第1話『呪い』
【過去を哭けよアルトラ】第二部
『にせもの』
第一章『仮面』
第1話『呪い』
——この世界にあるすべてのものは『にせもの』で、何一つとして本当のものなんてない。
多分それが私の信じる唯一の事実だった。
私はとある神社の娘として生を享《う》け、物心ついた頃には『神様』について教えられてきた。
しかし神の存在を信じきることも出来ないうちから、みんなが信じる『サンタクロース』が嘘だと知ってしまい、それ以来私は、親も先生も友達も、誰一人として心から信じることなど出来なかった。
……そもそも、世界に信じる価値なんてない。
誰もがありもしない『土台《嘘》』を信じて、その上に『物語《人生》』を積み上げているのだから。
それでも無価値な世界を生きるためには、嘘を信じているふりをしなくてはいけなかった。
——気付けば『仮面』を手にしていた。
私は周りから見て「真面目で良い子」であり「静かで大人しい子」であり「誠実で信用できる子」であったし、そう思われるように振る舞い続けてきた。
この『にせもの』の世界を生きるためには、誰もが『仮面』を着けて『役割』を演じなくてはならないのだと、本能的に理解していたから。
どれだけ大変でどれだけ息苦しくても、誰かが求める『にせもの』であり続けることこそが、人生の意味であり、幸福なことなのだと。
そう自分自身に言い聞かせ続け——自分を騙し続けながら生きてきたのだ。
それが自分の中の『本物』の気持ちを押し殺すことだと分かっていながら。
そんな私も中学二年生になり、一年生の頃からの親友であるリンと同じクラスになれたことを喜びあった。
新学年の前期では風紀委員として活動することが決まって、友人のアルトラはそれを「イメージ通りだ」と言って笑い——かつてその友人を取り合った、元恋敵のリンも「頑張れ」と応援してくれた。
今日の委員会では、新年度のあいさつ運動とやらの分担についてが議題になっており、各クラスから選任された委員が様々理由を付けて、他の誰かに仕事を押し付けあっていた。
「いや——僕ら部活の朝練とかありますから、ちょっと難しいです」
「そうは言っても、基本は部活より委員会が優先ですよ?」
「それで言ったら私だって、毎朝妹を学校まで送ってるから無理です!」
——自分がその『役割』を引き受けないことを『正当化』し、誰かに『犠牲』を押し付ける。
それがこの『にせもの』の世界の日常で、体裁《ていさい》を保ったまま『利益』を確保するために『仮面』を利用する。
——便利な人間としての『仮面』しか持たない私にはそんな『免罪符』などなく、どうせ最後には理由をつけて面倒事を押し付けられるのだ。
「先生。私はクラブにも所属していませんし、毎朝の家の掃除もすぐに終わるので、毎日でも当番をやれます」
そんな不利益の押し付け合いに、私は小さく手を上げながらそう言う。
当然、本当を言えばこんな仕事はやりたくもないが、自分の『仮面』が良い人であることを証明するために、私は自主性がある模範生を演じた。
……どうせ最後には押し付け合い負けるのだから、最初から負けを認めてしまった方が潔《いさぎよ》く、率先して敗北する私は『良い人』として認められる。
先生や委員会員の偉いね、ありがとう、という、自己犠牲を『美化』する言葉に続いて拍手が起こり——そんな拍手は、一瞬で止んだ。
委員会はすぐに決定が出て終了し、委員たちは各々自分の部活や目的のために解散した。
自分の『仮面』を揺さぶられることもなく、余計な仕事を与えられるのともなく終わったみんなは、私にうわべだけの感謝を伝えながら嬉しそうに去って行き、先生は最も利用価値のある『仮面』を、改めて称えた。
——こんな仮面の裏側はきっと、結局全部『にせもの』で、それを着け続ける理由自体『にせもの』の世界で生き続けるための手段に過ぎないのに。
きっと誰だって、人として生きていくため、みんなに信じてもらうために——あるいは誰かに認めてもらうために、息苦しい『仮面』を着けて生きている。
私はそんな、誰か『仮面』を利用するような奴らは嫌いで、そういうやつほど誰かが仮面を外して本性を見せようとすると嫌がったり、逆に喜んだりする。
それでも私は『にせもの』だらけの世界で生きていけるように、笑顔の息苦しさに耐え、心の中で『神様』に祈りながら生きていた。
——いつか私が嫌いな奴らが、みんな不幸になりますように、と。
『にせもの』
第一章『仮面』
第1話『呪い』
——この世界にあるすべてのものは『にせもの』で、何一つとして本当のものなんてない。
多分それが私の信じる唯一の事実だった。
私はとある神社の娘として生を享《う》け、物心ついた頃には『神様』について教えられてきた。
しかし神の存在を信じきることも出来ないうちから、みんなが信じる『サンタクロース』が嘘だと知ってしまい、それ以来私は、親も先生も友達も、誰一人として心から信じることなど出来なかった。
……そもそも、世界に信じる価値なんてない。
誰もがありもしない『土台《嘘》』を信じて、その上に『物語《人生》』を積み上げているのだから。
それでも無価値な世界を生きるためには、嘘を信じているふりをしなくてはいけなかった。
——気付けば『仮面』を手にしていた。
私は周りから見て「真面目で良い子」であり「静かで大人しい子」であり「誠実で信用できる子」であったし、そう思われるように振る舞い続けてきた。
この『にせもの』の世界を生きるためには、誰もが『仮面』を着けて『役割』を演じなくてはならないのだと、本能的に理解していたから。
どれだけ大変でどれだけ息苦しくても、誰かが求める『にせもの』であり続けることこそが、人生の意味であり、幸福なことなのだと。
そう自分自身に言い聞かせ続け——自分を騙し続けながら生きてきたのだ。
それが自分の中の『本物』の気持ちを押し殺すことだと分かっていながら。
そんな私も中学二年生になり、一年生の頃からの親友であるリンと同じクラスになれたことを喜びあった。
新学年の前期では風紀委員として活動することが決まって、友人のアルトラはそれを「イメージ通りだ」と言って笑い——かつてその友人を取り合った、元恋敵のリンも「頑張れ」と応援してくれた。
今日の委員会では、新年度のあいさつ運動とやらの分担についてが議題になっており、各クラスから選任された委員が様々理由を付けて、他の誰かに仕事を押し付けあっていた。
「いや——僕ら部活の朝練とかありますから、ちょっと難しいです」
「そうは言っても、基本は部活より委員会が優先ですよ?」
「それで言ったら私だって、毎朝妹を学校まで送ってるから無理です!」
——自分がその『役割』を引き受けないことを『正当化』し、誰かに『犠牲』を押し付ける。
それがこの『にせもの』の世界の日常で、体裁《ていさい》を保ったまま『利益』を確保するために『仮面』を利用する。
——便利な人間としての『仮面』しか持たない私にはそんな『免罪符』などなく、どうせ最後には理由をつけて面倒事を押し付けられるのだ。
「先生。私はクラブにも所属していませんし、毎朝の家の掃除もすぐに終わるので、毎日でも当番をやれます」
そんな不利益の押し付け合いに、私は小さく手を上げながらそう言う。
当然、本当を言えばこんな仕事はやりたくもないが、自分の『仮面』が良い人であることを証明するために、私は自主性がある模範生を演じた。
……どうせ最後には押し付け合い負けるのだから、最初から負けを認めてしまった方が潔《いさぎよ》く、率先して敗北する私は『良い人』として認められる。
先生や委員会員の偉いね、ありがとう、という、自己犠牲を『美化』する言葉に続いて拍手が起こり——そんな拍手は、一瞬で止んだ。
委員会はすぐに決定が出て終了し、委員たちは各々自分の部活や目的のために解散した。
自分の『仮面』を揺さぶられることもなく、余計な仕事を与えられるのともなく終わったみんなは、私にうわべだけの感謝を伝えながら嬉しそうに去って行き、先生は最も利用価値のある『仮面』を、改めて称えた。
——こんな仮面の裏側はきっと、結局全部『にせもの』で、それを着け続ける理由自体『にせもの』の世界で生き続けるための手段に過ぎないのに。
きっと誰だって、人として生きていくため、みんなに信じてもらうために——あるいは誰かに認めてもらうために、息苦しい『仮面』を着けて生きている。
私はそんな、誰か『仮面』を利用するような奴らは嫌いで、そういうやつほど誰かが仮面を外して本性を見せようとすると嫌がったり、逆に喜んだりする。
それでも私は『にせもの』だらけの世界で生きていけるように、笑顔の息苦しさに耐え、心の中で『神様』に祈りながら生きていた。
——いつか私が嫌いな奴らが、みんな不幸になりますように、と。
第2話『神は死んだ』
第2話『神は死んだ』
落ちた桜の花びらが乾いた排水溝を彩る登下校口で、委員会の運動を行っていた朝のこと。
私は一人の問題児と知り合うことになった。
人の往来が疎《まば》らな時間帯に現れた彼を、私は今までに校内で一度も見かけたことがなかった。
そんな彼は器用なことに『歩き読書』を行っており、風紀委員の腕章を付けた私に気付くこともないまま堂々と石造りの水道の横にある花壇を跨いだ。
彼が大股で赤レンガを踏みしめたところを目撃した私は、違反の大渋滞に対してどこから注意すべきか悩みながらも、とにかく彼の足を止めさせた。
「……ちょっと待ちなさいあなた。歩き読書なんて危ないでしょ、それに花壇を跨ぐなんて」
——学生の『仮面』を着ける者として『相応《ふさわ》しくない』行為を咎《とが》めることが今の私の『役割』であり、私はただ常識の『又貸し』をした。
しかし私の注意を聞いて鬱陶しそうにこちらに目を向けた彼は、本のページをめくりながら反論を述べた。
「ここは車道でもないし、周囲にも注意しながら安全に歩いているつもりだけど。そんなことでいちいち注意するくらいなら足元に『段差注意』の張り紙でもしておいた方が良いんじゃないか」
顎を突き出しながら首を小さくひねり、嘲笑うかのような目をして鼻で笑う。
そんな『仮面』を着ける様子すらない彼による謎の理論展開に面食らった私は思わず「はぁ?」と、本心からの呆れをこぼしてしまった。
そしてその隙に去ろうとした彼に私は駆け寄り、本を持つ腕を掴んだ。
「常識的に考えて、花壇を跨ぐのは駄目でしょう。足元にレンガの境界があったけど、見えなかった?」
相変わらず鬱陶しそうにする彼は、腕を掴まれたまま振り返り、はぁ。とため息を吐く。
そして私を恨みがましそうに睨みながら、面倒臭そうに質問をした。
「何故、花壇を跨いだら駄目なんだ」
「それは——転んだら危ないし、花が可哀想だし……そこ道じゃないから」
私は思い付く限りの説明を並べ、彼の理論を否定しようとする。
しかしそんな私の返答を、彼は鼻で笑う。
……私が答えられなくなるまで、何度でも質問をしてやろうと考えているのだろうか。
「可哀想だと、何故駄目なんだ」
「——神様が見てるから」
何だコイツは、と思いながらも私は親や先生から何度となく言われた常套句《じょうとうく》を唱えた。
悪い行いも良い行いも必ず『神様』が見ているから、常に良い行いをするように心がけなさい。
そうすれば『神様』は必ず私に報《むく》いてくれるから、と。
——私もそんなものは信じていなかったが『神様』とやらに気に入られるために、いつだっていい子の『仮面』を着けてきたのだ。
すると、彼はパタンと読んでいた本を閉じて嘲笑うような目で私の顔を見ながら、ニタァっと口を歪ませて、ハッキリと言った。
「——神は死んだ」
……意味が分からなかった。
意味は分からなかったが、彼は呆然としていた私の手を振り払い、そのまま下駄箱へと去って行った。
私たちが生きる『にせもの』の世界において、前提となる『神様《大嘘》』が——死んだとは、どういう意味なのだろう。
ただ私は去りゆく彼の背中を、目を丸くして見つめながら呆然と口を開けるしか出来なかった。
——これが彼との出会いであり、彼が信じる『思想』との出会いだった。
落ちた桜の花びらが乾いた排水溝を彩る登下校口で、委員会の運動を行っていた朝のこと。
私は一人の問題児と知り合うことになった。
人の往来が疎《まば》らな時間帯に現れた彼を、私は今までに校内で一度も見かけたことがなかった。
そんな彼は器用なことに『歩き読書』を行っており、風紀委員の腕章を付けた私に気付くこともないまま堂々と石造りの水道の横にある花壇を跨いだ。
彼が大股で赤レンガを踏みしめたところを目撃した私は、違反の大渋滞に対してどこから注意すべきか悩みながらも、とにかく彼の足を止めさせた。
「……ちょっと待ちなさいあなた。歩き読書なんて危ないでしょ、それに花壇を跨ぐなんて」
——学生の『仮面』を着ける者として『相応《ふさわ》しくない』行為を咎《とが》めることが今の私の『役割』であり、私はただ常識の『又貸し』をした。
しかし私の注意を聞いて鬱陶しそうにこちらに目を向けた彼は、本のページをめくりながら反論を述べた。
「ここは車道でもないし、周囲にも注意しながら安全に歩いているつもりだけど。そんなことでいちいち注意するくらいなら足元に『段差注意』の張り紙でもしておいた方が良いんじゃないか」
顎を突き出しながら首を小さくひねり、嘲笑うかのような目をして鼻で笑う。
そんな『仮面』を着ける様子すらない彼による謎の理論展開に面食らった私は思わず「はぁ?」と、本心からの呆れをこぼしてしまった。
そしてその隙に去ろうとした彼に私は駆け寄り、本を持つ腕を掴んだ。
「常識的に考えて、花壇を跨ぐのは駄目でしょう。足元にレンガの境界があったけど、見えなかった?」
相変わらず鬱陶しそうにする彼は、腕を掴まれたまま振り返り、はぁ。とため息を吐く。
そして私を恨みがましそうに睨みながら、面倒臭そうに質問をした。
「何故、花壇を跨いだら駄目なんだ」
「それは——転んだら危ないし、花が可哀想だし……そこ道じゃないから」
私は思い付く限りの説明を並べ、彼の理論を否定しようとする。
しかしそんな私の返答を、彼は鼻で笑う。
……私が答えられなくなるまで、何度でも質問をしてやろうと考えているのだろうか。
「可哀想だと、何故駄目なんだ」
「——神様が見てるから」
何だコイツは、と思いながらも私は親や先生から何度となく言われた常套句《じょうとうく》を唱えた。
悪い行いも良い行いも必ず『神様』が見ているから、常に良い行いをするように心がけなさい。
そうすれば『神様』は必ず私に報《むく》いてくれるから、と。
——私もそんなものは信じていなかったが『神様』とやらに気に入られるために、いつだっていい子の『仮面』を着けてきたのだ。
すると、彼はパタンと読んでいた本を閉じて嘲笑うような目で私の顔を見ながら、ニタァっと口を歪ませて、ハッキリと言った。
「——神は死んだ」
……意味が分からなかった。
意味は分からなかったが、彼は呆然としていた私の手を振り払い、そのまま下駄箱へと去って行った。
私たちが生きる『にせもの』の世界において、前提となる『神様《大嘘》』が——死んだとは、どういう意味なのだろう。
ただ私は去りゆく彼の背中を、目を丸くして見つめながら呆然と口を開けるしか出来なかった。
——これが彼との出会いであり、彼が信じる『思想』との出会いだった。
第3話『最低な奴』
第3話『最低な奴』
それから朝の委員会活動は何事もなく終わり、他のクラスの人たちが一年生の頃の友人を求めて出入りしている教室に戻る。
そこかしこで語られる思い思いの会話は、今朝方出会った彼の話題で持ちきりのようだった。
幸い誰にも占拠されていなかった自分の席に座って一時間目の提出物の確認をしていると、親友のリンが彼氏のアルトラとの中庭での朝デートを終えて戻って来て、自分の席——私の真ん前の席に座った。
「委員会お疲れ様、スズちゃん!」
「うん、ありがと……」
「えっと……大丈夫?」
私は出来るだけ元気に振る舞っていたつもりだったが、朝から神社の掃除に挨拶運動と働き詰めで——そこに来て例の問題児の件もあり、流石に疲れてしまっていたようだ。
私の疲れを察した彼女は、椅子をこちら向きに動かしながら心配したように愛らしい顔をこちらに向けた。
「——それがさ、挨拶運動中に変なやつがいて……歩きスマホならぬ『歩き読書』をしてて、注意したら良くわかんない反論をされて、それでちょっと疲れちゃったんだよね」
愚痴の一つでも聞きたそうにしていたリンに対して今朝の出来事を話しつつ、それとなくみんなの噂になっている彼の話を持ちかける。
誰かの会話に聞き耳を立ててまで知ろうとは思わないが、これだけ校内で噂になっているのであれば、彼女たちもその話をしていた可能性はあった。
「あー……多分アルトラが言ってた『ケイ』くんだ」
「なんか、みんな噂してるみたいだけど、誰なのアイツ?」
引き出しの整理を終えてから机に肘を置き、リンの目を見ながら話を聞こうとする。
しかし臆病な彼女はすぐに私の胸元に目を落とし、目線が合っているように見せかけようとするが——距離が近過ぎて、ただ胸を睨む形になってしまっていることに気付いてすぐに目を上に逸らした。
「えっ、えっと、ケイくんはアルトラと同じ小学校の子で、五年生の頃にご両親を事故で亡くして……それからは学校に来てなかったって、聞いたよ?」
「……ふーん」
——それでみんな驚いているわけか。
確かに二年以上顔も見せなかった同級生がいきなり現れたら、同じ小学校出身の人なら噂の一つでもするだろう。
……それが、歩き読書なんてするような変人の類であればなおさら。
「なんっていうか、不登校になる前から変な——嫌な感じの奴だったの?」
「ううん、元々は元気で頭のいい子で、アルトラもよく一緒に遊んだり、哲学《てつがく》? を教えてもらってたって言ってたから……嫌な子じゃなかったと思う」
私の質問に対して、彼女は露骨に嫌がるような顔をして目を下に向けた。
——ああ、そうだった。彼女は元々噂のせいで散々な目にあった側で、知りもせずに人を悪く言えるような性格《タチ》じゃない。
「ごめんね、リン。そうだよね、よく知りもしないのに嫌な奴とか言うべきじゃなかった」
「う、ううん! アルトラはケイくんが帰ってきたことを喜んでたし、きっと仲良くなれるよ!」
短めのサラサラした黒髪を揺らしながら、彼女は笑顔を作るのだった。
……私は彼の過去を知らないまま、ただの頭のおかしい奴だと思っていた。
少し反省しつつ——同時に私は「彼を正しい方向に導いてやらなくてはいけない」と感じた。
——きっと彼は《この世界》の『常識』を知らなくて、《人との関わり方》を知らないだけなんだ。
朝のホームルームの始まりを告げるチャイムで他のクラスから遊びに来ていた女子たちは慌ててクラスから出ていこうとし、おそらく同じような理由で急いで教室に入ってきた男子とぶつかりそうになっていた。
私も目の前の席に座るリンとギリギリまで軽い会話をしながらも、チャイムが終わる頃には大人しく話を切り上げた。
そしてチャイムが終わってしばらくしてもざわつくクラスに、風紀委員として注意の一つでもしようとしていると——クラス担任が|噂の彼《ケイ》を連れて教室に入り、教卓の横に彼を立たせた。
「知っている人は知っていると思うけれど、今日から改めてクラスの仲間として一年間やっていく子が来てくれているから、早速だけど自己紹介してもらうね」
ザワつくクラスに怯えることもなく教卓に立った彼は、ただ一言「ケイです」とだけ自己紹介をした。
まさか彼が同じクラスだとは思っておらず驚いていた私を見つけた彼は、私と目が合うと、またあの人を嘲笑うかのような目をして「よろしく」と付け加えた。
——大丈夫、きっとすぐに彼も《私たちの一員》になれる。
「初めての中学校で分からないこともあるだろうから、困ったことがあったら誰にでも頼ってね。私も基本は職員室にいるからいつでもおいで」
先生はケイの背中に手を置き「頑張ってね」と付け加えて、教室の後方にある空席を指差して向かうように促したのだった。
ホームルームが終わり5分程度の休み時間に再び噂話は始まり、クラスのみんなは彼をどのように扱うべきかで議論をしていた。
私もリンと会話をしようかとも思ったが、ケイに対して今朝の件を少し申し訳ないと思っていたこともあり、誰にも話しかけられていない彼の席に歩み寄った。
ケイは周りの噂話には耳も貸さず今朝の本をポケットから取り出して、一人黙々と読書をしていた。
私はそんな彼に近付き、握手を求めながら自己紹介した。
「私は風紀委員のスズ。さっきは突っかかってごめんね」
私もキズ物を扱うように、その上でケイがそのことを察して傷付かないように、新しい友人になろうと手を差し伸べた。
すると意外にもケイは多くの人が見守る中で私の手を取って、握手に応じた。
一瞬で私の中にあった緊張感はほぐれ、男子にしては柔らかなその手を握りながら、私は彼に微笑みかけた。
——対して、彼は私を嗤《わら》った。
「それも、お前の神様の思し召しか?」
その一言はこの場にいる全員にとって、彼のイメージを決定付けるものだった。
世間知らずでイヤミったらしい一匹狼。
誰もがケイに対してそんな印象を持っただろう。
そんな噂はきっと瞬時に広がり、みんなが彼を『避けるべき対象』として扱う。
——私の好きな人がそうだったように、きっと彼も地獄を味わうことになる。
「あっ……」
私は苛立ちよりも、何も知らないまま彼をそんな立場に追いやってしまったであろうことが悲しくなり——ショックで思わず声を漏らし、適当に握手を終わらされた手を下ろすことも忘れて呆然と立ち尽くす。
その姿はきっと、みんなにとってのケイを女子をいきなり傷付けた『最低な奴』にしたのだろう。
嫌に静まり返った教室で、クラスメイトの「うわぁ……」という声が聞こえてきて、私は泣きそうになった。
それから朝の委員会活動は何事もなく終わり、他のクラスの人たちが一年生の頃の友人を求めて出入りしている教室に戻る。
そこかしこで語られる思い思いの会話は、今朝方出会った彼の話題で持ちきりのようだった。
幸い誰にも占拠されていなかった自分の席に座って一時間目の提出物の確認をしていると、親友のリンが彼氏のアルトラとの中庭での朝デートを終えて戻って来て、自分の席——私の真ん前の席に座った。
「委員会お疲れ様、スズちゃん!」
「うん、ありがと……」
「えっと……大丈夫?」
私は出来るだけ元気に振る舞っていたつもりだったが、朝から神社の掃除に挨拶運動と働き詰めで——そこに来て例の問題児の件もあり、流石に疲れてしまっていたようだ。
私の疲れを察した彼女は、椅子をこちら向きに動かしながら心配したように愛らしい顔をこちらに向けた。
「——それがさ、挨拶運動中に変なやつがいて……歩きスマホならぬ『歩き読書』をしてて、注意したら良くわかんない反論をされて、それでちょっと疲れちゃったんだよね」
愚痴の一つでも聞きたそうにしていたリンに対して今朝の出来事を話しつつ、それとなくみんなの噂になっている彼の話を持ちかける。
誰かの会話に聞き耳を立ててまで知ろうとは思わないが、これだけ校内で噂になっているのであれば、彼女たちもその話をしていた可能性はあった。
「あー……多分アルトラが言ってた『ケイ』くんだ」
「なんか、みんな噂してるみたいだけど、誰なのアイツ?」
引き出しの整理を終えてから机に肘を置き、リンの目を見ながら話を聞こうとする。
しかし臆病な彼女はすぐに私の胸元に目を落とし、目線が合っているように見せかけようとするが——距離が近過ぎて、ただ胸を睨む形になってしまっていることに気付いてすぐに目を上に逸らした。
「えっ、えっと、ケイくんはアルトラと同じ小学校の子で、五年生の頃にご両親を事故で亡くして……それからは学校に来てなかったって、聞いたよ?」
「……ふーん」
——それでみんな驚いているわけか。
確かに二年以上顔も見せなかった同級生がいきなり現れたら、同じ小学校出身の人なら噂の一つでもするだろう。
……それが、歩き読書なんてするような変人の類であればなおさら。
「なんっていうか、不登校になる前から変な——嫌な感じの奴だったの?」
「ううん、元々は元気で頭のいい子で、アルトラもよく一緒に遊んだり、哲学《てつがく》? を教えてもらってたって言ってたから……嫌な子じゃなかったと思う」
私の質問に対して、彼女は露骨に嫌がるような顔をして目を下に向けた。
——ああ、そうだった。彼女は元々噂のせいで散々な目にあった側で、知りもせずに人を悪く言えるような性格《タチ》じゃない。
「ごめんね、リン。そうだよね、よく知りもしないのに嫌な奴とか言うべきじゃなかった」
「う、ううん! アルトラはケイくんが帰ってきたことを喜んでたし、きっと仲良くなれるよ!」
短めのサラサラした黒髪を揺らしながら、彼女は笑顔を作るのだった。
……私は彼の過去を知らないまま、ただの頭のおかしい奴だと思っていた。
少し反省しつつ——同時に私は「彼を正しい方向に導いてやらなくてはいけない」と感じた。
——きっと彼は《この世界》の『常識』を知らなくて、《人との関わり方》を知らないだけなんだ。
朝のホームルームの始まりを告げるチャイムで他のクラスから遊びに来ていた女子たちは慌ててクラスから出ていこうとし、おそらく同じような理由で急いで教室に入ってきた男子とぶつかりそうになっていた。
私も目の前の席に座るリンとギリギリまで軽い会話をしながらも、チャイムが終わる頃には大人しく話を切り上げた。
そしてチャイムが終わってしばらくしてもざわつくクラスに、風紀委員として注意の一つでもしようとしていると——クラス担任が|噂の彼《ケイ》を連れて教室に入り、教卓の横に彼を立たせた。
「知っている人は知っていると思うけれど、今日から改めてクラスの仲間として一年間やっていく子が来てくれているから、早速だけど自己紹介してもらうね」
ザワつくクラスに怯えることもなく教卓に立った彼は、ただ一言「ケイです」とだけ自己紹介をした。
まさか彼が同じクラスだとは思っておらず驚いていた私を見つけた彼は、私と目が合うと、またあの人を嘲笑うかのような目をして「よろしく」と付け加えた。
——大丈夫、きっとすぐに彼も《私たちの一員》になれる。
「初めての中学校で分からないこともあるだろうから、困ったことがあったら誰にでも頼ってね。私も基本は職員室にいるからいつでもおいで」
先生はケイの背中に手を置き「頑張ってね」と付け加えて、教室の後方にある空席を指差して向かうように促したのだった。
ホームルームが終わり5分程度の休み時間に再び噂話は始まり、クラスのみんなは彼をどのように扱うべきかで議論をしていた。
私もリンと会話をしようかとも思ったが、ケイに対して今朝の件を少し申し訳ないと思っていたこともあり、誰にも話しかけられていない彼の席に歩み寄った。
ケイは周りの噂話には耳も貸さず今朝の本をポケットから取り出して、一人黙々と読書をしていた。
私はそんな彼に近付き、握手を求めながら自己紹介した。
「私は風紀委員のスズ。さっきは突っかかってごめんね」
私もキズ物を扱うように、その上でケイがそのことを察して傷付かないように、新しい友人になろうと手を差し伸べた。
すると意外にもケイは多くの人が見守る中で私の手を取って、握手に応じた。
一瞬で私の中にあった緊張感はほぐれ、男子にしては柔らかなその手を握りながら、私は彼に微笑みかけた。
——対して、彼は私を嗤《わら》った。
「それも、お前の神様の思し召しか?」
その一言はこの場にいる全員にとって、彼のイメージを決定付けるものだった。
世間知らずでイヤミったらしい一匹狼。
誰もがケイに対してそんな印象を持っただろう。
そんな噂はきっと瞬時に広がり、みんなが彼を『避けるべき対象』として扱う。
——私の好きな人がそうだったように、きっと彼も地獄を味わうことになる。
「あっ……」
私は苛立ちよりも、何も知らないまま彼をそんな立場に追いやってしまったであろうことが悲しくなり——ショックで思わず声を漏らし、適当に握手を終わらされた手を下ろすことも忘れて呆然と立ち尽くす。
その姿はきっと、みんなにとってのケイを女子をいきなり傷付けた『最低な奴』にしたのだろう。
嫌に静まり返った教室で、クラスメイトの「うわぁ……」という声が聞こえてきて、私は泣きそうになった。
第4話『学年首位』
第4話『学年首位』
学年始めの確認テストが始まり、風紀委員会の挨拶運動は一時終了となった。
桜がすっかり緑になったおかげで神社の掃除も少しは楽になり、空いた時間で好き放題に伸びている雑草を刈る余裕が出来ていた。
——この空き時間を利用して勉強をするべきなのは分かっているし、実際にリンとアルトラに勉強会の誘いは受けていたが、現実逃避で忙しかった私はそれを断った。
というのも今回のテストは成績にそこまで関係がないものらしく、真面目に取り組む必要性を感じられなかったのだ。
それでも塾に通うような生徒たちは高得点を目指しているようで、教室でそんな話が聞こえてくる度に勉強が苦手な私は少し憂鬱になった。
テスト用紙には分からない問題、というより思い出せない問題が沢山あった。
回答中ずっと、表向きには理解した気になっていた私の『内側の空っぽ』が暴かれているような錯覚に陥った。
それでも各テストの直前に目の前に座る親友のリンがアドバイスをくれたおかげで実力以上の回答は出来た。
そして確認テストが終わり、翌週の各授業毎に答案用紙が順次返却され始める。
「……リンってやっぱり天才だよね。中学入ってから100点の答案用紙なんて初めて見た」
「えっと、英語は得意だから……たまたまミスがなかっただけだよ」
照れながら引き出しの中にそのテストを隠した彼女は、授業中の私語を謹み、すぐに前を向いた。
天才の中には『ミス』以外の失点要因はなく、私のような凡人には『理解不能』な問題があることを理解していないようだった。
私はただ、53点の回答用紙の向こうに見える小さな背中に、憧れと劣等感が混ざったような複雑な気持ちを抱くだけだった。
賢くて優しくて謙虚で、しかも可愛い。
……そりゃ、アルトラも彼女を選んだわけだ。
私がリンに敵《かな》う要素なんて、一つもない。
私が中学生になって初めて泣いたのは、その現実を知ったときだった。
アルトラを取り合って、彼女と恋敵として肩を並べたあの日々。
私は順調に彼の心を開き、触れ合い、幸せを目指した。
そして告白を目前に控えたある日——私とアルトラの関係の進歩に耐えられず、彼の家から飛び出した日のこと。
一人彼の家に取り残された私は、恐る恐る——私がプレゼントした彼の消しゴムに手を伸ばして、そのカバーを外した。
消しゴムの本体に好きな人の名前を書いて、それを使い切ればその人と結ばれることができるという、有名なおまじない。
そこにはいったいどちらの名前が書かれているのか——どうしても、知りたかった。
……見なければよかった。
見なければ、諦められた。
表裏それぞれに書かれた私たちの名前は、彼の未来を、私に委ねた。
二人でリンを見捨てて、二人で後悔しながら進むか、リンに彼を託して一人涙をのむか。
最初から選択肢なんてなかった。
——私はリンにはなれない。
だから私は——
いつも通り、仮面をつけた。
たった一度だけなら、その痛みごと抱きしめてくれると分かっていたから。
全てのテストの返却が完了した頃、二年生の学年共有廊下には『学年順位表』が張り出された。
——そこで、問題児のケイは再びクラスの注目の的になった。
「はぁっ!? アイツが学年順位一位!?」
一位の欄には、直前まで不登校だったケイの名前があり、誰もが何かの間違いかカンニングだと噂する。
実際492点というぶっち切りの点数を見れば、誰だって事実かどうか疑いたくなる。
しかしいつも通り難しそうな本を歩き読みしながら、誰とも群れないまま教室に入っていくケイの姿を見せ付けられると、誰もがその点数が彼の実力なのだと受け入れざるを得ないようだった。
成績優良児のリンは、元落ちこぼれのアルトラが私の順位を軽く抜いて学年トップ100入りをしたのを祝い、朝から堂々と彼の手を握って小躍りしているのを横目に、私はケイを追って話しかける。
「あなたって意外と……いや意外でもないけど、頭良いんだ」
「そりゃ、神様に学力向上のお祈りしてるような人よりは」
……いちいち発言に棘がある男だ。
しかしこう実力を見せつけられると、彼が何かすごく高尚なことをしているように見えて仕方がなかった。
そこで私は思い切って彼に「なんの本を読んでるの?」と質問し、彼の読む本の内容を覗き込んだ。
『「信仰」は科学に対する拒否』
『いかなる対価をもはらう虚言である』
……小難しいことが書いてある本だった。
表紙を覗き込んで確認してみると、ニーチェという人の『偶像の黄昏《たそがれ》』という本らしかった。
私が興味を持ったことに対して、彼も少し興味を持ったのか——いつも通り皮肉を言い始めた。
「これは君みたいに、自分を生きず『にせもの』に縋って生きる人には刺激が強すぎる本だと思うけど」
ケイはそんなことを言いながらも、少し私に見やすいようにページを開いてくれたように思う。
意外に優しい面もあるのだと感じたが——それ以上に、彼の言う『にせもの』に縋ると言う言葉が引っかかって仕方がなかった。
「この世界にあるすべてのものは『にせもの』で、何一つとして本当のものなんてない……」
それは私が唯一信じている、この世界の真実。
誰とも共有したことのない、生きる意味そのものを否定する、最低の極論。
私は『にせもの』のために『仮面』を着けて生きてきた。
そんな『仮面』の裏側の、自分自身すら『にせもの』であるという可能性から目を逸らすために。
私が彼の学んで来たことに興味を示すと、彼も更に私に興味を持ったようで「ニヒリズムか……」と呟きながら私の方を向いた。
私の知らない言葉で、ずっと患《わずら》い続けてきた私の『病名』を言い当てる彼が、この瞬間特別な存在に見えた。
——知りたい、知ればまた後悔するかも知れないのに、知らずには、いられない。
「この『仮面』の裏側も、結局全部『にせもの』なの……?」
ずっと知りたかった。
この世界の前提とされる『常識』に従って、誰もが『仮面』を着けている。
その前提が『にせもの』かも知れないのに、誰もそれを疑おうとすらせずに、ただ空虚な『祈り』を捧げて生きているのではないか。
そんな『|考えても仕方のないこと《哲学》』の答えを、目の前にいるこの男が持っているかも知れない。
そう思うと、自分が今まで『仮面』の裏側で考え続けてきたことを伝えたくなってしまった。
そんな私の様子を見た彼はいつもの見下すような、嘲笑うような目ではなく、期待するような目を私に向けた。
そして彼は私を試すように怪しく笑い、はじめて私の名前を呼んだ。
「スズ。君は、自分が信じてきた神を、殺すことが出来るかい?」
学年始めの確認テストが始まり、風紀委員会の挨拶運動は一時終了となった。
桜がすっかり緑になったおかげで神社の掃除も少しは楽になり、空いた時間で好き放題に伸びている雑草を刈る余裕が出来ていた。
——この空き時間を利用して勉強をするべきなのは分かっているし、実際にリンとアルトラに勉強会の誘いは受けていたが、現実逃避で忙しかった私はそれを断った。
というのも今回のテストは成績にそこまで関係がないものらしく、真面目に取り組む必要性を感じられなかったのだ。
それでも塾に通うような生徒たちは高得点を目指しているようで、教室でそんな話が聞こえてくる度に勉強が苦手な私は少し憂鬱になった。
テスト用紙には分からない問題、というより思い出せない問題が沢山あった。
回答中ずっと、表向きには理解した気になっていた私の『内側の空っぽ』が暴かれているような錯覚に陥った。
それでも各テストの直前に目の前に座る親友のリンがアドバイスをくれたおかげで実力以上の回答は出来た。
そして確認テストが終わり、翌週の各授業毎に答案用紙が順次返却され始める。
「……リンってやっぱり天才だよね。中学入ってから100点の答案用紙なんて初めて見た」
「えっと、英語は得意だから……たまたまミスがなかっただけだよ」
照れながら引き出しの中にそのテストを隠した彼女は、授業中の私語を謹み、すぐに前を向いた。
天才の中には『ミス』以外の失点要因はなく、私のような凡人には『理解不能』な問題があることを理解していないようだった。
私はただ、53点の回答用紙の向こうに見える小さな背中に、憧れと劣等感が混ざったような複雑な気持ちを抱くだけだった。
賢くて優しくて謙虚で、しかも可愛い。
……そりゃ、アルトラも彼女を選んだわけだ。
私がリンに敵《かな》う要素なんて、一つもない。
私が中学生になって初めて泣いたのは、その現実を知ったときだった。
アルトラを取り合って、彼女と恋敵として肩を並べたあの日々。
私は順調に彼の心を開き、触れ合い、幸せを目指した。
そして告白を目前に控えたある日——私とアルトラの関係の進歩に耐えられず、彼の家から飛び出した日のこと。
一人彼の家に取り残された私は、恐る恐る——私がプレゼントした彼の消しゴムに手を伸ばして、そのカバーを外した。
消しゴムの本体に好きな人の名前を書いて、それを使い切ればその人と結ばれることができるという、有名なおまじない。
そこにはいったいどちらの名前が書かれているのか——どうしても、知りたかった。
……見なければよかった。
見なければ、諦められた。
表裏それぞれに書かれた私たちの名前は、彼の未来を、私に委ねた。
二人でリンを見捨てて、二人で後悔しながら進むか、リンに彼を託して一人涙をのむか。
最初から選択肢なんてなかった。
——私はリンにはなれない。
だから私は——
いつも通り、仮面をつけた。
たった一度だけなら、その痛みごと抱きしめてくれると分かっていたから。
全てのテストの返却が完了した頃、二年生の学年共有廊下には『学年順位表』が張り出された。
——そこで、問題児のケイは再びクラスの注目の的になった。
「はぁっ!? アイツが学年順位一位!?」
一位の欄には、直前まで不登校だったケイの名前があり、誰もが何かの間違いかカンニングだと噂する。
実際492点というぶっち切りの点数を見れば、誰だって事実かどうか疑いたくなる。
しかしいつも通り難しそうな本を歩き読みしながら、誰とも群れないまま教室に入っていくケイの姿を見せ付けられると、誰もがその点数が彼の実力なのだと受け入れざるを得ないようだった。
成績優良児のリンは、元落ちこぼれのアルトラが私の順位を軽く抜いて学年トップ100入りをしたのを祝い、朝から堂々と彼の手を握って小躍りしているのを横目に、私はケイを追って話しかける。
「あなたって意外と……いや意外でもないけど、頭良いんだ」
「そりゃ、神様に学力向上のお祈りしてるような人よりは」
……いちいち発言に棘がある男だ。
しかしこう実力を見せつけられると、彼が何かすごく高尚なことをしているように見えて仕方がなかった。
そこで私は思い切って彼に「なんの本を読んでるの?」と質問し、彼の読む本の内容を覗き込んだ。
『「信仰」は科学に対する拒否』
『いかなる対価をもはらう虚言である』
……小難しいことが書いてある本だった。
表紙を覗き込んで確認してみると、ニーチェという人の『偶像の黄昏《たそがれ》』という本らしかった。
私が興味を持ったことに対して、彼も少し興味を持ったのか——いつも通り皮肉を言い始めた。
「これは君みたいに、自分を生きず『にせもの』に縋って生きる人には刺激が強すぎる本だと思うけど」
ケイはそんなことを言いながらも、少し私に見やすいようにページを開いてくれたように思う。
意外に優しい面もあるのだと感じたが——それ以上に、彼の言う『にせもの』に縋ると言う言葉が引っかかって仕方がなかった。
「この世界にあるすべてのものは『にせもの』で、何一つとして本当のものなんてない……」
それは私が唯一信じている、この世界の真実。
誰とも共有したことのない、生きる意味そのものを否定する、最低の極論。
私は『にせもの』のために『仮面』を着けて生きてきた。
そんな『仮面』の裏側の、自分自身すら『にせもの』であるという可能性から目を逸らすために。
私が彼の学んで来たことに興味を示すと、彼も更に私に興味を持ったようで「ニヒリズムか……」と呟きながら私の方を向いた。
私の知らない言葉で、ずっと患《わずら》い続けてきた私の『病名』を言い当てる彼が、この瞬間特別な存在に見えた。
——知りたい、知ればまた後悔するかも知れないのに、知らずには、いられない。
「この『仮面』の裏側も、結局全部『にせもの』なの……?」
ずっと知りたかった。
この世界の前提とされる『常識』に従って、誰もが『仮面』を着けている。
その前提が『にせもの』かも知れないのに、誰もそれを疑おうとすらせずに、ただ空虚な『祈り』を捧げて生きているのではないか。
そんな『|考えても仕方のないこと《哲学》』の答えを、目の前にいるこの男が持っているかも知れない。
そう思うと、自分が今まで『仮面』の裏側で考え続けてきたことを伝えたくなってしまった。
そんな私の様子を見た彼はいつもの見下すような、嘲笑うような目ではなく、期待するような目を私に向けた。
そして彼は私を試すように怪しく笑い、はじめて私の名前を呼んだ。
「スズ。君は、自分が信じてきた神を、殺すことが出来るかい?」
第5話『にせもの』
第5話『にせもの』
——存在していないものをどう『殺せ』というのだ。
そもそも私は神なんて信じていないし、仮に信じていたとして、実体のない『それ』を殺すというのはどういう意味なのだろう。
目の前の天才が意地悪く目を輝かせながら凡人の反応を見て楽しんでいて、私はその手のひらの上で踊らされる玩具《おもちゃ》にすぎないのだと理解していてもなお、この『仮面』の外し方を知っている彼の話が聞きたくて、悔しいことに目を離せなかった。
しかしそんな渇望にも似た好奇心を否定するように朝のホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り始めると、ケイは再び偶像の黄昏《たそがれ》に目を落とした。
慌てて教室に飛び込んできたリンに笑顔を返して、予鈴が終わる一秒前に悠々と現れた先生の号令に合わせて立ち上がる。
その後の五分休みのリンとの会話中も授業中も昼休みも、私は一日中『神を殺す』ことばかり考えていた。
——どうしても彼の話が聞きたくて仕方がなかった。
帰りのホームルームが終わりのんびりと荷支度をしているリンを置いて、私はそそくさと帰ろうとするケイに再び話しかけた。
「ねえ、今朝の話の続きなんだけど……」
本を手にしたまま立ち上がった彼を呼び止めたが、この優しくない男は私に一瞥《いちべつ》をくれてすぐにスタスタと教室から出ていく。
そんな彼の小さな背中が世界の秘密に導く何かに見えてしまった私だったが、急いで帰りの支度をしている親友の華奢な後ろ姿を見て、一瞬どちらを選べばよいのか迷う。
だがケイはすぐに答えを示した。
「知りたいのなら、着いて来ればいい」
彼の言葉を聞いた私はまとめてあった荷物を掴み、リンに「ごめん、また明日!」とだけ言い放ちケイを追った。
親友は少し驚いた顔をして振り返ったが、私のことを引き止めたりはせず小さく微笑んだのだった。
ケイは歩き読書をしたまま登下校口まで辿り着き、靴を投げるように下駄箱の前のタイルに置き、かかとを踏んでつま先で地面を蹴飛ばし、左手の人差し指でかかとを引きずり起こした。
日常のあらゆる動作、行動が面倒だと言いたげに見える彼は、それでも横目で私の所作を観察しており、よく見れば読書が進んでいる様子はなかった。
「どこで話すの?」
急いで彼の隣に着いた私は、この慌ただしい小さな旅の目的地を尋ねる。
公園の外れにある、リンとアルトラがよく使っていたという石のベンチか、近くにある小さな図書館か、はたまた神社《うち》の境内か。
東へと歩き始めたケイは私たちの行き先を、なんの躊躇も恥ずかしげもなく伝える。
「僕の家だけど」
すぐに私は警戒した。
当たり前だ、中学二年生の男子がそこまで仲の良くない同級生の女子を家に連れ込むとなれば、どんな噂が立つかもわからない。
私は彼のことをよく知らないし、自分の意志で着いて行って——親友と同じような目に遭ったとなれば、私は同情の対象にすらならないだろう。
それでも私は抗いがたい程に『知りたい』という理性的な欲望に支配されていて、それは本能的な警戒を簡単に解いてしまった。
——ずっと胸に引っかかっていた疑問の答えが、そこに行けば分かるかも知れないと思うと、その程度の『危険』は簡単に飲み込めた。
「わかった、着いてく」
このまま『にせもの』の正体を知らないまま『仮面』を着けて生きていくくらいなら、私自身が地獄に落ちたって構わない。
学校の隣にある公園に入ったところでケイは開いていただけの本に栞《しおり》を挟んで、黒い学生服のポケットに仕舞った。
つい二ヶ月前までよく見た東小校区の景色は、何故だがあの頃とはまた違った顔をしていた。
この道で噛みしめる歯は奥歯から前歯へと変わり、隣を歩く男は二周りほど小さくなっており、容赦なくスタスタと進む彼の歩調に合わせるのに必死だった。
そしていつもは左に進む三叉路を、右に進んですぐのところにある二階建ての古い民家の敷地にケイは足を踏み入れた。
私も恐る恐る、しかし堂々と一礼をしながら小さな用水路の金網を踏み越えて彼に着いていく。
そして彼が玄関をガラガラと開けながら「ただいま」と言うと、すぐに60歳過ぎくらいの優しそうなおばあちゃんが玄関までケイを出迎えに来た。
「お、お邪魔します」
「あら、いらっしゃい」
ケイのおばあちゃんが現れたことで警戒心はいつの間にか緊張へと変わっており、神社仕込みの深々としたお辞儀を送ると、彼女は柔らかい笑みを浮かべながら、唐突な訪問にも関わらず私の挨拶に答えてくれた。
そしてケイのそれとはまた違う、いたずらっぽい笑顔を彼に向けて、少しからかうように笑った。
「ケイや、もう彼女を連れてきたのかい」
「ちっ、ちがう!」
赤面したケイは振り向きもせずに靴を脱ぎ捨てながら、古い木製の階段を逃げるように駆け上がって行った。
——男というのは、どうしてこう簡単に人を置いていくんだろうか。
取り残された私たちはケイの姿が見えなくなってから目を合わせ、静かに微笑みあった。
「あらあら……どうぞ、ゆっくりしていってね」
仏様のように優しいおばあちゃんがスリッパを用意しようとして腰を曲げたのを、お辞儀だと勘違いした私は気恥ずかしくなって、誤魔化すようにケイの分まで靴を揃えた。
そんな彼女のご厚意に預かり、私はスリッパを履いてからもう一礼だけしてケイのあとを追った。
古い木と土壁の匂いがする廊下の突き当りの部屋のドアが開いており、そこがケイの部屋のようだった。
イメージ通りというか、ケイの部屋には難しそうな本が私の背丈程ある三つの本棚にほぼギッチリ詰まっており——それでも一部には、漫画やライトノベルも混ざっていた。
「昔は両親も隣の部屋で住んでたんだけど、色々あって今は一人で二階に住んでる」
ケイは学生服の上着を脱ぎ捨て、隣の部屋からそう話しながら椅子を引き出してきて、私に座るよう促した。
……彼の両親は三年前に交通事故で亡くなっているんだったか。
床にカバンを置き、用意された椅子に座る私を観察する彼の左頬がやや上がるのが、単に冷笑的な性格から来るのではなく、痛みを耐えるための強がりにも見えた。
——そして学習机に腰掛けたケイは、早速『にせもの』の話を始めたのだった。
「まず、君はどうして神様を信じてるの?」
見定めるかのように、それでいて何か期待するかのような目で、ケイは私を解体すべく問《と》った。
——そんなケイの目が、何故か蔑むようなあの目より怖く見えてしまったので、私は思わず目線をそらした。
「……簡単に言ってしまえば、神社生まれだから。親は私に神様に対して祈り、感謝しながら生きることを求めてた」
親、特に父は私が『私《スズ》』であることを望み、そうであると信じて疑わなかった。
だが無理もない、私は父の期待に応えるために信じてもいない神様に祈り続けてきたし、今までずっと『仮面』を付けて生きてきたのだから。
——ケイはそんな私の生き方に名前を与え、否定してくれた。
「それは『非本来的存在《ひほんらいてきそんざい》』ってやつだ。みんなの『常識』に従って、自分を生きない生き方だよ」
「——でも、みんな『常識』に従わないと生きていけない。だから『仮面』を着けざるを得ないと思って、私はずっと『いい子』を演じてる」
……そうしなければ『にせもの』の人たちは、私たちを受け入れてはくれないから。
自分を生きないことで自分を生かす——まるで『擬態』みたいな生き方をしなければならないのだと、私はずっと考えていた。
私の方を向くケイはいつになく真面目に、相槌を打ちながら私の話を聞いていた。
そして少し前のめりになりながら、私が彼に感じる一番大きな違和感を言語化した。
「だから『仮面』を着けていない僕が、何を考えているのか不思議で仕方がないと」
私は自分を演じる息苦しさを感じ続けてきたし、それを利用しようとする奴らが嫌いだ。
それでも『仮面』を守るためには、それを甘んじて受け入れるしかない。
その『仮面』すら『にせもの』の世界で生きる手段でしかないのに——彼はいったい何を考えて、何を生きているのだろうか。
彼の問いにコクリと頷いてみせると、彼はニヤリと笑い、自らが蓄えてきた知識と経験を披露するように語り始めた。
「地獄とは、他者である。他の人がいるから『仮面』をつけなきゃならないのさ」
誰よりも賢いケイが誰かと仲良くしようとすらしないのは不可解で、彼が誰かに認められようとすらしないのは何故なのか気になっていた。
だが——『他者《にせもの》』が地獄というのなら、説明がつく。
それが『仮面』を持たない理由であり、彼は『にせもの』に価値なんて求めずにいるのだろう。
「——世界が『にせもの』で溢れていて、そこには何の価値もないっていう考え方には、続きがあるんだ」
そう言うとケイは、私に『にせもの』のその先について語り始めた。
——存在していないものをどう『殺せ』というのだ。
そもそも私は神なんて信じていないし、仮に信じていたとして、実体のない『それ』を殺すというのはどういう意味なのだろう。
目の前の天才が意地悪く目を輝かせながら凡人の反応を見て楽しんでいて、私はその手のひらの上で踊らされる玩具《おもちゃ》にすぎないのだと理解していてもなお、この『仮面』の外し方を知っている彼の話が聞きたくて、悔しいことに目を離せなかった。
しかしそんな渇望にも似た好奇心を否定するように朝のホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り始めると、ケイは再び偶像の黄昏《たそがれ》に目を落とした。
慌てて教室に飛び込んできたリンに笑顔を返して、予鈴が終わる一秒前に悠々と現れた先生の号令に合わせて立ち上がる。
その後の五分休みのリンとの会話中も授業中も昼休みも、私は一日中『神を殺す』ことばかり考えていた。
——どうしても彼の話が聞きたくて仕方がなかった。
帰りのホームルームが終わりのんびりと荷支度をしているリンを置いて、私はそそくさと帰ろうとするケイに再び話しかけた。
「ねえ、今朝の話の続きなんだけど……」
本を手にしたまま立ち上がった彼を呼び止めたが、この優しくない男は私に一瞥《いちべつ》をくれてすぐにスタスタと教室から出ていく。
そんな彼の小さな背中が世界の秘密に導く何かに見えてしまった私だったが、急いで帰りの支度をしている親友の華奢な後ろ姿を見て、一瞬どちらを選べばよいのか迷う。
だがケイはすぐに答えを示した。
「知りたいのなら、着いて来ればいい」
彼の言葉を聞いた私はまとめてあった荷物を掴み、リンに「ごめん、また明日!」とだけ言い放ちケイを追った。
親友は少し驚いた顔をして振り返ったが、私のことを引き止めたりはせず小さく微笑んだのだった。
ケイは歩き読書をしたまま登下校口まで辿り着き、靴を投げるように下駄箱の前のタイルに置き、かかとを踏んでつま先で地面を蹴飛ばし、左手の人差し指でかかとを引きずり起こした。
日常のあらゆる動作、行動が面倒だと言いたげに見える彼は、それでも横目で私の所作を観察しており、よく見れば読書が進んでいる様子はなかった。
「どこで話すの?」
急いで彼の隣に着いた私は、この慌ただしい小さな旅の目的地を尋ねる。
公園の外れにある、リンとアルトラがよく使っていたという石のベンチか、近くにある小さな図書館か、はたまた神社《うち》の境内か。
東へと歩き始めたケイは私たちの行き先を、なんの躊躇も恥ずかしげもなく伝える。
「僕の家だけど」
すぐに私は警戒した。
当たり前だ、中学二年生の男子がそこまで仲の良くない同級生の女子を家に連れ込むとなれば、どんな噂が立つかもわからない。
私は彼のことをよく知らないし、自分の意志で着いて行って——親友と同じような目に遭ったとなれば、私は同情の対象にすらならないだろう。
それでも私は抗いがたい程に『知りたい』という理性的な欲望に支配されていて、それは本能的な警戒を簡単に解いてしまった。
——ずっと胸に引っかかっていた疑問の答えが、そこに行けば分かるかも知れないと思うと、その程度の『危険』は簡単に飲み込めた。
「わかった、着いてく」
このまま『にせもの』の正体を知らないまま『仮面』を着けて生きていくくらいなら、私自身が地獄に落ちたって構わない。
学校の隣にある公園に入ったところでケイは開いていただけの本に栞《しおり》を挟んで、黒い学生服のポケットに仕舞った。
つい二ヶ月前までよく見た東小校区の景色は、何故だがあの頃とはまた違った顔をしていた。
この道で噛みしめる歯は奥歯から前歯へと変わり、隣を歩く男は二周りほど小さくなっており、容赦なくスタスタと進む彼の歩調に合わせるのに必死だった。
そしていつもは左に進む三叉路を、右に進んですぐのところにある二階建ての古い民家の敷地にケイは足を踏み入れた。
私も恐る恐る、しかし堂々と一礼をしながら小さな用水路の金網を踏み越えて彼に着いていく。
そして彼が玄関をガラガラと開けながら「ただいま」と言うと、すぐに60歳過ぎくらいの優しそうなおばあちゃんが玄関までケイを出迎えに来た。
「お、お邪魔します」
「あら、いらっしゃい」
ケイのおばあちゃんが現れたことで警戒心はいつの間にか緊張へと変わっており、神社仕込みの深々としたお辞儀を送ると、彼女は柔らかい笑みを浮かべながら、唐突な訪問にも関わらず私の挨拶に答えてくれた。
そしてケイのそれとはまた違う、いたずらっぽい笑顔を彼に向けて、少しからかうように笑った。
「ケイや、もう彼女を連れてきたのかい」
「ちっ、ちがう!」
赤面したケイは振り向きもせずに靴を脱ぎ捨てながら、古い木製の階段を逃げるように駆け上がって行った。
——男というのは、どうしてこう簡単に人を置いていくんだろうか。
取り残された私たちはケイの姿が見えなくなってから目を合わせ、静かに微笑みあった。
「あらあら……どうぞ、ゆっくりしていってね」
仏様のように優しいおばあちゃんがスリッパを用意しようとして腰を曲げたのを、お辞儀だと勘違いした私は気恥ずかしくなって、誤魔化すようにケイの分まで靴を揃えた。
そんな彼女のご厚意に預かり、私はスリッパを履いてからもう一礼だけしてケイのあとを追った。
古い木と土壁の匂いがする廊下の突き当りの部屋のドアが開いており、そこがケイの部屋のようだった。
イメージ通りというか、ケイの部屋には難しそうな本が私の背丈程ある三つの本棚にほぼギッチリ詰まっており——それでも一部には、漫画やライトノベルも混ざっていた。
「昔は両親も隣の部屋で住んでたんだけど、色々あって今は一人で二階に住んでる」
ケイは学生服の上着を脱ぎ捨て、隣の部屋からそう話しながら椅子を引き出してきて、私に座るよう促した。
……彼の両親は三年前に交通事故で亡くなっているんだったか。
床にカバンを置き、用意された椅子に座る私を観察する彼の左頬がやや上がるのが、単に冷笑的な性格から来るのではなく、痛みを耐えるための強がりにも見えた。
——そして学習机に腰掛けたケイは、早速『にせもの』の話を始めたのだった。
「まず、君はどうして神様を信じてるの?」
見定めるかのように、それでいて何か期待するかのような目で、ケイは私を解体すべく問《と》った。
——そんなケイの目が、何故か蔑むようなあの目より怖く見えてしまったので、私は思わず目線をそらした。
「……簡単に言ってしまえば、神社生まれだから。親は私に神様に対して祈り、感謝しながら生きることを求めてた」
親、特に父は私が『私《スズ》』であることを望み、そうであると信じて疑わなかった。
だが無理もない、私は父の期待に応えるために信じてもいない神様に祈り続けてきたし、今までずっと『仮面』を付けて生きてきたのだから。
——ケイはそんな私の生き方に名前を与え、否定してくれた。
「それは『非本来的存在《ひほんらいてきそんざい》』ってやつだ。みんなの『常識』に従って、自分を生きない生き方だよ」
「——でも、みんな『常識』に従わないと生きていけない。だから『仮面』を着けざるを得ないと思って、私はずっと『いい子』を演じてる」
……そうしなければ『にせもの』の人たちは、私たちを受け入れてはくれないから。
自分を生きないことで自分を生かす——まるで『擬態』みたいな生き方をしなければならないのだと、私はずっと考えていた。
私の方を向くケイはいつになく真面目に、相槌を打ちながら私の話を聞いていた。
そして少し前のめりになりながら、私が彼に感じる一番大きな違和感を言語化した。
「だから『仮面』を着けていない僕が、何を考えているのか不思議で仕方がないと」
私は自分を演じる息苦しさを感じ続けてきたし、それを利用しようとする奴らが嫌いだ。
それでも『仮面』を守るためには、それを甘んじて受け入れるしかない。
その『仮面』すら『にせもの』の世界で生きる手段でしかないのに——彼はいったい何を考えて、何を生きているのだろうか。
彼の問いにコクリと頷いてみせると、彼はニヤリと笑い、自らが蓄えてきた知識と経験を披露するように語り始めた。
「地獄とは、他者である。他の人がいるから『仮面』をつけなきゃならないのさ」
誰よりも賢いケイが誰かと仲良くしようとすらしないのは不可解で、彼が誰かに認められようとすらしないのは何故なのか気になっていた。
だが——『他者《にせもの》』が地獄というのなら、説明がつく。
それが『仮面』を持たない理由であり、彼は『にせもの』に価値なんて求めずにいるのだろう。
「——世界が『にせもの』で溢れていて、そこには何の価値もないっていう考え方には、続きがあるんだ」
そう言うとケイは、私に『にせもの』のその先について語り始めた。
第6話『その先』
第6話『その先』
この世界の全ては『にせもの』で、誰もが何を信じて良いか分からないまま、ただ『役割』を持った『仮面』を着けて生きている。
ケイはそんな、私が今まで信じてきた事実を肯定した。
人間は『にせものを生きるための仮面』を守るために『にせもの』の世界に『地獄』を作っているに過ぎないのだと言ってのけたのだ。
「畢竟《ひっきょう》、人間は自分を自分として生きることが出来ない『弱者《ルサンチマン》』であり、それ故に全員がお互いに『末人《まつじん》』——普通であることを強要し続けているのさ」
これが『人間』の正体で、誰かに『地獄』を与えながら、自らも『地獄』を生きている。
それこそが私の『にせもの』に対する不信感の正体だった——つまり『誰かであることを誰かに強要する誰か』であることが『自分を自分で殺すことを許容する自分』を生み出していたのだ。
きっとケイは『突出した個』や『常識外れ』の存在を認めずカンニングを疑ったり、相容れない誰かを最低だと噂したりする『他者』を突き放している。
私たちが『仮面』を着けて行う全てを、生き方を『正当化』するための『傷の舐めあい』程度にしか思っていないのだろう。
……実際、私は自分の生き方が『正しくない』と知っているのに彼の生き方が『間違っている』と断じていた。
その根拠として取り上げた理屈すら、誰かによって与えられた『地獄の常套句《じょうとうく》』でしかなかった。
「自分が知っている世界だけが奴らにとっての現実で、奴らはそれが『嘘』の上に成り立っていることを疑ったりしない——それをすれば、自分の人生そのものを否定する『ニヒリズム』に陥るから」
……誰も『仮面』の裏側の涙なんて見ようとしない。
そこにあるのは『美しさ』であり、高潔な『犠牲』であり、彼らはいつだって『生贄』に許しを強要する。
それが『にせもの』にとっての現実であり、それを揺るがす行為は——醜《みにく》いのだ。
だから私の『仮面』は彼らを赦し、私の本当の気持ちを殺してでも『彼らの望む私』であることを望んだ。
裏側の醜い涙を隠して、私を殺し続ける『地獄』で生きることを望んだ。
——それ以外の生き方を知らないから。
「今までの生き方が間違っていたと知れば、人間は『世界の無意味さ』を知り、何も信じられなくなる。それが『ニヒリズム』さ」
……つまり私は、今までその『ニヒリズム』に陥《おちい》ることを恐れるあまりに『自分を殺す』ことを受け入れて来たのだろうか。
ずっと『にせもの』を疑いながら生きていたのに、私は『仮面《そこで生きる私》』を否定出来ず、人生の意味を『仮面《誰かのための私》』に注ぎ続けてしまった。
だから『仮面』は『私』の本音より優先されて当然で、価値のない『私』は『仮面《意味のある人生》』を外せなくなってしまっていた。
心のどこかでそれでもいつか、きっとどこかで神様が、という『地獄の常套句』に救いを求めてしまう程に、私の人生は『仮面』に支配されていた。
——しかしケイは、私のような『にせもの』不信の向かう先にある『終わり』を提示した。
「君が信じている『それでもきっと』という幻想は、必ず君の『本物』の願いを裏切り、引き裂くようなその痛みを無理やり飲み込ませてくるよ」
……嘘に期待して、また別の嘘を飲む。
私の生き方はずっとそうだった。
『本物《恋心》』を諦めれば『|にせもの《友情》』が続くと信じたし、『仮面』を守れば幸せになれると——なんの根拠もない幻想を信じて、それにすべてを捧げてきた。
ワガママの一つも言えないまま、求められた誰かであり続けることが私の幸せなのだと——自分に嘘を吐《つ》き続け、望みを希望に差し替えてきた。
「いつ壊れるかも分からないような『にせもの』に縋《すが》って生きるのではなく、自分自身の≪正しさ≫を信じ、自分のために生きること——ニーチェはそれを≪超人思想《ちょうじんしそう》≫と呼んだ」
「自分自身の≪正しさ≫を信じる……?」
自分が絶対的に正しいと思えるのなら、それに従って『にせもの』を自ら裏切り、自分自身という『絶対的な価値』にすべてを捧げて生きられる。
——確かに、そんなことが出来るのは『超人《すごい人》』だけだろう。
「ケイみたいに、誰もが賢いわけじゃない。私みたいな『末人《普通の人》』は、それでも『にせもの』を生きるために『仮面』が必要だと、思う」
私のそんな諦め——あるいは自分のこれまでの生き方を肯定しようとする『にせもの』の最後の抵抗、反論を睨んだケイは、そんな『仮面』を叩き割った。
「自分ではどうしようもない何かに従って『仮面』を着ける行為は『自分を生きない』ことで責任から逃れているに過ぎない」
「……責任」
自分が自分であることを自分で肯定していく『超人』の生き方は、責任を伴う。
「自分が信じられる≪正しさ≫を探し、自分の『答え』を出していく生き方。誰かに正しさを『保障』してもらいながら生きるのとは、比べ物にならないくらいの苦しみと不安を味わうことになる——だが、それが『本物』の人生だ」
自分が『にせもの』に縋って生きていることにすら気付くことなく『仮面』を着けて生きるのは『弱者』の生き方なのだ。
そしてそのことに気付いてもなお『仮面』を外さないのは——
『敗北者』の生き方なのだ。
「君はずっと昔からそれを疑問に思っていて、その答えを求め続けてきた」
「——うん」
「……どうした?」
私の顔を見たケイは、この歪んだ笑顔に驚いたのか、少し怖がるように眉を潜めながら私の顔色を伺った。
——人生の大半を支配し続けてきたその疑問の答えは、気持ちがいいくらい簡単に私が信じてきた『仮面』を着けるべきという『常識』をぶち壊した。
本当に、笑ってしまう。
「あの二人が今幸せなのも、私が幸せになれなかったのも、全部『仮面』に任せて自分を生きようとしなかったからなんだ」
ケイは私が何を言っているのか、当然理解していない。
ただ私の中で何かが壊れたのを感じたのか、息をのみながら様子をうかがっている。
私はただ、自らの過去を笑うしかない。
自分を利用する人たちも、自分に過度な期待をする家族も、自分を裏切った親友たちも、全部赦してやったのに。
私はお前たちのために私自身が『本物』であり続けることを諦めたというのに。
——誰一人として、私の本当の願いを叶えてくれなかったじゃないか。
私は無意味に自分を殺してきた。
無価値な世界に魂を捧げ続けてきた。
ああ、嫌いだ。本当にみんな嫌いだ。
私の『本物』の願いは、そんな奴らの幸せが続くことなんかじゃない。
押し殺されてきた私の醜い本性は今、心の底から願っているのだ。
——私の嫌いな奴らが、どうか地獄に落ちますように、と。
この世界の全ては『にせもの』で、誰もが何を信じて良いか分からないまま、ただ『役割』を持った『仮面』を着けて生きている。
ケイはそんな、私が今まで信じてきた事実を肯定した。
人間は『にせものを生きるための仮面』を守るために『にせもの』の世界に『地獄』を作っているに過ぎないのだと言ってのけたのだ。
「畢竟《ひっきょう》、人間は自分を自分として生きることが出来ない『弱者《ルサンチマン》』であり、それ故に全員がお互いに『末人《まつじん》』——普通であることを強要し続けているのさ」
これが『人間』の正体で、誰かに『地獄』を与えながら、自らも『地獄』を生きている。
それこそが私の『にせもの』に対する不信感の正体だった——つまり『誰かであることを誰かに強要する誰か』であることが『自分を自分で殺すことを許容する自分』を生み出していたのだ。
きっとケイは『突出した個』や『常識外れ』の存在を認めずカンニングを疑ったり、相容れない誰かを最低だと噂したりする『他者』を突き放している。
私たちが『仮面』を着けて行う全てを、生き方を『正当化』するための『傷の舐めあい』程度にしか思っていないのだろう。
……実際、私は自分の生き方が『正しくない』と知っているのに彼の生き方が『間違っている』と断じていた。
その根拠として取り上げた理屈すら、誰かによって与えられた『地獄の常套句《じょうとうく》』でしかなかった。
「自分が知っている世界だけが奴らにとっての現実で、奴らはそれが『嘘』の上に成り立っていることを疑ったりしない——それをすれば、自分の人生そのものを否定する『ニヒリズム』に陥るから」
……誰も『仮面』の裏側の涙なんて見ようとしない。
そこにあるのは『美しさ』であり、高潔な『犠牲』であり、彼らはいつだって『生贄』に許しを強要する。
それが『にせもの』にとっての現実であり、それを揺るがす行為は——醜《みにく》いのだ。
だから私の『仮面』は彼らを赦し、私の本当の気持ちを殺してでも『彼らの望む私』であることを望んだ。
裏側の醜い涙を隠して、私を殺し続ける『地獄』で生きることを望んだ。
——それ以外の生き方を知らないから。
「今までの生き方が間違っていたと知れば、人間は『世界の無意味さ』を知り、何も信じられなくなる。それが『ニヒリズム』さ」
……つまり私は、今までその『ニヒリズム』に陥《おちい》ることを恐れるあまりに『自分を殺す』ことを受け入れて来たのだろうか。
ずっと『にせもの』を疑いながら生きていたのに、私は『仮面《そこで生きる私》』を否定出来ず、人生の意味を『仮面《誰かのための私》』に注ぎ続けてしまった。
だから『仮面』は『私』の本音より優先されて当然で、価値のない『私』は『仮面《意味のある人生》』を外せなくなってしまっていた。
心のどこかでそれでもいつか、きっとどこかで神様が、という『地獄の常套句』に救いを求めてしまう程に、私の人生は『仮面』に支配されていた。
——しかしケイは、私のような『にせもの』不信の向かう先にある『終わり』を提示した。
「君が信じている『それでもきっと』という幻想は、必ず君の『本物』の願いを裏切り、引き裂くようなその痛みを無理やり飲み込ませてくるよ」
……嘘に期待して、また別の嘘を飲む。
私の生き方はずっとそうだった。
『本物《恋心》』を諦めれば『|にせもの《友情》』が続くと信じたし、『仮面』を守れば幸せになれると——なんの根拠もない幻想を信じて、それにすべてを捧げてきた。
ワガママの一つも言えないまま、求められた誰かであり続けることが私の幸せなのだと——自分に嘘を吐《つ》き続け、望みを希望に差し替えてきた。
「いつ壊れるかも分からないような『にせもの』に縋《すが》って生きるのではなく、自分自身の≪正しさ≫を信じ、自分のために生きること——ニーチェはそれを≪超人思想《ちょうじんしそう》≫と呼んだ」
「自分自身の≪正しさ≫を信じる……?」
自分が絶対的に正しいと思えるのなら、それに従って『にせもの』を自ら裏切り、自分自身という『絶対的な価値』にすべてを捧げて生きられる。
——確かに、そんなことが出来るのは『超人《すごい人》』だけだろう。
「ケイみたいに、誰もが賢いわけじゃない。私みたいな『末人《普通の人》』は、それでも『にせもの』を生きるために『仮面』が必要だと、思う」
私のそんな諦め——あるいは自分のこれまでの生き方を肯定しようとする『にせもの』の最後の抵抗、反論を睨んだケイは、そんな『仮面』を叩き割った。
「自分ではどうしようもない何かに従って『仮面』を着ける行為は『自分を生きない』ことで責任から逃れているに過ぎない」
「……責任」
自分が自分であることを自分で肯定していく『超人』の生き方は、責任を伴う。
「自分が信じられる≪正しさ≫を探し、自分の『答え』を出していく生き方。誰かに正しさを『保障』してもらいながら生きるのとは、比べ物にならないくらいの苦しみと不安を味わうことになる——だが、それが『本物』の人生だ」
自分が『にせもの』に縋って生きていることにすら気付くことなく『仮面』を着けて生きるのは『弱者』の生き方なのだ。
そしてそのことに気付いてもなお『仮面』を外さないのは——
『敗北者』の生き方なのだ。
「君はずっと昔からそれを疑問に思っていて、その答えを求め続けてきた」
「——うん」
「……どうした?」
私の顔を見たケイは、この歪んだ笑顔に驚いたのか、少し怖がるように眉を潜めながら私の顔色を伺った。
——人生の大半を支配し続けてきたその疑問の答えは、気持ちがいいくらい簡単に私が信じてきた『仮面』を着けるべきという『常識』をぶち壊した。
本当に、笑ってしまう。
「あの二人が今幸せなのも、私が幸せになれなかったのも、全部『仮面』に任せて自分を生きようとしなかったからなんだ」
ケイは私が何を言っているのか、当然理解していない。
ただ私の中で何かが壊れたのを感じたのか、息をのみながら様子をうかがっている。
私はただ、自らの過去を笑うしかない。
自分を利用する人たちも、自分に過度な期待をする家族も、自分を裏切った親友たちも、全部赦してやったのに。
私はお前たちのために私自身が『本物』であり続けることを諦めたというのに。
——誰一人として、私の本当の願いを叶えてくれなかったじゃないか。
私は無意味に自分を殺してきた。
無価値な世界に魂を捧げ続けてきた。
ああ、嫌いだ。本当にみんな嫌いだ。
私の『本物』の願いは、そんな奴らの幸せが続くことなんかじゃない。
押し殺されてきた私の醜い本性は今、心の底から願っているのだ。
——私の嫌いな奴らが、どうか地獄に落ちますように、と。
第7話『仮面の裏側』
第7話『仮面の裏側』
衝撃を抱えたまま眠れない夜の自室で、私は一人、常夜灯に照らされた布団の中でこれまでの人生を振り返る。
——私はとある人に恋をしていた。
彼は幼い頃から年に一度神社《うち》で行われる収穫祭に来ていたが、小学校が違ったということもあり、幼なじみという程の仲ではなかった。
彼のことをよく知るようになったのは、去年の収穫祭で彼が賽銭泥棒を働いていた不良を追っ払ってくれてからだった。
それからは周りに上手く馴染めていなかった彼の不器用な優しさや、誰かのために自分を犠牲にする——私の仮面が『理想』とするその生き方に、私は惹かれていった。
不器用な彼の前では『仮面』を忘れて『自分』でいられたし、彼はどんな私だって受け入れてくれた。
これが『にせもの』の世界が私にくれた唯一の幸せで、私の『意味』なのだと——そう感じさせてくれた。
だが、その人には既に侍《はべ》らせていた女の子がいた。
だから私はその子に遠慮して、まずは『二人の共通の友人』として近付いた。
私は始めから彼と恋仲になりたいと思っていたのだが、彼女がその人のことを好いていては申し訳ないと思い、告白の予定まで伝えてあったのだ。
彼女にその気があるなら「せーの」で彼に告白して、後腐れなく、全員が納得出来る形を望んでいた。
……しかし一番の友人になったその子は、私を裏切って『抜け駆け』をした。
——私は彼女に遠慮したのに、彼女は私を容赦なく蹴落とした。
その結果私は泣きを見る羽目になったにもかかわらず、幸せになった思い人と友人——裏切り者たちを、涙を呑んで祝福した。
結局私は遠慮をし続けて、恋人になった二人の前に姿を見せる機会を減らし、二人の前から緩やかに消え失せていこうとしていた。
これまで私の『仮面』はずっと、私自身よりも『にせもの』の世界を大切にし、私を裏切った奴らすら簡単に許し、私を殺し続けていた。
……私は諦め続けてきた。
『本物《ニヒリスト》』はずっと、不幸の原因が『仮面』なのだと知っていた。
世界は『にせもの』で、大した価値のない場所だと知っていたのに、信じるものを持たない私は全ての責任を『仮面』に押し付けていた。
自分の不幸を『仕方がないこと』だと、自分では『どうしようもないこと』だと言い聞かせて生きてきた。
それをケイは『無責任』だと言った——そんなものは『本物』の人生ではないと。
『仮面』を外せばきっと、みんな失望するだろう。
『仮面』の裏側の『本物』の私はきっと、今更二人を許さないだろう。
それでも。
私は、私の決定に従い、私自身を生きなくてはいけない。
——これ以上『本物』の私の傷口が広がる前に。
『にせもの』の笑顔を取り外し、私の笑顔を取り戻せるように。
翌朝から再開された朝のあいさつ活動には参加しなかった。
そんな時間があるなら、私はケイから『本物』に至るための『思想』を学ばなくてはいけないからだ。
燻《くすぶ》り続けた痛みを火に焚《く》べて燃やし尽くす手段を、私は求めていた。
それでもまだ『仮面《良い子の私》』は大胆な変化に怯えていた。
あとから先生に怒られるのではないかと小さな心を震えさせていたが、教室で彼の姿を見つけると、そんな怖さはすぐに消え失せたのだった。
朝から読書をしているケイは、私の存在には気付いたようだったが、一瞥《いちべつ》くれただけで、私に興味を示さなかった。
私はカバンを自分の机に投げ捨てて、彼の机に手を着いて話しかける。
「ケイ、おはよう。昨日はありがとう。おかげでくっだらない『仮面』を捨てることが出来たわ」
——ケイの思想は、一夜にして私の生き方を変えた。
本当はやりたくないことを自ら進んでやらなくなったことや、今までの生き方をくだらないと吐き捨てたのは、その一歩目に過ぎない。
しかし彼はつまらなさそうに、人を蔑むような眼で私を見た。
そして「あっそ」と呟くように私の『宣言』に応え、再び本に目を落とした。
そんな彼に『新しい生き方』の助言を受けようと近付いたところで——空気の読めない裏切り者は、教室に入ってすぐに遠慮なく話しかけた。
「あれ、スズちゃんおはよう。今日からあいさつ当番だって聞いてたから、玄関に居なくって何事かと思った!」
いつものように私の『仮面』に話しかける彼女は、机にカバンを置いて近付いてくる。
リンはいつも通り、私を裏切ったにも関わらず、私の『仮面』を利用しようとしたのだ。
——鬱陶しいな。
気安く私に手を触れようとしていた彼女は、私が振り返るとピタッと足を止めて、あいさつしようとして挙げていた手を、ゆっくりと下した。
『仮面』の裏側の眼を見せる私を、リンは不安そうな目で見つめながら、恐る恐る息を吸った。
「どうしたの……?」
怯えるように問いかけた彼女だが、しっかりと『あの日』のことを思い出しているかのようだった。
リンとアルトラが恋人になった翌日——私の許しの言葉を引き出すために土下座をしようとした日のことを。
憎しみに満ちた私の目は、知らないうちに釣り上がっていた。
——赤星《あかほし》 鈴《リン》は私を苦しめ続けてきた『地獄』の象徴であり、排除すべき敵である。
しかし彼女は、まさか今更親友の『仮面《役割》』を持つ私に敵意を持たれるとは思っていなかったようで、一歩|後退《あとずさ》りした。
「リン。こっちは取り込み中なんだけど、わかんないかな。本っ当に空気が読めないんだね」
——だからイジメられてたんでしょ?
剥き出しの敵意に晒された彼女は、困惑と動揺、恐怖とトラウマに苛まれながら目を大きく見開きながら浅い呼吸を繰り返す。
過呼吸のせいで音にはならない言葉を放とうとして、私の怒りに満ちた目に釘付けになっている。
——絶対に許してくれない相手が、そんなに怖い?
なのにあんな『裏切り』をしたのは、あなたの『仮面』がアルトラへの思いのために苦しむことを正当化したから?
私のこの苦しみさえ——お前の悲劇のヒロインとしての『仮面』を守るために利用できると、天才であるお前はきっと理解していた。
それでアルトラや私が各々の『仮面』を守るためにお前を許すと、わかっていたんだろう。
——許せない。
今までの鬱憤をぶちまけるために、裏切り者の眼を刺すように睨みながら、私は怯える彼女にゆっくりと迫った。
すると彼女は、椅子にぶつかりながら後ろ歩きで私から逃げ、しまいには必死で頭を守るような姿勢で「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝りながら、床にしゃがみ込んだ。
——ざまあみろ、裏切り者。
私の『本物』に一番傷を付けたお前は、そうやって謝り続けるのがお似合いだ。
私は彼女の様子に満足し、ため息を吐きながらケイの方に向き直った。
そして、質問の続きをしようとした。
すると彼もため息を吐いて、蔑むような目で私を見て、吐き捨てるように言った。
「——仮面の裏側も、結局全部『にせもの』じゃないか」
衝撃を抱えたまま眠れない夜の自室で、私は一人、常夜灯に照らされた布団の中でこれまでの人生を振り返る。
——私はとある人に恋をしていた。
彼は幼い頃から年に一度神社《うち》で行われる収穫祭に来ていたが、小学校が違ったということもあり、幼なじみという程の仲ではなかった。
彼のことをよく知るようになったのは、去年の収穫祭で彼が賽銭泥棒を働いていた不良を追っ払ってくれてからだった。
それからは周りに上手く馴染めていなかった彼の不器用な優しさや、誰かのために自分を犠牲にする——私の仮面が『理想』とするその生き方に、私は惹かれていった。
不器用な彼の前では『仮面』を忘れて『自分』でいられたし、彼はどんな私だって受け入れてくれた。
これが『にせもの』の世界が私にくれた唯一の幸せで、私の『意味』なのだと——そう感じさせてくれた。
だが、その人には既に侍《はべ》らせていた女の子がいた。
だから私はその子に遠慮して、まずは『二人の共通の友人』として近付いた。
私は始めから彼と恋仲になりたいと思っていたのだが、彼女がその人のことを好いていては申し訳ないと思い、告白の予定まで伝えてあったのだ。
彼女にその気があるなら「せーの」で彼に告白して、後腐れなく、全員が納得出来る形を望んでいた。
……しかし一番の友人になったその子は、私を裏切って『抜け駆け』をした。
——私は彼女に遠慮したのに、彼女は私を容赦なく蹴落とした。
その結果私は泣きを見る羽目になったにもかかわらず、幸せになった思い人と友人——裏切り者たちを、涙を呑んで祝福した。
結局私は遠慮をし続けて、恋人になった二人の前に姿を見せる機会を減らし、二人の前から緩やかに消え失せていこうとしていた。
これまで私の『仮面』はずっと、私自身よりも『にせもの』の世界を大切にし、私を裏切った奴らすら簡単に許し、私を殺し続けていた。
……私は諦め続けてきた。
『本物《ニヒリスト》』はずっと、不幸の原因が『仮面』なのだと知っていた。
世界は『にせもの』で、大した価値のない場所だと知っていたのに、信じるものを持たない私は全ての責任を『仮面』に押し付けていた。
自分の不幸を『仕方がないこと』だと、自分では『どうしようもないこと』だと言い聞かせて生きてきた。
それをケイは『無責任』だと言った——そんなものは『本物』の人生ではないと。
『仮面』を外せばきっと、みんな失望するだろう。
『仮面』の裏側の『本物』の私はきっと、今更二人を許さないだろう。
それでも。
私は、私の決定に従い、私自身を生きなくてはいけない。
——これ以上『本物』の私の傷口が広がる前に。
『にせもの』の笑顔を取り外し、私の笑顔を取り戻せるように。
翌朝から再開された朝のあいさつ活動には参加しなかった。
そんな時間があるなら、私はケイから『本物』に至るための『思想』を学ばなくてはいけないからだ。
燻《くすぶ》り続けた痛みを火に焚《く》べて燃やし尽くす手段を、私は求めていた。
それでもまだ『仮面《良い子の私》』は大胆な変化に怯えていた。
あとから先生に怒られるのではないかと小さな心を震えさせていたが、教室で彼の姿を見つけると、そんな怖さはすぐに消え失せたのだった。
朝から読書をしているケイは、私の存在には気付いたようだったが、一瞥《いちべつ》くれただけで、私に興味を示さなかった。
私はカバンを自分の机に投げ捨てて、彼の机に手を着いて話しかける。
「ケイ、おはよう。昨日はありがとう。おかげでくっだらない『仮面』を捨てることが出来たわ」
——ケイの思想は、一夜にして私の生き方を変えた。
本当はやりたくないことを自ら進んでやらなくなったことや、今までの生き方をくだらないと吐き捨てたのは、その一歩目に過ぎない。
しかし彼はつまらなさそうに、人を蔑むような眼で私を見た。
そして「あっそ」と呟くように私の『宣言』に応え、再び本に目を落とした。
そんな彼に『新しい生き方』の助言を受けようと近付いたところで——空気の読めない裏切り者は、教室に入ってすぐに遠慮なく話しかけた。
「あれ、スズちゃんおはよう。今日からあいさつ当番だって聞いてたから、玄関に居なくって何事かと思った!」
いつものように私の『仮面』に話しかける彼女は、机にカバンを置いて近付いてくる。
リンはいつも通り、私を裏切ったにも関わらず、私の『仮面』を利用しようとしたのだ。
——鬱陶しいな。
気安く私に手を触れようとしていた彼女は、私が振り返るとピタッと足を止めて、あいさつしようとして挙げていた手を、ゆっくりと下した。
『仮面』の裏側の眼を見せる私を、リンは不安そうな目で見つめながら、恐る恐る息を吸った。
「どうしたの……?」
怯えるように問いかけた彼女だが、しっかりと『あの日』のことを思い出しているかのようだった。
リンとアルトラが恋人になった翌日——私の許しの言葉を引き出すために土下座をしようとした日のことを。
憎しみに満ちた私の目は、知らないうちに釣り上がっていた。
——赤星《あかほし》 鈴《リン》は私を苦しめ続けてきた『地獄』の象徴であり、排除すべき敵である。
しかし彼女は、まさか今更親友の『仮面《役割》』を持つ私に敵意を持たれるとは思っていなかったようで、一歩|後退《あとずさ》りした。
「リン。こっちは取り込み中なんだけど、わかんないかな。本っ当に空気が読めないんだね」
——だからイジメられてたんでしょ?
剥き出しの敵意に晒された彼女は、困惑と動揺、恐怖とトラウマに苛まれながら目を大きく見開きながら浅い呼吸を繰り返す。
過呼吸のせいで音にはならない言葉を放とうとして、私の怒りに満ちた目に釘付けになっている。
——絶対に許してくれない相手が、そんなに怖い?
なのにあんな『裏切り』をしたのは、あなたの『仮面』がアルトラへの思いのために苦しむことを正当化したから?
私のこの苦しみさえ——お前の悲劇のヒロインとしての『仮面』を守るために利用できると、天才であるお前はきっと理解していた。
それでアルトラや私が各々の『仮面』を守るためにお前を許すと、わかっていたんだろう。
——許せない。
今までの鬱憤をぶちまけるために、裏切り者の眼を刺すように睨みながら、私は怯える彼女にゆっくりと迫った。
すると彼女は、椅子にぶつかりながら後ろ歩きで私から逃げ、しまいには必死で頭を守るような姿勢で「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝りながら、床にしゃがみ込んだ。
——ざまあみろ、裏切り者。
私の『本物』に一番傷を付けたお前は、そうやって謝り続けるのがお似合いだ。
私は彼女の様子に満足し、ため息を吐きながらケイの方に向き直った。
そして、質問の続きをしようとした。
すると彼もため息を吐いて、蔑むような目で私を見て、吐き捨てるように言った。
「——仮面の裏側も、結局全部『にせもの』じゃないか」
第8話『まるで、神様』
第8話『まるで、神様』
仮面の裏側も結局全部にせものだ。
ケイのそんな言葉に、肩の力が抜けていき、冷たい空気が浅く肺を突くのを感じた。
——なんで?
私の疑問に答えをくれたのはケイで、あなたが新しい生き方を提示してくれたのに。
どうして今の私に対して『にせもの』なんて言葉が出てくるの?
どうしてそんな冷たい目で——私を見すらせず、興味もなさそうにしているの?
ケイに言われたとおり自分の『本物』に従って、目の前の『地獄』に立ち向かったのに。
どうして、今の私が『にせもの』なの?
「なんで——」
私はケイの机の前に立ち、問い詰めるように手のひらを叩きつける。
その音で周りの生徒たちが静まり返ったことで、周りが私の『仮面』が割れる瞬間に期待していることに気付いた。
真面目で普段は大人しい女子が、空気の読めない友人に怒り、一匹狼の嫌な奴相手に詰め寄る光景は——
さぞ面白く見えるのだろう。
「私は——どうしたらいいの?」
分からなかった。
分からないまま呆然としていると、ケイの机の上に置かれた両掌は知らぬ間に握りこぶしを作っていた。
リンを私の世界から排除して、ケイの思想を私の世界に注入する。
それが私の向かうべき道のはずだった。
それなのに、どうして彼は——
——私に失望しているの?
今まで生きてきた世界からの『逸脱《いつだつ》』を期待する目と、生まれ変わろうとする私に対する『恐怖』の目と、新たな世界からの『拒絶』の目。
その全てが「お前に居場所はない」と告げている。
ただ、私をここに導き突き放した男の頭頂を睨みながら、重たい空気をなんとか肺に取り込み続ける。
そんな私にようやく一瞥《いちべつ》をくれたケイは、ため息を吐きながら、私が『世界を生きるに値しない存在』である理由を述べた。
「……結局お前は、自分の生き方を『正当化』するために『仮面』を必要としている」
「——違う、私はもう『仮面』なんて着けてない」
「じゃあ僕に構うなよ」
私の目を睨み返したケイに、思わず恐怖心を抱く。
わからない——なぜ彼はそんなに私を拒絶するのだろう。
「私、なにか気に触るようなことでもした——?」
「別に——」
「じゃあなんで——」
私が質問をしようとしたところで、ケイは遂に舌打ちをし、まくし立てるように話し始める。
「お前は面倒な『仮面』を取り外して今までの世界を捨てることを『正当化』するために、僕の考え方に『依存』しようとしているに過ぎない」
——依存?
「……違う!」
私は依存なんてしない、私はリンとは違う、私は——
アルトラを諦めたんだから——
「挙句の果てに新しい『仮面《生き方》』を誰かに|仕上げ《与え》させる——僕の考え方に『依存』することで、自分の生き方にすら責任を持たずに生きようとしている」
「——違う」
「畢竟《ひっきょう》、お前は筋金入りの『にせもの』で、それ以前に『人間として終わっている』のさ」
ケイは私を突き放すようにそう言い放った。
……全身の力が抜けるようだった。
結局全ては『にせもの』で、いつだって、誰だって私を裏切るのに、私は何故か——よりにもよって彼だけは違うと勘違いしてしまった。
彼だけは、私の苦しみを『理解』してくれると。
——それが自分を生きないことへの『正当化』に過ぎないと、彼は私に突きつけた。
「だまれ……」
私はただ、この世界で幸せになりたかっただけ。
誰もが信じる『にせもの』の中で、誰かのための『仮面』を着けてでも、この世界で生きたかっただけ。
それを利用する奴らがいるから、嫌なことを全部押し付けられて、苦しい思いをして、引き千切られるような胸の痛みを味わった。
——それでも私は、彼らの幸せを願っていた。
「お前なんかに、何が分かる……」
誰かに都合よく利用されても良い子として振る舞い続ける辛さが、お前に分かるもんか。
誰かに教えを請う気恥ずかしさ、麻痺する程に傷付いた凡人のプライドが、お前に分かるもんか。
周りの野次馬どもに壊れることを期待される苛立ちが、お前に分かるもんか。
初めて好きになった人を自ら諦めた私の気持ちが、お前に——分かるもんか。
「なにが『ごめんなさい』だ」
そう唱えれば、私は許してくれるから。
そう唱えれば、私は受け入れてくれるから。
このまま『地獄《にせもの》』の世界を生きるくらいなら——
私は、誰かに認められようとも、許されようとも思わない。
それでも背後で泣き崩れる親友を憐れむ気持ちが微《かす》かに残っているのが、本当に気持ち悪い。
……もう何も分からない、全てがどうでもいい。
きっとこれがケイの言うところの『ニヒリズム』であり、親切にも彼はその体験を何よりもわかりやすく、誰よりも簡単に教えてくれた。
そして、そんな私に、未完成の『仮面』は促した。
——全部ぶち壊せ、もう二度と誰も信じなくてもいい。
二度と誰にも信じられなくてもいい。
——私は、私のために、私であるのだから。
「——ケイも! リンも! アルトラも! みんな死ねばいい! みんな地獄に落ちろ! 人の苦しみなんて何も知らないくせに、私が笑顔の下で何を思って、何を感じているのかなんて、理解しようともしないで!!」
良い人の『仮面』の裏側、誰かに認められることなど決してない『本物』の私。
——誰にも『正当化』されていない未完成の私は、私の痛みを燃料に、すべてを燃やし始める。
……言ってやった、全部言ってやった!
「お前らなんて全員死ねばいい!!」
蹴り飛ばされたケイの机が教科書やノートを吐き出し、振り返りざまに蹴り上げられた椅子が、小さくなって謝罪を加速させるリンにぶつかり転ばせた。
教室の誰も私を止めることはせず、私は裏切り者の背中を蹴り、足首が壊れそうになるまで蹴り続けた。
「死ね、死ね!! 嘘つき、裏切り者!」
「ごめんなさい! ごめんなッ——さいっ!!」
小さく丸まりながら頭を守る裏切り者の背を、肩を、踵《かかと》で踏みつぶすように蹴りつける。
——そうだ、椅子で殴ってやったら、この子は死んでくれるかな?
「アルトラ! 早く来い!!」
野次馬が今更良い人ぶって、騒ぎを収めるために『みんなのヒーロー』を呼び出す。
——私にも分かるよ、その気持ち。
どれだけ汚れた心で誰かが傷付くことを期待していても、いざ事が起き始めると躊躇する気持ち。
——人間なんて、みんな終わってる。
「リン——スズ!?」
呼び声を聞いてすぐに駆けつけたかつての思い人は、私を見るなり驚いて声を上げた。
そしてこの手に握られている椅子が彼女を傷付けるためのものだと理解して、すぐに彼は飛びかかってきて、私は地面に押さえ付けられて体を動けなくされた。
「——離してよアルトラ!」
柔道仕込みだという彼の拘束からは抜け出せそうにもないが、足が痛むのにも、手が痛むのにも構わず、当たり散らかし、叫び散らかした。
「スズ——ごめん……ごめんなさい……」
大好きだった人が、横に転がっている泣き虫女と同じように、慟哭しながら私に対して謝り続ける。
「死ね、死ね、死ね——っ」
喉が痛くなる程に泣き叫びながら大好きな人に抱き締められ、全てが嫌になった私は、自らの頭を硬い木製の床に打ち付ける。
鼻の奥がツンとした青い痛みを感じる中、アルトラは必死で私の後頭部に右手を置いて、私の自傷行為を止める。
そんな『にせもの』の世界に——私は何故だか少し、満足感を感じた。
まるで遠くから自分を眺めているような私がいて、今起きている全部が『にせもの』の映像か何かのように感じられた。
ああ——気持ちが良い。
私の『本物』が、今まで散々私の『仮面』を利用して来た奴らを苦しめて、みんなが私の苦しみを理解しようとしている。
見てよリン、アルトラは私が死のうとしてるのを、必死に止めてくれてるよ。
私のために、必死で戦ってくれているよ。
……私を選ばなかったことを、こんなに後悔してるんだよ。
——ああ。
こんなことなら、もっと早くあんな『仮面』は外しておけば良かった。
仮面の裏側も結局全部にせものだ。
ケイのそんな言葉に、肩の力が抜けていき、冷たい空気が浅く肺を突くのを感じた。
——なんで?
私の疑問に答えをくれたのはケイで、あなたが新しい生き方を提示してくれたのに。
どうして今の私に対して『にせもの』なんて言葉が出てくるの?
どうしてそんな冷たい目で——私を見すらせず、興味もなさそうにしているの?
ケイに言われたとおり自分の『本物』に従って、目の前の『地獄』に立ち向かったのに。
どうして、今の私が『にせもの』なの?
「なんで——」
私はケイの机の前に立ち、問い詰めるように手のひらを叩きつける。
その音で周りの生徒たちが静まり返ったことで、周りが私の『仮面』が割れる瞬間に期待していることに気付いた。
真面目で普段は大人しい女子が、空気の読めない友人に怒り、一匹狼の嫌な奴相手に詰め寄る光景は——
さぞ面白く見えるのだろう。
「私は——どうしたらいいの?」
分からなかった。
分からないまま呆然としていると、ケイの机の上に置かれた両掌は知らぬ間に握りこぶしを作っていた。
リンを私の世界から排除して、ケイの思想を私の世界に注入する。
それが私の向かうべき道のはずだった。
それなのに、どうして彼は——
——私に失望しているの?
今まで生きてきた世界からの『逸脱《いつだつ》』を期待する目と、生まれ変わろうとする私に対する『恐怖』の目と、新たな世界からの『拒絶』の目。
その全てが「お前に居場所はない」と告げている。
ただ、私をここに導き突き放した男の頭頂を睨みながら、重たい空気をなんとか肺に取り込み続ける。
そんな私にようやく一瞥《いちべつ》をくれたケイは、ため息を吐きながら、私が『世界を生きるに値しない存在』である理由を述べた。
「……結局お前は、自分の生き方を『正当化』するために『仮面』を必要としている」
「——違う、私はもう『仮面』なんて着けてない」
「じゃあ僕に構うなよ」
私の目を睨み返したケイに、思わず恐怖心を抱く。
わからない——なぜ彼はそんなに私を拒絶するのだろう。
「私、なにか気に触るようなことでもした——?」
「別に——」
「じゃあなんで——」
私が質問をしようとしたところで、ケイは遂に舌打ちをし、まくし立てるように話し始める。
「お前は面倒な『仮面』を取り外して今までの世界を捨てることを『正当化』するために、僕の考え方に『依存』しようとしているに過ぎない」
——依存?
「……違う!」
私は依存なんてしない、私はリンとは違う、私は——
アルトラを諦めたんだから——
「挙句の果てに新しい『仮面《生き方》』を誰かに|仕上げ《与え》させる——僕の考え方に『依存』することで、自分の生き方にすら責任を持たずに生きようとしている」
「——違う」
「畢竟《ひっきょう》、お前は筋金入りの『にせもの』で、それ以前に『人間として終わっている』のさ」
ケイは私を突き放すようにそう言い放った。
……全身の力が抜けるようだった。
結局全ては『にせもの』で、いつだって、誰だって私を裏切るのに、私は何故か——よりにもよって彼だけは違うと勘違いしてしまった。
彼だけは、私の苦しみを『理解』してくれると。
——それが自分を生きないことへの『正当化』に過ぎないと、彼は私に突きつけた。
「だまれ……」
私はただ、この世界で幸せになりたかっただけ。
誰もが信じる『にせもの』の中で、誰かのための『仮面』を着けてでも、この世界で生きたかっただけ。
それを利用する奴らがいるから、嫌なことを全部押し付けられて、苦しい思いをして、引き千切られるような胸の痛みを味わった。
——それでも私は、彼らの幸せを願っていた。
「お前なんかに、何が分かる……」
誰かに都合よく利用されても良い子として振る舞い続ける辛さが、お前に分かるもんか。
誰かに教えを請う気恥ずかしさ、麻痺する程に傷付いた凡人のプライドが、お前に分かるもんか。
周りの野次馬どもに壊れることを期待される苛立ちが、お前に分かるもんか。
初めて好きになった人を自ら諦めた私の気持ちが、お前に——分かるもんか。
「なにが『ごめんなさい』だ」
そう唱えれば、私は許してくれるから。
そう唱えれば、私は受け入れてくれるから。
このまま『地獄《にせもの》』の世界を生きるくらいなら——
私は、誰かに認められようとも、許されようとも思わない。
それでも背後で泣き崩れる親友を憐れむ気持ちが微《かす》かに残っているのが、本当に気持ち悪い。
……もう何も分からない、全てがどうでもいい。
きっとこれがケイの言うところの『ニヒリズム』であり、親切にも彼はその体験を何よりもわかりやすく、誰よりも簡単に教えてくれた。
そして、そんな私に、未完成の『仮面』は促した。
——全部ぶち壊せ、もう二度と誰も信じなくてもいい。
二度と誰にも信じられなくてもいい。
——私は、私のために、私であるのだから。
「——ケイも! リンも! アルトラも! みんな死ねばいい! みんな地獄に落ちろ! 人の苦しみなんて何も知らないくせに、私が笑顔の下で何を思って、何を感じているのかなんて、理解しようともしないで!!」
良い人の『仮面』の裏側、誰かに認められることなど決してない『本物』の私。
——誰にも『正当化』されていない未完成の私は、私の痛みを燃料に、すべてを燃やし始める。
……言ってやった、全部言ってやった!
「お前らなんて全員死ねばいい!!」
蹴り飛ばされたケイの机が教科書やノートを吐き出し、振り返りざまに蹴り上げられた椅子が、小さくなって謝罪を加速させるリンにぶつかり転ばせた。
教室の誰も私を止めることはせず、私は裏切り者の背中を蹴り、足首が壊れそうになるまで蹴り続けた。
「死ね、死ね!! 嘘つき、裏切り者!」
「ごめんなさい! ごめんなッ——さいっ!!」
小さく丸まりながら頭を守る裏切り者の背を、肩を、踵《かかと》で踏みつぶすように蹴りつける。
——そうだ、椅子で殴ってやったら、この子は死んでくれるかな?
「アルトラ! 早く来い!!」
野次馬が今更良い人ぶって、騒ぎを収めるために『みんなのヒーロー』を呼び出す。
——私にも分かるよ、その気持ち。
どれだけ汚れた心で誰かが傷付くことを期待していても、いざ事が起き始めると躊躇する気持ち。
——人間なんて、みんな終わってる。
「リン——スズ!?」
呼び声を聞いてすぐに駆けつけたかつての思い人は、私を見るなり驚いて声を上げた。
そしてこの手に握られている椅子が彼女を傷付けるためのものだと理解して、すぐに彼は飛びかかってきて、私は地面に押さえ付けられて体を動けなくされた。
「——離してよアルトラ!」
柔道仕込みだという彼の拘束からは抜け出せそうにもないが、足が痛むのにも、手が痛むのにも構わず、当たり散らかし、叫び散らかした。
「スズ——ごめん……ごめんなさい……」
大好きだった人が、横に転がっている泣き虫女と同じように、慟哭しながら私に対して謝り続ける。
「死ね、死ね、死ね——っ」
喉が痛くなる程に泣き叫びながら大好きな人に抱き締められ、全てが嫌になった私は、自らの頭を硬い木製の床に打ち付ける。
鼻の奥がツンとした青い痛みを感じる中、アルトラは必死で私の後頭部に右手を置いて、私の自傷行為を止める。
そんな『にせもの』の世界に——私は何故だか少し、満足感を感じた。
まるで遠くから自分を眺めているような私がいて、今起きている全部が『にせもの』の映像か何かのように感じられた。
ああ——気持ちが良い。
私の『本物』が、今まで散々私の『仮面』を利用して来た奴らを苦しめて、みんなが私の苦しみを理解しようとしている。
見てよリン、アルトラは私が死のうとしてるのを、必死に止めてくれてるよ。
私のために、必死で戦ってくれているよ。
……私を選ばなかったことを、こんなに後悔してるんだよ。
——ああ。
こんなことなら、もっと早くあんな『仮面』は外しておけば良かった。
第9話『』
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