこちらに向けて「よくやった」とでも言いたげに鼻で笑った。
「アルトラ、すごい、すごかったよ!」
「ほんと……頑張って、練習したんだね……っ……お疲れ様!」
「いや、これはコンクールまで行けるよ。私だって、アルトラくんがいない間合唱係として頑張ったし」
クラスメイトのちっちゃい女子三人組——いつの間にあんなに仲良くなったのかは知らないが、リンとセノ、ナトリがクラスの席に戻る途中で声をかけてくれた。
「うぁ……き、緊張したぁ……っ……」
「あ、アルトラ!? 大丈夫!?」
「吐きそう……ちょっと、お手洗い……」
「つ、連れてくよ……! ごめん二人とも、先生に言っておいて!」
胃が、痛い——こんなに緊張したのは、多分生まれてはじめてだった。それでも、やり遂げた——
背中をさすりながら肩を貸してくれるリンと共に、そのままホールの階段を登ってお手洗いへと向かったのだった。
第18話『理想』
第18話『理想』
修学旅行二日目の朝。起きたとき、誰かに手を握られていることに気が付いた。よっぽど寝相の悪い誰かが、寂しくてそうしたのだろうと思い、私はその可愛い犯人の顔を見た。
そこに寝ていたのは、私と同じで小さく華奢な身体の少女——リンだった。私たちはセノを挟んで眠っていたはずなのだが、彼女はいつの間にか私の隣に来て、ずっとこの手を握っていたらしい。
「ん……かなちゃん……」
「……おはよ、リンちゃん。起こしてごめんね」
「うん——おはよう、ナトリちゃん」
私たちはもう、古い名前で互いを呼ばない。私は自分の名前が嫌いだし、幼馴染を見捨てた私には——もう、彼女を愛称で呼ぶ資格なんてない。
そっと離れていった左手を目で追い、寝起きからきれいなさらさらの髪を揺らす彼女と微笑みあった。
「私は髪|梳《と》いてくるから、また後でね」
「手伝うよ。私は手ぐしで終わっちゃうし」
「あはは、羨ましい。みんなの前でそれ言ったら怒られちゃうよ」
「えへへ、いいでしょ。ナトリちゃんも可愛くしてあげるからね」
私の手を掴んで立ち上がったリンは、まだ寝ているクラスメイトたちの髪の毛を踏まないように部屋の隅まで移動してから、既に何人もの生徒たちが集まっている化粧台の前に向かったのだった。
「それでね、私アルトラに抱き着いちゃって」
「あはは、アルトラくんも幸せ者だなぁ。リンちゃんに抱き着かれたら、断れる男なんていないよ」
「えへっ。でも、最初抱き返してもくれなかったんだよ?」
彼女たちの幸せの馴れ初めを聞かされながら、丁寧に私の髪を梳かしてくれるリンの笑顔を鏡越しに見る。その笑顔は、間違いなくまだ幼い頃——汚れを知らなかった頃のもので、私がずっと大好きだったものだった。
彼女は最後まで耐えたのだ。痛みと苦しみを耐え、怒りと憎しみを耐え、私が耐えきれずにこぼした言葉を許し、最後には私を抱きしめ、この汚れを愛してくれた。
「あ、おはよ二人とも」
「おはよ、セノちゃん」
「起こしてくれても良かったのに。ボク——私、髪の毛のセットに時間かかるからさ……」
「あはは、セノは天パだもんね」
「ストレートヘア羨ましい……リンちゃんに至っては5分でセットおわりそうだしね……」
「? 30秒もあれば終わるけど……」
「……ほんと羨ましい」
私たちの隣に座ったセノはアメニティの小さな櫛ではなく、持ち込みの大きなパドルブラシで先端からゆっくりと梳きはじめた。
「あ、手伝うよ。ナトリちゃんの髪、もうすぐ終わるから」
「え、いいの? じゃあお願いしちゃおっかな」
「えへへ、アルトラ以外の天パ触るの初めてだから、楽しみ」
修学旅行二日目。旅先のいつもとは違う環境、いつもより濃密な時間。私たちは絡みついた因縁を梳き解しながら、静かな朝を送った。
この三人でこうしてまた話が出来る日が来ただけでも、私は幸せだった。過ぎる程に幸せだったはずなのだ。
———————
その日の朝食後に行われた合唱では、私たちのクラスはくじ引きで一番を務めさせられたが、ピアノ奏者のアルトラの鼓舞もあり、練習以上の結果を出せたと思う。
……私は音楽が嫌いだ。母を思い出すから。
それでも楽器を手放せないのは、その楽しさを忘れられないからなのだろう。結局合唱係なんかになって、隣で感極まって泣きそうになっているセノを見ていると、こちらまで感動してしまう。
「あの、先生。うちのクラスのアルトラくん、ちょっと胃を痛めたみたいで……今保健委員のリンちゃんに連れられてお手洗いに行ってるんで、様子見てきて上げてください」
「そっか、分かりました——そっちの子は大丈夫?」
「ああっ……はいっ、ボクは大丈夫っ、ですっ……」
「この子はちょっと泣き虫なだけなんで……」
「ううっ……すごかった、すごかったよぉ……」
本当にやめてほしい。私まで泣きそうになる。昨日何年分も泣いたばかりなのだから、これ以上泣かせないでほしい。
次のクラスがひな壇に登り終わり、うちの担任が指揮を始めて次の曲が演奏されるなか、私たちは自分たちの合唱の余韻に浸りながら、自分たちの席に戻る。
そして次のクラス——吹奏楽部の友人である恵美《メグ》がピアノを演奏する四組の合唱が始まった。
メグのピアノは自由だ。アルトラのそれとは異なり、軽やかで華やかな演奏——正直演目とは相性が悪いが、それでも明らかにピアノの腕は彼より上だった。
際立つソプラノの美声は、昨日少し行動を共にした風紀委員長、スズのものだと分かる。三組《私たち》の合唱も素晴らしいものではあったが、他のクラスも手を抜いているわけではないようだ。
勝たなくてはならないという使命感だとか、どちらがより優れているかを競うようなつもりもないし——負けず嫌いのリンやセノの前では言いづらいが、こんなもの所詮は運なのだ。
それはつまり、審査員の好みが何であるか。
それが突出した個なのか、全体の調和なのか。私のような『|独奏者《ソリスト》』から言わせてもらえば、そもそも合唱も吹奏楽も馬鹿馬鹿しい——理想を持たない奴隷たちが、誰かに追随するだけのそれを、私は音楽とは呼びたくない。
それなのに私は合唱や合奏に感動する。自分でもわけが分からないが——それは私の理想とはかけ離れているはずなのに、感動してしまうのだ。
ぜんぶ嫌いなのに。どうしてもしがみついてしまうのだ。
きっと私の安っぽい覚悟は、また私に逃げ道を許してしまうだろう。だから私は自らの逃げ道を塞ぐために、すべての選択肢を閉ざさなくてはならない。
すべては、たった一つの理想のために——
修学旅行二日目の朝。起きたとき、誰かに手を握られていることに気が付いた。よっぽど寝相の悪い誰かが、寂しくてそうしたのだろうと思い、私はその可愛い犯人の顔を見た。
そこに寝ていたのは、私と同じで小さく華奢な身体の少女——リンだった。私たちはセノを挟んで眠っていたはずなのだが、彼女はいつの間にか私の隣に来て、ずっとこの手を握っていたらしい。
「ん……かなちゃん……」
「……おはよ、リンちゃん。起こしてごめんね」
「うん——おはよう、ナトリちゃん」
私たちはもう、古い名前で互いを呼ばない。私は自分の名前が嫌いだし、幼馴染を見捨てた私には——もう、彼女を愛称で呼ぶ資格なんてない。
そっと離れていった左手を目で追い、寝起きからきれいなさらさらの髪を揺らす彼女と微笑みあった。
「私は髪|梳《と》いてくるから、また後でね」
「手伝うよ。私は手ぐしで終わっちゃうし」
「あはは、羨ましい。みんなの前でそれ言ったら怒られちゃうよ」
「えへへ、いいでしょ。ナトリちゃんも可愛くしてあげるからね」
私の手を掴んで立ち上がったリンは、まだ寝ているクラスメイトたちの髪の毛を踏まないように部屋の隅まで移動してから、既に何人もの生徒たちが集まっている化粧台の前に向かったのだった。
「それでね、私アルトラに抱き着いちゃって」
「あはは、アルトラくんも幸せ者だなぁ。リンちゃんに抱き着かれたら、断れる男なんていないよ」
「えへっ。でも、最初抱き返してもくれなかったんだよ?」
彼女たちの幸せの馴れ初めを聞かされながら、丁寧に私の髪を梳かしてくれるリンの笑顔を鏡越しに見る。その笑顔は、間違いなくまだ幼い頃——汚れを知らなかった頃のもので、私がずっと大好きだったものだった。
彼女は最後まで耐えたのだ。痛みと苦しみを耐え、怒りと憎しみを耐え、私が耐えきれずにこぼした言葉を許し、最後には私を抱きしめ、この汚れを愛してくれた。
「あ、おはよ二人とも」
「おはよ、セノちゃん」
「起こしてくれても良かったのに。ボク——私、髪の毛のセットに時間かかるからさ……」
「あはは、セノは天パだもんね」
「ストレートヘア羨ましい……リンちゃんに至っては5分でセットおわりそうだしね……」
「? 30秒もあれば終わるけど……」
「……ほんと羨ましい」
私たちの隣に座ったセノはアメニティの小さな櫛ではなく、持ち込みの大きなパドルブラシで先端からゆっくりと梳きはじめた。
「あ、手伝うよ。ナトリちゃんの髪、もうすぐ終わるから」
「え、いいの? じゃあお願いしちゃおっかな」
「えへへ、アルトラ以外の天パ触るの初めてだから、楽しみ」
修学旅行二日目。旅先のいつもとは違う環境、いつもより濃密な時間。私たちは絡みついた因縁を梳き解しながら、静かな朝を送った。
この三人でこうしてまた話が出来る日が来ただけでも、私は幸せだった。過ぎる程に幸せだったはずなのだ。
———————
その日の朝食後に行われた合唱では、私たちのクラスはくじ引きで一番を務めさせられたが、ピアノ奏者のアルトラの鼓舞もあり、練習以上の結果を出せたと思う。
……私は音楽が嫌いだ。母を思い出すから。
それでも楽器を手放せないのは、その楽しさを忘れられないからなのだろう。結局合唱係なんかになって、隣で感極まって泣きそうになっているセノを見ていると、こちらまで感動してしまう。
「あの、先生。うちのクラスのアルトラくん、ちょっと胃を痛めたみたいで……今保健委員のリンちゃんに連れられてお手洗いに行ってるんで、様子見てきて上げてください」
「そっか、分かりました——そっちの子は大丈夫?」
「ああっ……はいっ、ボクは大丈夫っ、ですっ……」
「この子はちょっと泣き虫なだけなんで……」
「ううっ……すごかった、すごかったよぉ……」
本当にやめてほしい。私まで泣きそうになる。昨日何年分も泣いたばかりなのだから、これ以上泣かせないでほしい。
次のクラスがひな壇に登り終わり、うちの担任が指揮を始めて次の曲が演奏されるなか、私たちは自分たちの合唱の余韻に浸りながら、自分たちの席に戻る。
そして次のクラス——吹奏楽部の友人である恵美《メグ》がピアノを演奏する四組の合唱が始まった。
メグのピアノは自由だ。アルトラのそれとは異なり、軽やかで華やかな演奏——正直演目とは相性が悪いが、それでも明らかにピアノの腕は彼より上だった。
際立つソプラノの美声は、昨日少し行動を共にした風紀委員長、スズのものだと分かる。三組《私たち》の合唱も素晴らしいものではあったが、他のクラスも手を抜いているわけではないようだ。
勝たなくてはならないという使命感だとか、どちらがより優れているかを競うようなつもりもないし——負けず嫌いのリンやセノの前では言いづらいが、こんなもの所詮は運なのだ。
それはつまり、審査員の好みが何であるか。
それが突出した個なのか、全体の調和なのか。私のような『|独奏者《ソリスト》』から言わせてもらえば、そもそも合唱も吹奏楽も馬鹿馬鹿しい——理想を持たない奴隷たちが、誰かに追随するだけのそれを、私は音楽とは呼びたくない。
それなのに私は合唱や合奏に感動する。自分でもわけが分からないが——それは私の理想とはかけ離れているはずなのに、感動してしまうのだ。
ぜんぶ嫌いなのに。どうしてもしがみついてしまうのだ。
きっと私の安っぽい覚悟は、また私に逃げ道を許してしまうだろう。だから私は自らの逃げ道を塞ぐために、すべての選択肢を閉ざさなくてはならない。
すべては、たった一つの理想のために——
第19話『適切』
第19話『適切』
鳥居を堺に常世《とこよ》と神世《かみよ》が隔たれている、という話を聞いたことがある。だから、あんなに陸から遠いところにその門たる鳥居を作ったのは、潮の満ち引きを利用して人の世に降りた神様たちを少しでも長く引き止めたかったからなのではないか、と邪推してしまう。
実際神様にとってこの宮殿は住心地が良さそうだ。少しでも長くこの世界にいてもらうために——気に入ってもらうために、喜んでもらえるものを捧げているのだ。
ボクにとってのレンは、きっと昔の人たちにとっての神様なのだろう。気まぐれな彼のすべてを理解することなど、きっと出来ないのに——それでも知りたいと、繋ぎ止めていたいという気持ちがあった。
「いやー……神社なんて見て何が楽しいんだろうね?」
「えっと、ほら……綺麗だし、なんか和《わ》って感じで……素敵だと思わない?」
「うわー、セノは本当にいい子だね……まあ船乗れただけでも私は満足してるけど」
「……帰りも船かぁ、やだなぁ」
船酔いしているうちにレンとはぐれてしまった私と、そんな私をおちょくって遊んでいたメグで観光をしながら——彼女はむしろ干潟に潜む珍食材の方に興味があるようだが——とにかく、二人で時間を潰すために歩き回った。
意外としっかりとしている干潟を歩きながら大鳥居を見上げ、大きいなぁ、という感想を持って戻って来た頃には、遂にやることがなくなってしまっていた。
「あ、賽銭箱|空《す》いてきてるよ」
「……五円玉ないや。セノは二枚持ってたりしない?」
「いや、五円玉は一枚しか持ってない……けど、いいよ、あげる。私百円玉入れるから」
「わお、意外とセノって信心深いんだ?」
「うーん……どうなんだろう。この神社には少し、親近感が湧いてるけどね」
他愛もない会話をしながら、私たちは近くにある賽銭箱が少し空き始めたのを見計らって並び始めた。
そこに一人で干潟を歩いていたレンが私たちを見つけて近付いてくる。メグは彼の姿を見るなり露骨に嫌そうな——冗談めかした嫌がり方ではなく、本気の嫌悪感を表に出したのだった。
「げぇっ、ストレン……うわ、こっち来るし」
「メグってレンくんのこと苦手なんだね……」
「だってあいつ、初対面で私の肩に触ってきたんだよ!? 引っ叩いたら『理解不能だ』って顔されたし、ほんとわけわかんない!」
「あー……私も初対面のときにやられたなぁ」
そういえば、あれ以来人前でレンに触られていない気がする。もしかするとあれは、彼なりの——気に入った女の子への「はじめまして」なのではないだろうか。
……いや、理解は出来ないが。彼にとっては何かしらの意図があるのかもしれない。
「やあ、セノ——それと、メグミ?」
「……後藤《ごとう》って呼んで」
「やあ、後藤。四組のピアノの子だったよね」
「そうだけど。あと、お前のとこの元生徒だけど」
「ああ、そうだったね」
「……えっ、ソルフェージュ須藤《すどう》の?」
「うん。私、元々ストレンのお母さんにピアノ教えてもらってたから」
まさか、そんなつながりがあったとは。メグは北小出身とはいえ、レンの家がある山北小校区からは相当距離があるはずだが……
ボクは世界の狭さに一人驚いていたが、ストレンと呼ばれたレンが不愉快そうな表情でメグを睨んでおり——神聖な神社のなかで、ピリッとした空気が流れ始めていた。
「私のお母さんと先生——こいつのお母さんが、高校の頃の同級生だったらしいの。それで、私もお母さんも泣きながら先生のお葬式に出たのに——こいつは、ずっとニヤニヤして、女の子の泣き顔を見て喜んでて——!」
「別に。素晴らしい感情表現だと思っていただけだ。母さんが死んだのはまあ、少し残念だが——」
「少し——? ああ、うん。私はやっぱりストレンとは相容れない。こいつは女にしか興味のない、最低のサイコパスだから」
メグは見るからに不機嫌そうに目を閉じながら、思い浮かべているであろう光景を消し去るべく首を振った。
誰にも理解出来ない。レンが何故悲しまないのか。何故母親の死を嘆くどころか、一切の感情なく受け入れているのか——
「『C線上のフォルテシモ』——だったか。そうあることだけを望む楽器。誰かが奏でるままに響くことを望む音楽」
「……それ、セノのことでしょ」
「俺もそうだ。生まれたときから他人《ヒト》が何を考えているかなんて理解出来ず、その顔さえまともに認識出来ない。ここもそうだ。神々が来ることを望み、使われるだけの場所」
「……何が言いたいの」
「君はピアノの弦を直接|弾《はじ》いて弾《ひ》くか? ティンパニでピアノの音を奏でるか? それが間違った道具の使い方だとは思わないのか?」
私に楽器はわからない。しかし、ピアノの弦は本来直接触れるものではないということくらいは知っている。それにティンパニ——? 少なくともピアノではない楽器では、ピアノの音は奏でられないだろう。
「俺が君の気に入る態度を示さないからと言って怒るのは、ティンパニに怒るのと何が違う? 楽譜が違うんだ。俺と君たちでは、見られる世界が違う。それを理解した上で俺は諦めている」
「——それが出来ないのと、人を不快にさせるのは別でしょ」
「勝手に人の顔を覗いて不快になってるのは君たちだ。興味がなければ無視すればいい」
「……ああもう。行こ、セノ。こんなやつには関わっちゃだめ、どうせカラダ目当てのサイコ野郎なんだから」
「あっ……」
メグが私の手を引いて賽銭箱の列から抜けようとしたが、ボクは無意識に彼女の手から逃げ出し、親友ではなくレンの元に残ろうとした。
それでメグが少しショックを受けたところで——レンは追い打ちをかけるかのように、周りの生徒に聞こえることすら気にせず、ボクたちの秘密を暴露した。
「もう、セノとはカラダの関係だ。みなが皆《みな》、理解出来ない相手を拒絶するわけじゃない」
——メグが手に握っていた五円玉が、潮風に晒されて風化したコンクリートの上で鳴る音がよく響いた。
メグはひきつった笑顔、憎しみを込めた嘲笑を今しがた背を向けたばかりのレンに向けてから、ボクの目を見てゆっくりと小さく首を振る。
「——カラダの関係って……えっ、なに、私の聞き間違いか勘違い……?」
「いや。聞き間違いではない。俺とセノは、性行為をした。それも一度や二度ではない」
「セノ……!」
メグや周りに向けられる目。レンに向けられるそれは羨望。ボクに向けられるそれは——愚か者を嘲《あざけ》り、罰するが如く排しようとする、異物、汚物を見る目だ。
——この女は、処女ではないぞと。それだけで私は価値を失ったようで、周囲の人たちの間でキズモノの値下げが行われた。
「無理やり、されたんだよね? 脅されてた? ねえ、セノ——」
「ううん、私は……」
退路を用意してくれたメグ。私は与えたのではなく奪われたのだと——そういうことにして、心まで安く見積もられないように気を遣ってくれた。
しかしボクは——言いふらすつもりなどなかったが、別に隠すつもりもない。ボクは『処女』という価値をレンに捧げたのだから。
「ボクは、自分で望んでレンくんとえっちしてる。セックスしてる間は、レンくんの本当の気持ちが、少しだけでも理解出来るから——」
「バカ!!」
メグが怒鳴る。周りの男たちはボクの顔を、胸を、お尻を、容姿を、その心のうちで我が物にしたつもりになり——決して手に入らないこの身体を、頭の中で蹂躙しているのだろう。
——軽い女だと。ヤれるかもしれないと。
「不思議だよね。男と女、貞操観念が違うっていうか——女を求める男は悪で、受け入れてしまった女は愚かなんだから。あはは、でも——リンちゃんたちがヤッてるって聞いたら、みんな納得するだろうから……なんなんだろうね、この違いって」
あのカップルが愛を育んでいるという事実は、きっと普通に受け入れられるだろう。ヤッていなければ、むしろ不自然だと。しかし委員長たち——スズとケイのカップルがヤッていたのだとしたら、スズの評価もまた落ちてしまう気がする。
そうだ。ボクたちは、結局のところ——
「誰かが、自分にとっての楽器——イメージした通りの存在で、イメージした通りの行動をしなければ、気に入らないんだろうね」
「……セノ?」
「キレイであってほしかった? 処女で居続けてほしかった? それはいつまで? それはなんのため? それは誰のため?」
だから人は、レンを理解しようとすらしない。理解されたければ自らのイメージの通りになれと——そうでなければ、異常者《サイコパス》として非人扱いする。
ボクが、ボクのことをボクと呼ぶことすら許してくれない彼らのイメージは。ボクが男になることに憧れたことすら、気持ちが悪いと言う世界は。
——端っから、ボクを受け入れるつもりなんてない。
「それでもボクは、ボクだよ」
女の子らしい仕草で、小首を傾げて可愛らしく——私は世界に宣言した。
私は、私である前に、ボクなのだと。
「ご……ごめん、セノ——」
「ううん、いいの……」
それでも、親友なら理解してくれる。私はそう信じていた——私が私であった理由も忘れて。
「いや……流石にちょっと、私には理解出来ないわ……」
そう言い残したメグは、ゆっくりと後ずさりをしながら、落としたお金も拾わずに参拝の列を抜け、どこかに行ってしまったのだった。
鳥居を堺に常世《とこよ》と神世《かみよ》が隔たれている、という話を聞いたことがある。だから、あんなに陸から遠いところにその門たる鳥居を作ったのは、潮の満ち引きを利用して人の世に降りた神様たちを少しでも長く引き止めたかったからなのではないか、と邪推してしまう。
実際神様にとってこの宮殿は住心地が良さそうだ。少しでも長くこの世界にいてもらうために——気に入ってもらうために、喜んでもらえるものを捧げているのだ。
ボクにとってのレンは、きっと昔の人たちにとっての神様なのだろう。気まぐれな彼のすべてを理解することなど、きっと出来ないのに——それでも知りたいと、繋ぎ止めていたいという気持ちがあった。
「いやー……神社なんて見て何が楽しいんだろうね?」
「えっと、ほら……綺麗だし、なんか和《わ》って感じで……素敵だと思わない?」
「うわー、セノは本当にいい子だね……まあ船乗れただけでも私は満足してるけど」
「……帰りも船かぁ、やだなぁ」
船酔いしているうちにレンとはぐれてしまった私と、そんな私をおちょくって遊んでいたメグで観光をしながら——彼女はむしろ干潟に潜む珍食材の方に興味があるようだが——とにかく、二人で時間を潰すために歩き回った。
意外としっかりとしている干潟を歩きながら大鳥居を見上げ、大きいなぁ、という感想を持って戻って来た頃には、遂にやることがなくなってしまっていた。
「あ、賽銭箱|空《す》いてきてるよ」
「……五円玉ないや。セノは二枚持ってたりしない?」
「いや、五円玉は一枚しか持ってない……けど、いいよ、あげる。私百円玉入れるから」
「わお、意外とセノって信心深いんだ?」
「うーん……どうなんだろう。この神社には少し、親近感が湧いてるけどね」
他愛もない会話をしながら、私たちは近くにある賽銭箱が少し空き始めたのを見計らって並び始めた。
そこに一人で干潟を歩いていたレンが私たちを見つけて近付いてくる。メグは彼の姿を見るなり露骨に嫌そうな——冗談めかした嫌がり方ではなく、本気の嫌悪感を表に出したのだった。
「げぇっ、ストレン……うわ、こっち来るし」
「メグってレンくんのこと苦手なんだね……」
「だってあいつ、初対面で私の肩に触ってきたんだよ!? 引っ叩いたら『理解不能だ』って顔されたし、ほんとわけわかんない!」
「あー……私も初対面のときにやられたなぁ」
そういえば、あれ以来人前でレンに触られていない気がする。もしかするとあれは、彼なりの——気に入った女の子への「はじめまして」なのではないだろうか。
……いや、理解は出来ないが。彼にとっては何かしらの意図があるのかもしれない。
「やあ、セノ——それと、メグミ?」
「……後藤《ごとう》って呼んで」
「やあ、後藤。四組のピアノの子だったよね」
「そうだけど。あと、お前のとこの元生徒だけど」
「ああ、そうだったね」
「……えっ、ソルフェージュ須藤《すどう》の?」
「うん。私、元々ストレンのお母さんにピアノ教えてもらってたから」
まさか、そんなつながりがあったとは。メグは北小出身とはいえ、レンの家がある山北小校区からは相当距離があるはずだが……
ボクは世界の狭さに一人驚いていたが、ストレンと呼ばれたレンが不愉快そうな表情でメグを睨んでおり——神聖な神社のなかで、ピリッとした空気が流れ始めていた。
「私のお母さんと先生——こいつのお母さんが、高校の頃の同級生だったらしいの。それで、私もお母さんも泣きながら先生のお葬式に出たのに——こいつは、ずっとニヤニヤして、女の子の泣き顔を見て喜んでて——!」
「別に。素晴らしい感情表現だと思っていただけだ。母さんが死んだのはまあ、少し残念だが——」
「少し——? ああ、うん。私はやっぱりストレンとは相容れない。こいつは女にしか興味のない、最低のサイコパスだから」
メグは見るからに不機嫌そうに目を閉じながら、思い浮かべているであろう光景を消し去るべく首を振った。
誰にも理解出来ない。レンが何故悲しまないのか。何故母親の死を嘆くどころか、一切の感情なく受け入れているのか——
「『C線上のフォルテシモ』——だったか。そうあることだけを望む楽器。誰かが奏でるままに響くことを望む音楽」
「……それ、セノのことでしょ」
「俺もそうだ。生まれたときから他人《ヒト》が何を考えているかなんて理解出来ず、その顔さえまともに認識出来ない。ここもそうだ。神々が来ることを望み、使われるだけの場所」
「……何が言いたいの」
「君はピアノの弦を直接|弾《はじ》いて弾《ひ》くか? ティンパニでピアノの音を奏でるか? それが間違った道具の使い方だとは思わないのか?」
私に楽器はわからない。しかし、ピアノの弦は本来直接触れるものではないということくらいは知っている。それにティンパニ——? 少なくともピアノではない楽器では、ピアノの音は奏でられないだろう。
「俺が君の気に入る態度を示さないからと言って怒るのは、ティンパニに怒るのと何が違う? 楽譜が違うんだ。俺と君たちでは、見られる世界が違う。それを理解した上で俺は諦めている」
「——それが出来ないのと、人を不快にさせるのは別でしょ」
「勝手に人の顔を覗いて不快になってるのは君たちだ。興味がなければ無視すればいい」
「……ああもう。行こ、セノ。こんなやつには関わっちゃだめ、どうせカラダ目当てのサイコ野郎なんだから」
「あっ……」
メグが私の手を引いて賽銭箱の列から抜けようとしたが、ボクは無意識に彼女の手から逃げ出し、親友ではなくレンの元に残ろうとした。
それでメグが少しショックを受けたところで——レンは追い打ちをかけるかのように、周りの生徒に聞こえることすら気にせず、ボクたちの秘密を暴露した。
「もう、セノとはカラダの関係だ。みなが皆《みな》、理解出来ない相手を拒絶するわけじゃない」
——メグが手に握っていた五円玉が、潮風に晒されて風化したコンクリートの上で鳴る音がよく響いた。
メグはひきつった笑顔、憎しみを込めた嘲笑を今しがた背を向けたばかりのレンに向けてから、ボクの目を見てゆっくりと小さく首を振る。
「——カラダの関係って……えっ、なに、私の聞き間違いか勘違い……?」
「いや。聞き間違いではない。俺とセノは、性行為をした。それも一度や二度ではない」
「セノ……!」
メグや周りに向けられる目。レンに向けられるそれは羨望。ボクに向けられるそれは——愚か者を嘲《あざけ》り、罰するが如く排しようとする、異物、汚物を見る目だ。
——この女は、処女ではないぞと。それだけで私は価値を失ったようで、周囲の人たちの間でキズモノの値下げが行われた。
「無理やり、されたんだよね? 脅されてた? ねえ、セノ——」
「ううん、私は……」
退路を用意してくれたメグ。私は与えたのではなく奪われたのだと——そういうことにして、心まで安く見積もられないように気を遣ってくれた。
しかしボクは——言いふらすつもりなどなかったが、別に隠すつもりもない。ボクは『処女』という価値をレンに捧げたのだから。
「ボクは、自分で望んでレンくんとえっちしてる。セックスしてる間は、レンくんの本当の気持ちが、少しだけでも理解出来るから——」
「バカ!!」
メグが怒鳴る。周りの男たちはボクの顔を、胸を、お尻を、容姿を、その心のうちで我が物にしたつもりになり——決して手に入らないこの身体を、頭の中で蹂躙しているのだろう。
——軽い女だと。ヤれるかもしれないと。
「不思議だよね。男と女、貞操観念が違うっていうか——女を求める男は悪で、受け入れてしまった女は愚かなんだから。あはは、でも——リンちゃんたちがヤッてるって聞いたら、みんな納得するだろうから……なんなんだろうね、この違いって」
あのカップルが愛を育んでいるという事実は、きっと普通に受け入れられるだろう。ヤッていなければ、むしろ不自然だと。しかし委員長たち——スズとケイのカップルがヤッていたのだとしたら、スズの評価もまた落ちてしまう気がする。
そうだ。ボクたちは、結局のところ——
「誰かが、自分にとっての楽器——イメージした通りの存在で、イメージした通りの行動をしなければ、気に入らないんだろうね」
「……セノ?」
「キレイであってほしかった? 処女で居続けてほしかった? それはいつまで? それはなんのため? それは誰のため?」
だから人は、レンを理解しようとすらしない。理解されたければ自らのイメージの通りになれと——そうでなければ、異常者《サイコパス》として非人扱いする。
ボクが、ボクのことをボクと呼ぶことすら許してくれない彼らのイメージは。ボクが男になることに憧れたことすら、気持ちが悪いと言う世界は。
——端っから、ボクを受け入れるつもりなんてない。
「それでもボクは、ボクだよ」
女の子らしい仕草で、小首を傾げて可愛らしく——私は世界に宣言した。
私は、私である前に、ボクなのだと。
「ご……ごめん、セノ——」
「ううん、いいの……」
それでも、親友なら理解してくれる。私はそう信じていた——私が私であった理由も忘れて。
「いや……流石にちょっと、私には理解出来ないわ……」
そう言い残したメグは、ゆっくりと後ずさりをしながら、落としたお金も拾わずに参拝の列を抜け、どこかに行ってしまったのだった。
第20話『歪み』
第20話『歪み』
大鳥居への参拝が終わり、暇を持て余したカップル二組と私の五人で各々の死生観などについて語り合っていたところに、複雑そうな顔をした恵美《メグ》がやってきた。
「……それで、こっちに来たのね」
そんなメグを受け入れたのは彼女のクラスメイトでもあるスズで、セノの淫《みだ》れた本性を受け入れきれない少女をこの哲学コミュニティは受け入れた。
「——相手、やっぱり須藤《すどう》くんだったんだね」
「……リンは知ってたのね?」
「うん……相談、受けてたから。相手は聞かなかったけど、付き合ってないのに、えっと……しちゃったって」
三年生になってすぐにセノと仲を取り戻していたリンは、以前からある程度話を聞かされていたらしく、すんなりと事情を飲み込んだ。
一方でスズとケイは眉をひそめており、セノの軽率な行動を咎めているように見えた——あるいは単に、急に舞い込んだ新しい友人のスキャンダルに驚いているだけか。
「——あの子、開き直って『自分がイメージ通りじゃないから怒ってるんでしょ』って……」
「……あの、なんで『セノが悪い』みたいな話になってんのか分かんないんだけど——これ、僕が口出ししていいやつ?」
「好きにしてろよ……僕らにはちょっと毒が強すぎる」
清純カップルの二人はやはりこの手の話題を避けたいのだろう。しかしここにはそういう話が出来る女が二人に——ほぼ確実に非童貞のアルトラ。ある程度性的な話題もオープンに出来そうだった。
そんな私たちに議論を投げ、ケイはスズの手を引いてこの場から離れていったのだった。
「それで、なんでセノが悪いって話なんだ?」
「女の子が簡単に男を受け入れて、処女まで捧げたとなれば——悪いっていうより、頭が変なんじゃないかと思うのは普通の感覚だと思う」
男と女の価値観の違いだろうか。私はアルトラがそもそもの問題を理解していない可能性を考えて補足した。
それでもアルトラはセノが愚かと言われる理由を理解しかねているのか、異性しかいないこの場所で性の話を続けた。
「でも僕は——ごめんリン。僕は正直、リンに身体を求められるならいくらでも差し出すし、実際付き合う前に僕を押し倒そうとしてたらしいんだけど……それでも受け入れていたと思うんだよ」
「それは……だってアルトラくんは男の子でしょ!」
メグは男女の貞操観念の違いを理解していなさそうな発言をしたアルトラに文句をつけた。
しかしアルトラは話を続ける。
「うん。でも、立場が逆だったら。リンは、もしあのとき僕が勢いで押し倒してたとして——僕のことを受け入れた?」
「……多分、喜んで受け入れたかな」
「まあ変な話、好きな人に本気で求められれば、男女関係なく嬉しいんじゃないかって——」
「そういう、もんなんだ?」
リンとアルトラがすでに交わっていることが確定し、少しショックを受けた。望まない形で身体を求められた彼女が——誰かに求められることを喜ぶとは、思わなかったのだ。
しかしこの場の女性陣で唯一『性行為の気持ち良さ』を知っているであろうリンは、セノを擁護し始めた。
「ねえ、恵美《めぐみ》ちゃん」
「メグでいいよ。みんなそう呼ぶし」
「うん。じゃあ、メグちゃんは——なんでセノちゃんが本当はえっちな子だと、困るの?」
「えっ……? いや、困りはしないけど……えっ?」
ほぼ初対面の相手にそのような質問をされ、メグは困惑する。だが確かに、セノがどのような選択をしていようと——私たちは誰一人として、困るはずがない。
そこにあるのは、逸脱者に対する処罰感情。隠している部分を勝手に覗いた上で、土足で踏み込み荒らそうとするようなものだった。
「それは私たちに『チビだから不快』って言ってるのと、変わんないと思う——目に見えない部分だから、気付いたときにびっくりするのは分かるけど、それが不快だってのは、言われたところで本人にはどうしようもないんじゃないかな」
「——でも、性欲は我慢すればいいじゃない」
「ううん、無理だよメグちゃん。流石に、私だって人前でアルトラといきなりえっちしたりしないと思うけど……正直今二人きりになったなら、抑えきれないかな」
「ひえっ……」
「ご飯を我慢しろというのと、何ら変わりないと思うの」
……誰が言ったか三大欲求。食欲、睡眠欲という生存に不可欠な要素に加えて挙げられる性欲は——簡単に抑えられるものではない。
それを誰にも気付かれないように処理していたのに、暴かれた密事を指して恥ずかしいことだと、罰されるべきだと思うのは——言われてみれば、あまりにも勝手なのだ。
「だから……その、セノちゃんをこれで悪い子だって思うのは——メグちゃんの自分勝手なんじゃないかって、私は思う」
「……! 別に、私はセノのこと悪いだなんて思ってないけど……あの子、どこか抜けてて危ういんだから!」
「セノちゃんは、ちゃんと自分で考えて生きてるの。少なくとも——無理矢理されて泣いてるようには、見えない」
リンは自らの左手首をなでながら、セノが自らの意思で大切な初めてを誰かに捧げられたことを祝福する。
私たちのように望まない相手にはじめてを奪われたわけでもなく、その相手に嫌悪感を抱くわけでもない彼女は——輝いて見えるのだ。例えそれが一方通行の恋心と、それを喰らう欲望なのだとしても。
「——性行為をそこまで禁忌《タブー》視するのも、僕はどうかと思うな。まあリスクがあるのは分かるし、それで愚かだ、危険だと言って避けるのも仕方がないとは思うけど」
皆《みな》が自由で好き勝手に生きて衝突する世界を避けるために、個人の自由を制限する『社会《リヴァイアサン》』は、民意を利用して他の個人の意思を不快なものとして制限しようとする。
しかしリンとアルトラはこの理不尽な収奪システムに反対しており、守られるべき自由の線引きをしているようだ。
「うん、まあ……ちょっとショックで驚いたのは認めるけど——セノの自由、だもんね……うん」
「いや、多分スズ——さっきまでいたヤツに聞けば真逆の意見が返ってくるし、無理に納得しなくてもいいんだぞ。僕らは一般論が感情ベースのところに変な論理持ち込んで、自分たちの性行為を正当化したいだけなんだからさ」
私たちはアルトラの目線を追い、鳥居への興味をなくしたストレンに置いていかれないように慌てて追いかけるセノを見た。
そしてアルトラはため息を吐いて、今度はメグの気持ちを擁護し始める。
「実際、相手が相手だし……不安になる気持ちは分かるよ」
「よりにもよって……セノ、なんであんなやつのこと好きになっちゃったんだろう……」
「あはは……私も多分、アルトラと関わり始めたころに同じようなこと思われてたんだろうな……」
この人は好きになってもいい。この人は駄目だ。相応しくない。不釣り合い。外野は言いたい放題だ。私だって——リンがアルトラと付き合うことを、本当は認めたくないのだから。
「うん——そうだよね、セノが誰と何をしていたって……私には、関係ない……」
「心配してもいいとは思うけど、干渉しすぎは良くないのかもねって。セノが危ういのは事実だろうし……」
アルトラは何故か少し遠い目をしてセノの一面を語った。
「っていうか、アルトラくんってセノと面識あるんだ——って、クラスメイトだからそりゃそうだよね」
……そういえば、アルトラは何故そこまでセノとまで仲が良いのだろうか。リンとセノがいっしょにいるところはたまに見かけるが、校内でセノとアルトラが話をしているのは滅多に見ないのに。
何故、そこまで知った口を効けるのだろうか——私はむしろ、それが少し気になってしまったのだった。
大鳥居への参拝が終わり、暇を持て余したカップル二組と私の五人で各々の死生観などについて語り合っていたところに、複雑そうな顔をした恵美《メグ》がやってきた。
「……それで、こっちに来たのね」
そんなメグを受け入れたのは彼女のクラスメイトでもあるスズで、セノの淫《みだ》れた本性を受け入れきれない少女をこの哲学コミュニティは受け入れた。
「——相手、やっぱり須藤《すどう》くんだったんだね」
「……リンは知ってたのね?」
「うん……相談、受けてたから。相手は聞かなかったけど、付き合ってないのに、えっと……しちゃったって」
三年生になってすぐにセノと仲を取り戻していたリンは、以前からある程度話を聞かされていたらしく、すんなりと事情を飲み込んだ。
一方でスズとケイは眉をひそめており、セノの軽率な行動を咎めているように見えた——あるいは単に、急に舞い込んだ新しい友人のスキャンダルに驚いているだけか。
「——あの子、開き直って『自分がイメージ通りじゃないから怒ってるんでしょ』って……」
「……あの、なんで『セノが悪い』みたいな話になってんのか分かんないんだけど——これ、僕が口出ししていいやつ?」
「好きにしてろよ……僕らにはちょっと毒が強すぎる」
清純カップルの二人はやはりこの手の話題を避けたいのだろう。しかしここにはそういう話が出来る女が二人に——ほぼ確実に非童貞のアルトラ。ある程度性的な話題もオープンに出来そうだった。
そんな私たちに議論を投げ、ケイはスズの手を引いてこの場から離れていったのだった。
「それで、なんでセノが悪いって話なんだ?」
「女の子が簡単に男を受け入れて、処女まで捧げたとなれば——悪いっていうより、頭が変なんじゃないかと思うのは普通の感覚だと思う」
男と女の価値観の違いだろうか。私はアルトラがそもそもの問題を理解していない可能性を考えて補足した。
それでもアルトラはセノが愚かと言われる理由を理解しかねているのか、異性しかいないこの場所で性の話を続けた。
「でも僕は——ごめんリン。僕は正直、リンに身体を求められるならいくらでも差し出すし、実際付き合う前に僕を押し倒そうとしてたらしいんだけど……それでも受け入れていたと思うんだよ」
「それは……だってアルトラくんは男の子でしょ!」
メグは男女の貞操観念の違いを理解していなさそうな発言をしたアルトラに文句をつけた。
しかしアルトラは話を続ける。
「うん。でも、立場が逆だったら。リンは、もしあのとき僕が勢いで押し倒してたとして——僕のことを受け入れた?」
「……多分、喜んで受け入れたかな」
「まあ変な話、好きな人に本気で求められれば、男女関係なく嬉しいんじゃないかって——」
「そういう、もんなんだ?」
リンとアルトラがすでに交わっていることが確定し、少しショックを受けた。望まない形で身体を求められた彼女が——誰かに求められることを喜ぶとは、思わなかったのだ。
しかしこの場の女性陣で唯一『性行為の気持ち良さ』を知っているであろうリンは、セノを擁護し始めた。
「ねえ、恵美《めぐみ》ちゃん」
「メグでいいよ。みんなそう呼ぶし」
「うん。じゃあ、メグちゃんは——なんでセノちゃんが本当はえっちな子だと、困るの?」
「えっ……? いや、困りはしないけど……えっ?」
ほぼ初対面の相手にそのような質問をされ、メグは困惑する。だが確かに、セノがどのような選択をしていようと——私たちは誰一人として、困るはずがない。
そこにあるのは、逸脱者に対する処罰感情。隠している部分を勝手に覗いた上で、土足で踏み込み荒らそうとするようなものだった。
「それは私たちに『チビだから不快』って言ってるのと、変わんないと思う——目に見えない部分だから、気付いたときにびっくりするのは分かるけど、それが不快だってのは、言われたところで本人にはどうしようもないんじゃないかな」
「——でも、性欲は我慢すればいいじゃない」
「ううん、無理だよメグちゃん。流石に、私だって人前でアルトラといきなりえっちしたりしないと思うけど……正直今二人きりになったなら、抑えきれないかな」
「ひえっ……」
「ご飯を我慢しろというのと、何ら変わりないと思うの」
……誰が言ったか三大欲求。食欲、睡眠欲という生存に不可欠な要素に加えて挙げられる性欲は——簡単に抑えられるものではない。
それを誰にも気付かれないように処理していたのに、暴かれた密事を指して恥ずかしいことだと、罰されるべきだと思うのは——言われてみれば、あまりにも勝手なのだ。
「だから……その、セノちゃんをこれで悪い子だって思うのは——メグちゃんの自分勝手なんじゃないかって、私は思う」
「……! 別に、私はセノのこと悪いだなんて思ってないけど……あの子、どこか抜けてて危ういんだから!」
「セノちゃんは、ちゃんと自分で考えて生きてるの。少なくとも——無理矢理されて泣いてるようには、見えない」
リンは自らの左手首をなでながら、セノが自らの意思で大切な初めてを誰かに捧げられたことを祝福する。
私たちのように望まない相手にはじめてを奪われたわけでもなく、その相手に嫌悪感を抱くわけでもない彼女は——輝いて見えるのだ。例えそれが一方通行の恋心と、それを喰らう欲望なのだとしても。
「——性行為をそこまで禁忌《タブー》視するのも、僕はどうかと思うな。まあリスクがあるのは分かるし、それで愚かだ、危険だと言って避けるのも仕方がないとは思うけど」
皆《みな》が自由で好き勝手に生きて衝突する世界を避けるために、個人の自由を制限する『社会《リヴァイアサン》』は、民意を利用して他の個人の意思を不快なものとして制限しようとする。
しかしリンとアルトラはこの理不尽な収奪システムに反対しており、守られるべき自由の線引きをしているようだ。
「うん、まあ……ちょっとショックで驚いたのは認めるけど——セノの自由、だもんね……うん」
「いや、多分スズ——さっきまでいたヤツに聞けば真逆の意見が返ってくるし、無理に納得しなくてもいいんだぞ。僕らは一般論が感情ベースのところに変な論理持ち込んで、自分たちの性行為を正当化したいだけなんだからさ」
私たちはアルトラの目線を追い、鳥居への興味をなくしたストレンに置いていかれないように慌てて追いかけるセノを見た。
そしてアルトラはため息を吐いて、今度はメグの気持ちを擁護し始める。
「実際、相手が相手だし……不安になる気持ちは分かるよ」
「よりにもよって……セノ、なんであんなやつのこと好きになっちゃったんだろう……」
「あはは……私も多分、アルトラと関わり始めたころに同じようなこと思われてたんだろうな……」
この人は好きになってもいい。この人は駄目だ。相応しくない。不釣り合い。外野は言いたい放題だ。私だって——リンがアルトラと付き合うことを、本当は認めたくないのだから。
「うん——そうだよね、セノが誰と何をしていたって……私には、関係ない……」
「心配してもいいとは思うけど、干渉しすぎは良くないのかもねって。セノが危ういのは事実だろうし……」
アルトラは何故か少し遠い目をしてセノの一面を語った。
「っていうか、アルトラくんってセノと面識あるんだ——って、クラスメイトだからそりゃそうだよね」
……そういえば、アルトラは何故そこまでセノとまで仲が良いのだろうか。リンとセノがいっしょにいるところはたまに見かけるが、校内でセノとアルトラが話をしているのは滅多に見ないのに。
何故、そこまで知った口を効けるのだろうか——私はむしろ、それが少し気になってしまったのだった。
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